第1話 婚約破棄とデスマーチ
カタカタカタカタ……。
飲み干したエナジードリンクの瓶が、ディスプレイの横に並んでいる。
俺は4本目を空けると、静かにその瓶を列に加えた。
突発的な仕様変更で、4日目へと突入した終わりの見えぬデスマーチ──。
バグだらけの画面を見つめすぎて、既に何度もゲシュタルト崩壊を招いている。
あらゆる感覚が狂ってきているのか、周囲の音も遠く霞んで聞こえる。
(……あぁ、寝たい。今すぐ枕にダイブして泥のように眠りたい)
現実を拒否し始める俺の脳裏で、なぜか昔読んだWEB小説『悪役令嬢サトリアーナ』が、呪いのようにリフレインしていた。
ありきたりで、ほんの序章で読むのを止めてしまった、掃いて捨てるほどある異世界転生もの。
だが、午前3時の蛍光灯の下、エラーログの山に埋もれている今の俺の状況と、膨大なネットの海に沈むストロングスタイルのネタ小説、
(……どっちが笑える存在だろうな)
ふと、そんなことを考えてしまう。
「おい佐藤ォォォ!!」
鼓膜を破らんばかりの怒鳴り声と同時に、俺のデスクのパーテーションが激しく揺れた。
ビクッとして顔を上げると、そこには丸いお腹を怒りで震わせ、ただ染めただけの茶髪を揺らす、システム開発部の部長にして、直属の上司……
吉岡 虎之介(45・男)が立っていた。
マウンティングが大好物の虎ならぬ豚である。
「ひゃいっ!?」
俺は変な声を上げて椅子から跳び上がった。左手は無意識にキーボードの『Ctrl + S』を連打している。
「PCがクラッシュして今書いているコードが消えようものなら、死ぬ」という、不眠不休がもたらした社畜の悲しき条件反射だ。
「ひゃい、じゃないわ! クライアントから入った修正案の提出期限、あと30分だぞ! なんだその死んだ魚のような目は! 脳みそ腐ってんのか!」
「す、すみません、吉岡部長……ちょっと、頭がぼーっとしてまして……」
ディスプレイを、ただ眺めている訳ではない。
終わらないのだ。
俺の視界には、相変わらず不具合だらけのソースコードが呪文のように並んでいる。
しがない、凡庸なシステムエンジニア。
佐藤 明成(26・男)。
それが俺だ。
徹夜4日目の心身は限界を迎え、文字通り「必死」にキーボードを叩いているに過ぎない。
怒鳴り散らす吉岡部長の陰から、ぬるりと滑り込むように、棘のある響きが割り込んできた。
「佐藤君……きみね、技術がないなら、時間と体力勝負の『兵隊』として戦う他ないんだよ? あと30分、死ぬつもりでキーボード叩けばこのクソ仕様くらい片付くでしょ?」
眼鏡を光らせて追い打ちをかけてきたのは、同じエンジニアの課長──根津 有由(36・男)だ。
安全圏から理不尽を押し付けてくるタチの悪い男である。
「あははは! 先輩、顔色ヤバッ! ゾンビって初めて見るッス! 衝撃映像ッス!」
Z世代の後輩──鈴木 瑠海斗(22・男)が、スマホを片手に空元気な笑い声を上げている。
デスマーチと凄惨な空気に耐えかね、無理にでも笑う事で正気を保とうとしているようだ。
「まあまあ、吉岡部長も根津課長も。彼はもう4日も徹夜してますから。ほら、佐藤くん、温かいお茶でも飲みなよ」
そう言って湯呑みを差し出してくれたのは、仏の先輩──三浦 祐司(35・男)。
いつも静かに、職人としての誇りを持って黙々とタスクをこなす、この地獄の部署で唯一の聖人である。
「……す、すみません。すぐやります……」
本能が防衛反応を示したのか、気が付くと俺の両手はデスクに置いてあった仕様書の裏紙をギチギチと硬く丸めていた。
意味もなく丈夫な紙の筒をペン立てに突き刺し、再び焦点の合わない目でキーボードへと手を伸ばす。
もう駄目だ。
これ以上現実を見たら、心が死ぬ。
その時、カタカタとタイピングを始めた俺の意識の奥深くで、ファンファーレと共に小気味よいシステム音が鳴り響く。
『ピコーン! 転生特典スキル【無限ガチャ】および【全属性魔法】が解放されました』
視界の端の蛍光灯の光が、滲んで、歪んで、なぜかキラキラとした七色の光を放つクリスタルガラスのシャンデリアへと形を変えていく──。
大理石の床。磨き抜かれたその表面。集まった貴族たちの華やかなドレス。
その、きらびやかな世界の中心で、栗色髪のいけすかない男、王太子のヨシオラートが俺に指を突きつけていた。
その後ろには、狡猾な笑みを浮かべる宰相ネズリアンの姿があった。
「サトリアーナ・フォン・アスラント! お前との婚約を破棄し、我が国より追放処分とする!」
(え? なにこれ。俺、悪役令嬢サトリアーナに転生した……!? い、いや、そんな事より……国外追放!?)
──それじゃあ俺……! これから……!
今からあの1万行のクソ仕様変更の修正、やらなくていいの!?
指示が二転三転するクライアントの相手も、吉岡豚之介のマウンティングも、全部、全部……無し……!?
いぃぃやっほぉぉい!!
有給消化なんてどうでもいい! 今すぐお先に失礼します!!
限界を迎えた思考のバーストモード。
サトリアーナ【中身:ウルトラハッピー佐藤】は、見たこともない満面の笑みで、ドレスの裾を上品につまんで夜会会場の全員に言い放った。
「ぁぁあ……! 喜んで!! お先に失礼いたします!!」
「──おい佐藤ォ! なぁにぃが『お先に失礼いたします』だ! ニヤついた顔しやがって、喧嘩売ってんのかゴラァ!!」
バァァァン!! と吉岡部長が俺のデスクを叩いた音で、シャンデリアの幻覚が消え去り、再び深夜のオフィスに引き戻された。
普段の俺なら、ここで血の気が引いて縮こまるはずだった。
だが、連日のデスマーチでバーストした俺の精神は、完全に『悪役令嬢サトリアーナ』の傲岸不遜な魂と同期していた。
目の前で真っ赤な顔をして机を叩く吉岡部長が、断罪イベントで妄言をのたまう王太子ヨシオラートにしか見えない。
「……喧嘩? 滅相もございませんわ、ヨシオラート殿下」
俺は椅子の背もたれにゆったりと体を預け、死んだ魚の目のまま、フッと冷ややかな、しかし極めて優雅な笑みを浮かべた。
「な、何だお前急に……、ヨシオ……ラ……?」
「これほどのクソ仕様変更を30分で直せと吠えるその無能ぶり……。お可哀想に、脳みそが腐っていらっしゃるのはどこのオークかしら? 」
「──安心なさい、その魔獣、わたくしが片付けて差し上げますわ」
深夜のオフィスに響いた、明らかにいつもの社畜のものではない、冷徹で気高い悪役令嬢の気迫。
「う、うぉぉ……」
吉岡はゾクッと背筋を凍らせ、驚きと恐怖で一歩後ずさりした。
だが同時に、彼の胸中ではこれまで味わったことのない衝動が駆け巡っていた。
いつもなら自分に怯え、ひたすら命令に従うしか能のなかった『兵隊』の、その虫けらを見下すが如く冷たい瞳、その悪舌に。
(な、なんだこの感覚は……。激しく罵倒されているはずなのに、何だか胸のあたりが……妙にドキドキと……熱い……!?)
吉岡は顔を真っ赤にしたまま、自分の内側に芽生えた謎の高揚を必死に振り払うように、慌てて憎まれ口を叩いた。
「ふ、ふざけた事言ってねぇでサッサと仕事しやがれ! 終わるまで帰れると思うなよ!」
ドタドタと足音を荒げて去っていくオークの背中を見送りながら、俺は深くため息をついた。
もう自分の理性が制御できない。
俺はキーボードを叩きながら、再び意識のチャンネルを異世界での国外追放先、紫色の霧が立ち込める危険地帯……
──「魔の森」へと、じわじわと滑らせていった。




