9:アーノルドとシエナ
自由がない歴代の皇后の幼少期に比べればはるかに自由な生活を送れていたせいもあるのだろう。昔のシエナは公の場でこそ完璧な淑女として振る舞ってはいたが、皇族居住区の中ではもっと豊かに感情を表現していた。
アーノルドが可愛いと言えば頬を赤らめ、悪戯をすれば口を尖らせて怒り……。年頃になり、ロイとアーノルドが寄宿学校に入るときは、寂しいから行かないでほしいと彼らに縋って大泣きした。
年相応の、天真爛漫で可愛らしいお姫様で女王様。それがシエナだった。
アーノルドはそんなシエナの太陽のように眩しい笑顔が好きだった。
だが結婚してから徐々に、彼女は皇族らしい笑顔しか見せなくなっていった。それまでは公式な場と非公式な場でうまく顔を使い分けていたのに、いつの間にか、アーノルドが気がついた時には彼女が腹の底から笑うことはなくなっていた。
これも妃教育の賜物だろうか。アーノルドが即位し、皇后になった頃にはもう、シエナは夫であるアーノルドに対してすらも『皇后として』接するようになっていた。
「感情を表に出すことが皇后として相応しくないのはわかる。だが、せめて自分の前だけでは昔のように歯を見せて笑ってほしい。声を荒げて怒ってほしい。嫌なら嫌だと泣き叫んで欲しい……。なんて事を言うと、『いつまでも昔話されても困ります』とか言い返されそうだな」
アーノルドは寝室のベッドの上でポツリと呟いた。おそらくその考えは正解だろう。昔は良かったという奴の八割は今を見ていない。
「くそっ……。俺はシエナしか好きじゃないんだよ!愛人なんていらないんだよ!」
布団を抱きしめたアーノルドはそこに顔を埋めて叫ぶ。
ここ最近、元老院のジジイだけでなく、シエナさえも彼に愛人を勧めるようになってきていた。自分には子が産めないかもしれないから、と。淡々と、いつもと変わらぬ笑みを浮かべてそう言うのだ。
子どもができなくてもアーノルドはシエナ以外の女に触れる気などない。だが、皇帝という地位はそれを許さない。シエナ以外の女はいらないと言っても、彼女はいつも決まって『貴方は皇帝だから』と返す。
アーノルドにはシエナの気持ちがわからなかった。彼女にとっての自分とは『皇帝』でしかないのだろうか。彼女は自分が他の女に触れる事をなんとも思わないのだろうか。そう思うとやるせ無い気持ちになる。
(……少しやけになっていたのかもしれない)
愛人の存在がリアルなものとなれば、嫉妬して、自分以外の人間をそばにおかないでと言ってくれるかもしれないと期待した。考えを改めてくれるかもしれないと期待していた。
「言うはずがないのに」
アーノルドは自嘲するように吐き捨てた。シエナは完璧な皇后だ。この国のために生きている。グダグダとただ駄々を捏ねているアーノルドとはそもそもの覚悟が違うのだ。
「上手くいかないものだなぁ」
アーノルドは薬指にはめられた指輪にそっと唇を落とした。
あれは十歳になったばかりの頃。おべっかばかり並べて機嫌を取ってくる貴族たちの相手に疲れ、二人でこっそり夜会を抜け出して木登りをした時に誓った。夜空の一番高いところに登る月に向かって、『病めるときも、健やかなるときも、二人が死を分かつまで、お互いだけを愛する』と。そして、花で作った指輪を交換した。
あの時から、彼の想いは変わっていない。けれどやはり、シエナは変わってしまったのだろう。いつの間にか、彼らの間には大きな溝ができていた。
***
暫くして寝室へとやってきたシエナはベッドの横にしゃがむと、眠るアーノルドの顔を覗き込んだ。
「馬鹿にすんなよ、こら」
シエナは口を尖らせながら、ボソッと呟いた。
確かに、シエナは愛人を作れと言った。結婚して七年。子宝に恵まれないのなら、そろそろ視野を広く持ち、選択肢を増やさねばならない。皇帝がその血を繋ぐということは皇帝夫妻にとって最も大切な義務だから。
だから、彼女は政治的な面も配慮しつつ、寡婦や生活に困窮している貴族子女の中からアーノルドと生まれた子を心の底から愛し、守ってくれそうな女性を数名見繕っていた。そして近々、その女性たちと面談し、そのうちの一人にアーノルドと関係を持ってくれないかとお願いするつもりだった。
シエナ自身も、これは非人道的で倫理観に欠ける嫌なお願いだと思う。けれど側室を持てないこの国で、子が産めない皇后に用意された選択肢は愛人を用意するか、離縁かの二択だ。
(……別れたくは、ない)
皇后という地位につくまでの苦労を水の泡にしたくはない。手がけている治水事業もまだ途中で、無責任に誰かに任せたりなどしたくない。
そして何より、アーノルドの隣を誰にも譲りたくはない。母にはなれずとも、妻ではあり続けたい。
シエナは呑気に寝息を立てるアーノルドの髪を軽くすいた。
「私、覚悟が足りてなかったのかしら」
シエナは夫が他の女性に触れることに対する覚悟は出来ていると思っていた。
けれど、あの時。庭園でアーノルドの隣にいるアメリを見た時、一瞬だけ心臓が止まるような、そんな感覚を覚えた。
「もう十分に脳内でシミュレーションしたはずなのに……。私もまだまだね」
シエナは自分もベッドに入ると、アーノルドに背を向けて寝転び、小さくため息をこぼした。
結局、夫が触れた女はただの副官だったから動揺もなかったが、もしあれがロイでなかったら自分はどんな反応を返していたのだろう。同じように冷静に対応できただろうか。
そう考えて、すぐに無理だなと思った。
(ああ。子が産めないだけで、この世は生き地獄だ)
物心つく前から、ずっと口うるさく言われてきた。
高貴な女性の幸せとは、結婚して子どもを産むこと。そして高貴な女性の義務とは、結婚して子どもを産む事である、と。
それはつまり、子が産めぬということは、義務を放棄しているのと同じということ。幸せではないということ。
「……あ、涙が……」
夜だからか、気が抜けてしまったらしい。一筋の雫がシエナの頬を伝い、枕を少し濡らした。その雫は彼女の意思とは関係なく、止まることなく、また一つ、一つと枕に落ちてくる。
「あの時、ちゃんとあの子を産んであげられていたら……。ううっ……」
シエナは布団を頭から被り、奥歯を噛み締め、声を押し殺して泣いた。
あの時のあの子、というのは過去に一度だけ彼女が身篭ることのできた子のことだ。
生まれてこなかったその子は、アーノルドと結婚して割とすぐの頃にシエナの腹にやってきた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
あの当時、皇太子妃として本格的に動き出した頃だったせいもあり継承儀式などの公務が忙しく、シエナはお腹の子をちゃんと気遣ってやれなかった。医師はそういう過度なストレスなども流産の原因の一つとなり得ると言った。
もちろん、流産の明確な原因など誰にもわからない。あくまでも、可能性の話だ。しかしそれを小耳に挟んだ元老院の連中は彼女をキツく責め立てた。彼女に過度なプレッシャーを与えたのは、他ならぬ彼らだというのに。
シエナの周囲は皇太后ヴィクトリアやアーノルド、マーシャやロイも含めて多くの人が、『シエナのせいではない』と言ってくれた。けれど、彼女の耳は聞かなくてもいい言葉ばかりを拾った。
何も知らない奴らに口出しされたくない。子が流れたのは自分のせいではない。必死にそう思いこもうとしながらも、叱責の言葉を右から左に聞き流すことができなかった彼女は、結果的に心に深い傷を負った。
―――――――どうして産むだけなのに、それができないのか
塞いでも雑音ばかりを拾ってしまう耳を何度も切り落としてしまおうかと考えた。
シエナはあの頃からずっと、うまく息ができない。どうしたら自分が許されるのかがわからない。
結果、シエナはまるで罪を償うかのように国のためにその身を捧げてきた。子が産めずとも、この国の最も高貴な女性として国に必要とされる存在になろうと努力した。けれど、どれだけ尽くそうとも、結局は子ができなければ女としての価値はないというのがこの国の常識だった。
彼女はまだ、許されていない。『誰にか』と問われた時に、明確に名が言えない誰かに。
いつの日か、アーノルドは追い詰められているシエナに、『元老院の言葉は気にしなくて良い。焦らなくて良い』と優しく言った。優しく抱きしめて、優しく髪を撫でて。シエナのことを慰めた。
確かにアーノルドの言う通り、シエナはまだ若く、希望がある。それに皇太后だって、アーノルドを産んだのは三十過ぎてからだ。だから彼の言葉に間違いはなかった。
だが、シエナが求めた言葉はそれではなかった。焦らなくて良いと言われても焦る。気にしなくて良いと言われても気になる。
だって皇后になるために生きてきたのだから。そんな彼女が、ずっと皇后として一番大切な責務を果たせずにいるのに、気にしないでいられるわけがない。
その事はわかって欲しかった。
焦らなくて良いとか軽々しく言わないで欲しかった。流産したことをもっと気にして欲しかった。
(……多分、素直にそう言えば良かったんだろうな)
いつだって素直に言えない。そんな自分が、シエナは嫌いだ。
「シエナ……愛してる……」
シエナが悶々としていると、アーノルドは寝言でそう言った。その言葉を聞いた彼女は飛び起き、寝息を立てる夫を鋭く睨んだ。
「何が愛している、だ」
皇后として、頼まれれば他人の安産を祈願し、他人の子に祝福を授け、他人の子を抱かねばならない。それがどれほど辛いことなのか気づいてくれないくせに。
毎月体から血が流れる度に、心が散り散りになるほどに悲しくなる。その気持ちに寄り添ってもくれないくせに。
「……なんて、言わなくてもわかって欲しいというのはわがままなのでしょうね」
シエナは自嘲するように呟いた。
彼女とて本当はわかっている。アーノルドは女心にはめっぽう疎いタチだ。典型的な言わなければ伝わらないタイプの男。
「……ばーか。……ばーかばーか。鈍感」
自分の苦悩など知りもせず、枕を抱きしめて幸せそうに寝息を立てる彼が無性に腹立たしい。
「嫌いよ。嫌いだもん!」
シエナはベッドを降り、ドレッサー横の棚から未使用の女性物下着を取り出すと、それをアーノルドの頭に被せた。
「侍女長に怒られろ、ばーか」
翌朝、シエナより遅く起きたアーノルドは起こしに来た侍女長に蔑みの目で見られたそうだ。