5:堕胎剤
あまりに間抜けな声が出ていたのか、シエナは楽しそうに声を出して笑った。ロイはそんな彼女が恐ろしく見える。
おそらく一生使うことがないだろう堕胎剤を渡されたロイは固まってしまった。これはアーノルドが望んだ嫉妬だろうか。嫉妬ゆえに愛人に子どもを作るなと、殺せと、これを渡すのだろうか。
笑顔のシエナが怖すぎて、ロイは彼女の方を見ることができない。
(……お、思っていたよりも嫉妬深いのかもしれない)
だがしかし、シエナは怯えるロイを見て、揶揄いすぎたと慌てて弁解する。
「あ、違うのよ。子どもを産むなと言ってるわけではないの」
「ではどういう……」
「貴女はご存知かわからないけれど、この国では基本的に、庶子は皇族にはなれないのよ」
皇族と認められるのは基本的に皇后が産んだ子どもだけ。だが皇后に子どもがいない場合などは庶子を養子にし、皇后の子どもとして育てることで皇族とすることもあるらしい。
そして、今。皇后シエナに子どもはいない。
「私はまだ子どもがおりません。ですから、貴女に子どもが生まれた場合には、貴女の子どもを養子とする可能性がある。これがどういうことかわかる?」
「い、いいえ…」
「貴女や貴女の子を宮中の争いに巻き込むことになるのです」
後ろ盾のない愛人が産んだ子ども。それは多くの人間にとって、宝石の原石だ。皇后の子がいない今、その存在をうまく利用すれば、権力を握れるかもしれない。故にこの愛人を利用しようと近づいてくるものも多いだろう。
だからシエナは堕胎罪を彼女に渡したのだ。
「貴女が宮中のことに巻き込まれる覚悟ができるまでは、産まない選択を勧めるわ」
「皇后陛下……」
「もちろん選ぶのは貴女だから、陛下とのお子が欲しいと思うのなら産んでも良いのよ。その時は私が全力で貴女とその子を守ると誓うわ。けれど、ここでは普通の子育てができるわけじゃない。それは頭の片隅に置いておいて欲しいの」
シエナはそう言うと、真剣な目でロイの目を見つめて彼の手を握った。強要はしないが、選択肢の一つとして、産まない選択もあるということを伝えたかったらしい。そもそも産める機能を兼ね備えていないロイだが、シエナの覚悟に感動したのか、何故だか涙が溢れた。
「何故、ただの愛人をそんなにも気にかけてくださるのですか?何故そこまで優しくできるのですか?」
夫の愛人にここまで寄り添うなんて、普通はできない。なんて優しいのだろうか。昔の苛烈な性格は大人になるにつれて、いつの間にか、なりを潜めてしまったようだ。
(シエナ様は知らぬ間に立派な思慮深い女性になっていたようだ)
ロイがそんなふうに感動していると、シエナはこれは単なる『優しさ』ではないと否定した。
「そんな崇高なものじゃないわ。私はただ、陛下に好きな人ができたら応援しようと決めているだけ」
シエナとアーノルドは生まれた時からの婚約者だ。二人に相手を選ぶ権利などない。それでもアーノルドは、今まで自分を大切にしてくれた。だから、彼女はその恩に報いるためにもアーノルドに好きな人ができたら、その女性がどんな人物であれ大切にしようと決めているらしい。
シエナは彼の頬に流れる涙を指の腹で拭うと、申し訳なさそうに笑った。
「皇后の立場を譲り渡すことはできないけれど、その立場を利用して貴女を守ることはできるわ」
「……守るだなんて」
相手を選べないのは自分も同じはずなのに、それでもシエナは『愛人を作られた哀れな皇后』という称号を甘んじて受け入れるつもりなのだろう。彼女の強い瞳を直視できず、ロイは目を逸らした。
「私は貴女がこの宮殿の中で平穏に暮らせるよう努力は惜しまないつもりです」
「ありがとうございます……」
ロイはシエナの手を握り返し、小さくお礼を言った。
彼のその返答に、部屋の中から小さな舌打ちが聞こえた。おそらくマーシャのものだろう。
何が『ありがとうございます』か。皇后の優しさに甘え、皇后に守ってもらうことを素直に受け入れた厚顔無恥な愛人への侮蔑の視線がロイへと向けられる。
話し終えたシエナは『陛下を呼んでくる』と彼の手を離すと、少し寂しそうな顔でそう言って部屋を出ていった。
ロイはただ呆然と彼女を見送った。
その儚げな雰囲気が美しく、見惚れてしまったのかもしれない。マーシャの送る軽蔑の視線を甘んじて受けながら、彼はパタンと閉まる扉の音をただ聞いていた。
もうすぐ落ちる夕陽を背に、ロイは目を閉じる。
ゆっくりと流れる時間。耳を澄ませば、外から聞こえるのは愛人を侮辱するメイドたちの大きな声。そして手の中に残る、おそらく、いや確実に使われることのない堕胎剤。
「……あれ?もしかして、かなりまずい展開なのでは?」
ロイはようやく気づいた。冷静になって考えると、いや、冷静に考えずとも、ロイ達のしていることは彼女の想いを踏み躙る最低な行為だ。
「シエナの覚悟は本物だ……」
これはバレたらより大変なことになる。あれだけの覚悟を決めたのに、あれだけ愛人に寄り添っているのに、それが全て嘘だとバレた日にはきっと……。
「1年間パンツ一枚の刑もあり得るっ!?」
ロイはその場に崩れ落ちた。