41:シエナのお願い
執務室から見える庭園のさらに奥にある噴水広場。水面には朱に染まった空が映し出されて、どこか神秘的である。
シエナはそのすぐ近くにあるベンチに腰掛け、横に座れとベンチを叩いた。アーノルドは何を言われるのかと怯えつつも、素直に横に座った。
肩が触れるか触れないかくらいの距離、少し生ぬるい風がシエナの美しく艶やかな銀髪を揺らす。
(……何の、沈黙だろう)
隣に座らせた割には何も話さない妻に、アーノルドはどうすれば良いのかわからなかった。
隣のシエナは瞑想するように目を閉じて、胸に手を当て、深呼吸をしていた。
その横顔は実に美しく、絵画にできそうなほどだ。アーノルドの心臓はいつもより少しだけ速く脈打つ。出会ってからもう何年も経つのに、未だシエナにときめくなど、この心臓も大概どうかしている。
「あのー、シエナさん」
「……何?」
「言いたい事があるのなら、お早めにお願い致したく……」
辛辣な言葉の槍を降らせるつもりなら、一気にお願いしたい。じわじわと一本ずつ刺していくスタイルだと、逆にダメージが大きそうだ。
アーノルドは真剣な瞳で彼女を見つめた。
「俺は何を言われても、全部受け止めるよ」
母がした事を怒っているのなら、その怒りをぶつけてくれても構わない。気がつかなかった自分に軽蔑しているのなら、罵ってくれても構わない。帝国を統率しきれていないことに呆れているのなら、むしろ殴って気合いを入れて欲しい。
離婚したいと思っているのなら……、受け入れられるよう努力はする。
正直、状況だけ見たらそれを切り出されてもおかしくはないアーノルドは、ぎゅっと強く目を閉じてシエナからの言葉を待った。
そんな彼に、シエナは恥ずかしそうに『バレていたの?』と返した。
「大丈夫だ。だいたい予想はついてる。多分」
「あら、そうなの?ではもう言ってしまうけれど、アーノルド。貴方にお願いがあるの」
シエナは静かに立ち上がると、くるりとドレスの裾を翻し、彼の瞳を覗き込むようにじっと見つめた。
「お願い?」
「そう、お願い」
そう言うと、彼女は空を見上げて昔話をし始めた。
あれはシエナがこの城に来てすぐの頃。
二人ともまだ、『自分たちが帝国のためだけに生きて帝国のためだけに死ぬ人生を歩む』ことを、『彼らの人生には皇族という役を演じるしか選択肢が用意されていない』ということを、理解する前の話。
シエナは好きな人ができたと言った。彼女にとっての初恋だ。
相手は当時の護衛の騎士だった人。強く逞しいから好きという、とても子どもらしい可愛い初恋だった。
けれど、それが教育係の耳に入るや否や、護衛は別の人に代わった。そして教育係の一人がシエナをキツく叱りつけた。
『貴女が想いを寄せて良いのは皇太子様ただお一人。他の人間にそのような感情を持ってはいけません』と。
「私たちには選択肢がなかったよね。お互いしかいなかった。他の人を好きになることも許されなかった」
遠くを見て、そう言うシエナにアーノルドは胸が痛む。それが王侯貴族として生まれた義務ではあるけれど、やはり彼らの生き方は歪で不自由だ。
(やはりシエナはもう、解放されたいのだろうか……)
アーノルドは寂しそうに顔を伏せた。
富や権力、地位や名誉を手にする代わりに、自由を捨てさせられた。そんな人生だったから。そう思ってもおかしくはない。
すると、シエナは彼を覆うように影を作った。
「だから、お願いです。私たちの子どもにはもう少しだけ、本当にもう少しだけで良いので自由を与えてあげられませんか?」
国のために幼い我が子に婚約者を設けることは大切なことだが、幼いうちから周りに全てを決められ、用意されたレールの上を歩くしかない人生を送るとどう頑張っても性格は歪んでしまう。
それこそ、シエナやヴィクトリアのように。
これ以上、同じ過ちを繰り返さないためにも、もう少し制度を見直すべきだとシエナは主張する。
アーノルドは俯いたまま、『そうだな』と答えた。
それは彼も前々から考えていたことだ。早すぎる婚約は不幸を生む。それは皇族だけでなく、貴族全般に言えること。
親に政治の道具として使われた子は、自分の子をまた、政治の道具として使うようになる。そして多くの場合、婚約してからの生活に変化が出るのは女性の方だ。婚家に尽くすため、さまざまなことを教え込まれる。しかし、何かの事情で婚約が解消されると、傷物として扱われるのは大体が女性の方。そういう事実は、昔から問題だと思っていた。
けれど……。
「その言い方だとまるで、俺との結婚が義務だったみたいだ」
アーノルドはボソッと呟いた。シエナは彼が絞り出したその言葉に、キョトンと首を傾げる。
「え?」
「いや、わかってる。義務なんだ。義務。俺との結婚はシエナにとっては義務だった。わかってる」
「えーっと、何の話ですか?」
「大丈夫だ。別に凹んでない。大丈夫。離婚を切り出されるかと思ってたから……。それよりは、全然……」
自分に言い聞かせるようにアーノルドは大丈夫だと繰り返した。そんな彼を見下ろすシエナは、『何を言っているのだ、こいつは』という表情をしていた。
「待って、アーノルド。全然話が見えない。離婚って何の話?」
離婚なんて一言も言っていない彼女は、ただ困惑するばかりだ。
「り、離婚するつもりなのかと思ってたんだ。シエナは」
「何でそうなるの?」
「だって、最近、夜は一緒に寝てくれないから……」
最近、夜を共にしてくれない。こちらから触れることを許してくれない。だからもしかすると、シエナは色々と嫌になったのではないかと思っていた。
アーノルドがそう告げると、シエナは再び隣に座り、少し高い位置にある彼の肩に頭を乗せる。
「できてしまったのでスキンシップを避けていただけよ」
「できたって……、恋人が?」
「は?馬鹿なの?違います」
「でも、最近ご機嫌だし……」
今の話の流れと最近の機嫌の良さが、そうとしか思えないアーノルドは不安げにシエナを見る。彼女はその表情が可愛く感じたのか、彼の頬に軽く口付けた。
そして耳元で囁く。
「できちゃいました。赤ちゃん」
そう告白すると、シエナは舌を出して戯けて見せた。
「ごめんなさい。いつ報告すべきか迷っていたの。またすぐに流れてしまうかもしれないし……。でも、やっぱりマーシャの言う通り、すぐに言うべきだったわね。まさかそんな勘違いしているだなんて思わなかった」
「ほ、ほんとに?」
「うん。本当に」
両手でお腹を押さえて、花が綻ぶように笑う彼女をアーノルドは優しく抱き寄せた。
「ほんとに?本当?」
「本当だってば。しつこい」
「良かった。良かった、シエナ。ありがとう」
震える声でアーノルドは何度もありがとうと繰り返す。シエナは彼の背中に手を回して、ポンポンと2回、優しく叩いた。
「ねえ、アーノルド。もしかして貴方知らないの?」
「何を?」
「私、貴方が思っているよりもずっと、貴方のことが好きなのよ?私の愛は多分、貴方が私を思うよりもずっと、重くて少しどろっとしてるものなの」
鈍くて無神経で少し頭が弱いけど、シエナにとってはアーノルドしかいない。
それは、用意された道に彼しかいなかったせいかもしれないが、この重くてあまり綺麗じゃない感情は作られたものじゃない。
義務感から抱いたものではないのだ。
シエナは『言ってなかったっけ?』と白々しく呟いた。アーノルドは『何それ。知らない。聞いたことない』と繰り返しながら、抗議するかのように彼女に強く口付けた。
唇を離した後のシエナの頬は、夕日のせいか、真っ赤に染まっていた。
「私、最近浮かれすぎて、仕事をしすぎてたの。だからさっき、お医者様に怒られたわ」
帰り道、そう言って舌を出して笑うシエナ。
冷静になって今後のことを考えなきゃと、落ち着かなければとわかってはいたのだが、どうしてもよろこびを抑えきれず、ついつい調子に乗りすぎたらしい。
「でも、過去のこともあるから私は大事をとって仕事は抑えめにしようと思う」
過去の堕胎剤による流産の経験が彼女の体にどう影響しているかわからない。だから、なるべく安静に過ごしてほしいと、医師に念を押されたのだそうだ。
アーノルドは公務のことは心配するなと、彼女の肩を抱いた。
「……本当はね、少し不安。また流れたらどうしようって怖い」
「うん」
「でもね、すぐには変われないかもだけど、次はそういう不安とかもちゃんと、言うようにしようと思う」
言わなければ何も伝わらない。
だから、互いを理解し合いたいのなら、話さねばならない。シエナはその事を学んだ。
「俺も、ちゃんと聞く。そして、シエナの心に気づけるようにする」
アーノルドは今度こそ、ちゃんとシエナに寄り添うと約束した。
「じゃあ、その約束破ったら女物の下着をかぶって皇宮内を全力疾走ね」
「…絶対破らないから安心して。本当。ほんっっとに!!」
良い笑顔で恐ろしい事を言う彼女に、彼は寒気がした。
有言実行。やると言ったらやる女だ。
アーノルドは絶対に約束は守ると心に誓った。




