39:さようなら
一週間後、皇太后ヴィクトリアは皇宮内にある東の塔へと居を移すこととなった。彼女は今後、皇族としての権限を剥奪され、ただの罪人として、これから先ずっと皇帝の監視下に置かれることになる。それは実質的な幽閉だった。
皇帝夫妻の子を殺した罪については何年も前の話であるために証拠不十分とせざるを得ないが、間者と通じて帝国を危機に陥れた罪は、たとえそれが脅されていたからだとしてもかなり重いものである、というのがこの判決に至った理由らしい。
ヴィクトリアに近い貴族は重すぎるのではないかと異議を唱えたが、それよりも多くの貴族や役人は彼の公明正大な判断を高く評価した。自身の母親だろうと私情を挟むことなく冷徹に切り捨てる様は皇帝としては正しいと判断されたのだろう。
息子の口から直々に幽閉に処すことを知らされたヴィクトリアは彼の足元に平伏し、その罰を甘んじて受けると約束した。その時彼女がどんな顔をしていたのかは、彼しか知らない……。
「小指の爪って、必要かしら?」
少し動くと汗ばみそうな陽気の中、シエナのお気に入りの庭園で開かれたお茶会。優雅なこのひと時に出る単語ではないその言葉に、お茶会に招かれたロイとアーノルドは何故か寒気がする。
「えーっと……?今、なんて?」
「爪よ。爪よ」
「爪ぇ……」
「私、足の小指の爪って、必要ないと思うのよね」
「いやぁ、俺はいると思うなぁ」
何故、今のタイミングで爪の話がでるのだろう。先程から話していた内容は、これからただの罪人として余生を過ごすことになる義母についての話だったはず。
ならば答えはただ一つだ。ロイは額に汗を垂らしながら恐る恐る尋ねた。
「こ、小指の爪を剥ぐのですか?」
彼の問いにシエナはニッコリと微笑む。それは無言の肯定だった。
「だ、だれの……とか……」
「ん?」
「いや、何でもない。俺は何も言っていない」
「あら、そう?」
アーノルドは隣に座るロイと肩を寄せ合い、体を震わせた。
「なんと恐ろしい。爪を剥ぐ気だ」
「それってつまりは拷問……?」
流石にそれはどうなんだろう。というか、刑が確定した罪人に対してのそれは、私刑に他ならないのではないだろうか。
「流石に皇后が私情で拷問というのは些か……」
「シエナ……。拷問は、その、どうしてもというのなら構わないが、できるならやめてほしいというか……」
心情的に爪の一枚や二枚剥いでやりたいのは理解できるが、血濡れになる妻など、あまり見ていて気持ちの良いものでもなく……。私情で罰を加えるにしても、やるならせめて他の方法にするよう、アーノルドは提案した。
すると、シエナはわかりやすく頬を膨らませた。
「そんなに怯えないでよ。失礼な。冗談よ」
「その顔、半分くらい本気だったよね?絶対」
「……そんなことないわ」
「いやいや、絶対あるだろ」
「ない!」
ふんと、顔を逸らせるシエナ。いつになく子どもっぽい。
「あ、今可愛いとか思ったでしょう?陛下」
「思った」
「話してる内容は可愛くないですからね?」
頬を赤らめたアーノルドに、ロイは呆れたようにため息をこぼした。
「……では、アーノルド。拷問ではなく、プレゼントなら良い?」
「プレゼント?武器になりそうなもの以外なら構わないが……。何で?」
「陛下、良いんですか?絶対に単なるプレゼントじゃないですよ!陰湿な嫌がらせのようなプレゼントに違いないですよ!」
ロイはすかさずアーノルドに耳打ちする。この状況でシエナがヴィクトリアにプレゼントなど、どう考えてもヤバいやつを送るに決まっている。
すると、シエナはロイをキッと睨みつけた。ロイはその瞬間、ヒュッと息を漏らして黙る。
「マーシャ」
「はい」
「手配しておいて」
「かしこまりました」
彼女は優雅に紅茶を口に含むと、不敵に笑った。
「手配?」
「え、何を」
「ん?」
「な、何でもないです」
「何も言ってません」
『何を』手配しに行ったのか、などという野暮なことは聞いてはいけない。その疑問が口から出そうになった二人は両手で口を押さえた。
***
そしてヴィクトリアの引っ越し当日の朝。黄色い包み紙でラッピングされたプレゼントの箱を手にヴィクトリアの元を訪れたシエナは、塔の中の螺旋階段を一歩ずつ、ゆっくりと登った。
案内された部屋は塔の中腹あたり、窓から飛び降りても死ぬか死なないか半々、というくらいの場所だ。質素なワンピース姿で現れたシエナにヴィクトリアは深々と頭を下げる。
少ない荷物を運び込んだ塔の部屋は、幽閉にふさわしいほどに質素だった。下手をすれば地下牢の時よりも質素かもしれない。これから彼女はそう長くはない余生をここで過ごすことになる事を考えると、神に祈りを捧げられる修道院に入る方が些かマシな気もしてくる。
「わざわざ来てくれて、その、ありがとう……」
シエナは気まずそうに顔を伏せる義母の前に、持って来ていた包みを差し出した。ヴィクトリアは首を傾げながらも差し出された包みを開け、そして一瞬思考が停止した。
「あ、あのー、シエナ?」
「これはイナゴノクギニという料理だそうです」
「そ、そう……」
今、自分の手の中にあるのは明らかにバッタだ。茶色く煮詰められたバッタ。シエナはにっこりと微笑んで、怯えるヴィクトリアの手にフォークを握らせる。
「この料理、結構手間がかかってるそうですよ」
「ま、まさかとは思うけれど、これを食べろとそういう……」
「私は堕胎剤入りのクッキーを食べました」
「……ご、ごめんなさい」
謝って済む問題ではないのはわかるが、それを言われてしまってはヴィクトリアとしてはもう何も言えない。
「毒が入っている、とか?」
「入れていません。貴女と同じ場所まで落ちたくはないので」
「……辛辣ね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
シエナはそっけなく、しれっと返した。流石にもう以前のように親子のような、親友のような、姉妹のような距離感で接することはできないし、したくもないのだ。
「……ヴィクトリア様」
「は、はい」
「本当はね、小指の爪をもらおうと思ったんです」
「つ、つめ……」
それはつまり、拷問。淡々と話すシエナの姿にヴィクトリアは軽く恐怖を覚えた。なぜならそれをされても文句は言えないから。
「や、やるの?爪を剥ぐの?」
「いいえ?やめておきます。皇帝陛下が下した刑罰を私が覆すことは許されませんから」
皇帝が幽閉と言ったなら、幽閉だ。身体刑に処すとは言っていない以上、シエナが私的な感情で手を出すわけにはいかない。
「だから、代わりのこれです」
アーノルドの許しは既に得ていて、だからこれは許されるのだと、シエナは彼女の手を掴んで皿の上のバッタをフォークに突き刺した。
サクッという音が妙に生々しく、ヴィクトリアはヒッと声を上げた。
「爪の方が良いですか?私はどちらでも構いませんよ?」
ヴィクトリアの口元にバッタを近づけて、シエナは笑う。その目は本気だった。
「い、いただきます」
逃げられない。いや、逃げようとは初めから思っていないけれど……。ヴィクトリアはぎゅっと目を瞑り、恐る恐るイナゴノクギニを口に含んだ。
ポリポリというなんとも言えない咀嚼音が、狭い塔に響く。
「どうですか?」
「意外に美味しいのがさらに複雑な心境にさせるわ」
「美味しいんですか?」
「なんだろう……甘辛く、且つ少し爽やかな風味があり、食感は小エビ……」
絶品というほどではないが、期待値が低かっただけ美味しく感じるらしい。
これを罰というのなら甘い気がするし、でもそんな事を言うと本当に爪を剥がれそう。そんな、複雑な感情に困惑しながらも、とりあえずはきちんと最後まで飲み込む彼女の反応が面白かったのか、シエナは無意識にクスッと笑みをこぼした。
「それ、全部食べ切ってくださいね?」
「ぜんぶ……」
「空箱はマーシャに回収させますから。ズルをしたら爪ですからね?」
「は、はい……」
「では、私はこれで」
シエナは踵を返し、マーシャのエスコートで塔の一室の扉枠を跨いだ。
そしてバッタの入った可愛らしい箱を抱き、複雑な表情を浮かべるヴィクトリアに、美しいカーテシーを披露した。
それは彼女に叩き込まれたカーテシー。彼女の教育の賜物。
完璧すぎるそれに、ヴィクトリアは一瞬目を見開き、そして困ったように笑った。
「私はもういらない、ということね」
「さようなら、ヴィクトリアさま」
「ええ。さようなら、シエナ」
マーシャは二人の縁を切るように静かに、けれども確実に扉を閉めた。




