3:残念な皇帝
それは時を遡ること約二時間前。
鋼色に近い黒の軍服に身を包んだ皇帝アーノルドは執務室の窓辺に立ち、そのクセのある黒髪を風に靡かせながら、近くの庭園でお茶を楽しむ妻を凝視していた。
『眺める』でも『見つめる』でもなく『凝視』という表現になるのは、彼の瞳孔が開き気味だからである。鼻息が荒いのも、白目が血走っているように見えるのも、変態じみていて非常に気持ちが悪い。と、いうよりむしろ怖い。狂気すら感じる。
皇帝の副官である名門ブライトン伯爵家の次期当主ロイ・フェローズは、丸めた書類でその変態の後頭部を思いっきり叩いた。
「……お前な、仮にも俺は皇帝だぞ」
アーノルドは後頭部を押さえながら口を尖らせる。そんな顔をしても、元から整った顔立ちをしている人間は『かっこいい』から『可愛い』になるだけだから腹立たしい。ロイは理不尽にもう一発お見舞いしてやった。
「いでっ!」
「仮ではなく貴方は皇帝です。だから仕事をしてください」
「……無理だ。シエナが足りなくて、もうこれ以上は働けない」
「馬鹿なことを言ってないで。後はほとんどサインするだけなんですから、頑張ってください!」
窓際からまったく動く気のない主君に、ロイは仕方なくカーテンを閉めた。おかげで、昼間だというのに室内は一気に薄暗くなる。
「暗いじゃないか。目に悪いぞ」
「あんたが席に戻ったら開けて差し上げます」
「ちぇ」
どう足掻いても、この厳しい副官が妻を眺めることを許してくれないのでアーノルドは仕方がないと再び席につき、大変不服そうに机の上の書類を手に取った。
「めんどくせぇ」
今アーノルドの目の前にある書類はほとんどが決裁済みで、後は彼がサインするだけなのだが、それならロイにハンコを持たせて代わりにやらせても問題ないのではないかとも思ってしまう。
「この後、何も予定がないし、早く終わらせたらシエナ様のところに行ってもいいですから」
「……」
「だから、もう少し頑張りましょう。ね?」
ロイはまるで子どもに言い聞かせるような口調でアーノルドを諭した。そしてブツブツと文句を垂れる彼の机の上に、シエナの写真を一枚置いた。花に囲まれ、指に止まった蝶に優しい微笑みを向ける彼女を写した写真だ。
馬鹿馬鹿しいが結局、この残念な皇帝にはこれが1番効くことをロイは知っている。
「一時間以内に仕事を終わらせたら、これを差し上げましょう。皇太后様より極秘に入手しました。最新のシエナ様の写真です。タイトルはそうですね。『蝶と戯れる皇后』」
「ああ、シエナ。可愛い。天使……」
アーノルドの母親である皇太后と仲の良いシエナは、度々彼女の宮に出向いているのだが、この写真はその時に撮られたものらしい。門外不出の代物だとロイは言う。
「珍しいでしょう?柔らかな微笑みを浮かべていらっしゃるシエナ様です」
「……ああ、そうだな」
常に皇后として完璧に振る舞う彼女が、少女のようにあどけなく笑う姿は珍しい。
長らく、妻のこんな表情を見たことがないアーノルドは写真を手に取ると大きなため息をこぼした。そして切なそうに、そこに映る妻を撫でる。
「なあ、ロイ」
「はい、陛下」
「俺とシエナは生まれた時からの婚約者だ」
「そうですね」
「いわゆる政略結婚だ」
「はい、そうです」
「でも、俺はシエナのことを愛している」
「ええ、存じております。嫌というほどに」
「しかし、シエナにとって俺はもう、政略結婚の相手でしかない。家族としての愛情はあるかもしれないが、恋慕の情はない」
「はい、存じております。哀れなほどに」
生まれた時からの婚約がほぼ決まっていた彼らは、幼い頃よりずっと一緒に生活してきた。つまり、恋人となる前に家族となったのだ。二人の間に恋が芽生えないのは当たり前のことだろう。あまりにもわかりきった事を言ってくるアーノルドに、ロイはカーテンを開けながら適当に返事をした。
すると、アーノルドは小さな声で『俺も知ってる』と呟き、ようやく写真の代わりにペンを手に取った。
それからしばらくは大人しく書類を捌いていた彼だったが、十五分ほど経過したところで不意に持っていたペンを投げ捨てた。
「ああ!シエナに男として見られたい!意識されたい!ドキドキさせたいっ!」
唐突にそう叫ぶものだから、ロイは怪訝な表情を浮かべた。
あと数枚の書類を残し、机に突っ伏してシクシクを嘆く皇帝。とても大国の君主とは思えないほどに情けない姿である。
そんな彼の姿にロイは呆れたように大きなため息をこぼした。
確かにシエナに恋するアーノルドと違い、彼女にとっての彼は幼い頃から苦楽を共にしてきた戦友でしかなく、男ではない。それは明白な事実だ。
けれど、だからといって白い結婚というわけではない。なぜなら皇帝と皇后だから。
「やることやっといて、何言ってるんですか」
結婚してから7年。今更何を言っているのだとロイは鼻で笑った。
「違うんだよぉ!あいつにとって夜伽は子作りであり、子作りは義務なんだよ!愛し合う二人の愛情表現じゃなくて、義務!ただの義務!わかるか?義務なんだよ!」
「そりゃあ、皇后の最大の義務はお世継ぎを産むことですからね」
「そうなんだよ?確かにそうなんだけどさ!?でも違うんだよ!」
もっと妻に愛されたいと嘆くアーノルドに、ロイはまた深くため息をつく。
(これさえなければなぁ……)
この男、アーノルド・フォン・アインシュヴァルツは前皇帝が流行り病で崩御したために、数年前に二十二という若さで即位した。
即位した当時の国は戦後の混乱もあり、内政は安定しておらず、はじめはその若さ故に侮られることもあった。だが、彼はそんな侮りの視線に負けず、また、保守派の大貴族たちから成る元老院が彼を傀儡にしようと画策しても一蹴し、自ら宮廷服を軍服に変えて戦地となった地をめぐり、復興の指揮を取り、軍事に偏っていた経済を正常に戻すために革新的な政策を打ち出し、数々の苦難を打開してきた。
正直、そのせいで貴族連中との軋轢は少なからず生まれているが、そこは皇后シエナと皇太后ヴィクトリアが陰ながらフォローしてやっているらしい。
結果、このトルカ帝国の生活水準は、戦争ばかりしていた先帝の時に比べるとぐんと上がった。そのおかげもあり、民は皆、皇帝アーノルドは素晴らしい名君であると彼を褒め称える。ロイ自身も彼は立派な皇帝であると思うし、そんな彼を乳兄弟として誇らしくも思う。
が、しかしだ。ロイはアーノルドのこの『妻が好きすぎる』という一点だけはどうしても受け入れられない。
この男は油断すると、寝ても覚めてもシエナのことばかり考えている。できることならば、一日たりともシエナのそばを離れたくはないし、彼女を置いて視察へ行く前などは国民には見せられないほどに愚図る。それこそ幼な子のように。
(めんどくせぇな)
愛妻家であることは問題ではない。だが、妻からの愛を求めて定期的に仕事を滞らせるのだけはどうにかしてほしい。
「いっそ素直に愛を乞えば良いではないですか。もっと構ってほしい。もっと愛情表現をしてほしいと素直に言えば良いんです。シエナ様は表面上はお優しい方ですから、きっと望む通りに愛しているフリをしてくださいますよ」
「それじゃあ、意味がないだろう。フリとか悲しいだろう!」
「本当、めんどくせぇ」
「おい、言葉に出てるぞ!」
アーノルドが本音が漏れていることを注意するが、ロイは面倒くさそうに『はいはい』と返す。
(なぜ、素直に構ってほしいと妻に言うことが出来ないのか。本当に、変なところでプライドが高いんだから)
言えば確実にシエナは構ってくれるのに、いつも回りくどく策を練り、シエナに近づこうとする。妻の前で格好をつけたがっているだけなのか、それとも妻から自分を求めて欲しいと思っているのかはわからないが、ロイはそんな彼にいつも振り回されていた。
例えば同行予定のなかったシエナを軍事演習に連れて行くために日程を調整したり、シエナに色目を使う貴族に陰で警告したり……。アーノルドが定期的にシエナ不足に陥るたびに、副官の範囲を明らかに逸脱している仕事を押し付けられる。
ちなみにシエナ不足になる周期は大体二十八日だ。ほぼ月一でやってくる彼の不安定な精神に、ロイは『女子か!』と何度ツッコミを入れたかわからない。
「と、いうわけで。シエナにヤキモチを焼かせたい」
「は?」
ぼーっとしながらアーノルドの話を右から左に聞き流していたロイは思わず声が裏返る。
「だから、シエナにヤキモチを焼かせたいから、お前女装しろ」
「どういうこと?」
「ロイは小柄だしバレないって」
「大事なとこを端折ってるんじゃねーぞ、コラ」
ロイは苛立ちのあまり、ペンを拾ってアーノルドに投げつける。彼はそれを左手でパシッと掴むとにいっと口の端を上げた。悪戯をする時の子どもの顔だ。
「やだ」
「聞け」
「聞きたくない」
アーノルドは耳を塞ごうとするロイに近づき、その手を掴むと、こう発言した。
「女装したお前をシエナに紹介し、『愛人として囲いたい』と宣言することで彼女にヤキモチを焼かせたい」
「………」
何だろう。もうこの一言しか出てこない。
「馬鹿だ……」
発想がバカすぎる。ロイはまた口から本音が溢れた。
「流石に俺が愛人を囲いたいと言ったら、あの穏やかなシエナも怒るだろ?」
「いや、怒るどころの騒ぎじゃないでしょ。ブチギレですよ、きっと」
側室が認められていないこの国では、高貴な身分の人間が愛人を囲うことは珍しい話ではない。だが多くの男は妻に愛人の存在を悟られないように気を遣うものだ。それを堂々と妻に紹介するなど聞いたことがない。
「大丈夫だ。シエナがヤキモチを焼いたら『ドッキリでした』とバラしてしまえば良い」
「そんな簡単な問題でしょうか?」
「これはシエナともっと愛を深めるために必要なことなんだよ、ロイ」
「はぁ…」
真剣な、揺るぎない眼差しでそう言うアーノルドに、ロイは幾度目かのため息をこぼした。ため息をつくと幸せが逃げるというが、もしそうだとするのなら、もう彼の中に幸せストックはないだろう。むしろマイナスかもしれない。
(やだなぁ。目が本気だぁ)
端正な顔立ちであることを強調するかのような彼の漆黒の瞳は、ギラリと光る。
こういう時の主人は何を言っても聞かない。長年の経験からそれがわかるロイは、満足するまでやらせる方が、抵抗するよりも早く終わるはずだと判断した。
(シエナ様から一度、本気で怒られると良いと思う)
皇后シエナが馬鹿な夫に雷を落としてくれることを期待しつつ、ロイはアーノルドの提案を受け入れた。
……しかし、世の中はそう思い通りにはいかないものだ。彼はこのあと、そのことをすぐに痛感した。




