2:愛人の襲来
「シエナ様、皇帝陛下がお見えです」
近くで警護についていた近衛騎士マーシャ・ランドルフに声をかけられたシエナはすぐに席を立ち、後ろを振り返った。
するとそこには、見慣れない金髪碧眼の令嬢を連れた皇帝アーノルドの姿があった。
その女が誰なのか。なぜその漆黒の双眸を、期待に胸を膨らませた少年のように煌めかせているのか。シエナはアーノルドをじっと見据えながら、表情を変えずに考える。
そんな彼女の視線に何を感じ取ったのか、アーノルドは少しクセのある前髪をかき上げ、自信ありげに笑った。
(ああ、ろくでもないことを考えているのは間違いない)
シエナは一瞬、本当に誰にも気付かれないくらいに一瞬だけ眉を顰めつつ、すぐに笑顔を張り付けて膝を折り、一礼した。
「ご機嫌よう、陛下」
「ご機嫌よう、シエナ」
声色と口調だけでいうならば、二人はとても穏やかに挨拶を交わした。しかしその場に漂う空気は冷たく張り詰めている。なぜなら、アーノルドの腕にまとわりつくようにして立っている金髪碧眼の謎の女がその場にいるからだ。
先ほどまでそういう類の会話をしていたせいか、その女がアーノルドの何であるかは容易に推測できる。シエナの後ろで控えるエマは明らかに不快な顔をしていた。
「ところで陛下。何の御用でしょう?今は執務中と伺っていたのですが?」
「実は君に相談したいことがあってな」
「相談とは、そこの彼女のことでしょうか?」
「ああ、そうだ。紹介しよう。アメリ嬢だ」
アメリと呼ばれた女はアーノルドの背中に隠れ、半分だけ顔を隠すようにしてシエナをジッと見つめた。
挨拶もろくにできないらしい。躾のなっていない女だと、エマは露骨に顔を歪ませる。
一方、シエナは変わらぬ笑顔でアメリに話しかけた。
「アメリさんはどうしてこんなところまで?」
こんなところまで、というのはこの庭園が宮殿の中でも立ち入りが制限される皇族居住区であるからだ。
簡単に部外者が立ち入れる場所ではない。そして皇族居住区の中でも、この庭園は皇后であるシエナが管理している彼女の庭園。皇帝でも許可がいる。シエナは穏やかな笑みを浮かべながらも、夫が自分の許可なく他の女を連れ込んでいることには少し苛立っていた。
そんな彼女の苛立ちを察したのか、なぜかアーノルドは口元に薄く笑みを浮かべる。
「彼女が俺の何であるのか、気になるか?シエナ」
「まあ、気にならないといえば嘘になりますわね」
「彼女は俺の愛人だ」
「……そう、ですか」
「シエナ。俺はこの娘を愛人として囲おうと思う」
アーノルドは尊大な態度で、堂々とそう言い切った。その言葉に、とうとう堪忍袋の緒が切れたエマは反射的に口を挟もうと身を乗り出したが、マーシャがスッと彼女の前に出てそれを制止する。
「こら、エマ。貴女が口を出す場面ではないわ。分を弁えなさい」
「でもっ!」
「大丈夫だから。心配はいらない」
マーシャは興奮気味のエマを宥めようと、彼女の背中をさすった。
シエナはエマに目配せすると、大丈夫だとでも言うようにウィンクして見せた。
「申し訳ありません、陛下。私の侍女が混乱しているようですわ。けれど、陛下。彼女が困惑するのも無理はないと思いませんか?なぜなら我が帝国は一夫一妻制を採用しておりますもの」
「ああ、そうだな」
「過去、後宮で起きた側室同士の血生臭い争いの結果、側室を取らぬようになったという歴史がございますの。ご存知でしたか?」
首を少しだけ斜めに傾け、阿呆なお前は規定に背き、過去の惨劇を繰り返すつもりかとシエナは問う。だが、アーノルドはアメリを抱き寄せ、またしても嬉しそうに笑った。
「愛人だ。側室ではない。何の権限も与えるつもりはない。ただ俺の寵愛だけを享受する女だ」
「愛……、ですか」
シエナはフッと目を細めた。
ただ愛されるだけの女なら、わざわざ内側に引きこまずとも良いのに。それを妻の前に連れてくるなど、本当に悪趣味だ。
「申し訳ないとは思っている。だけど、どうしてもアメリをそばに置いておきたいんだ!」
アメリとは互いに深く愛し合っており、片時も離れたくは無いとアーノルドは言う。そう訴える姿は切実に見えなくもない。シエナはハッと嘲笑うように吐息をこぼす。
「彼女を本当に宮中で、囲うおつもりなのですか?」
「ああ、そうだ」
「だから、準備せよ。と?」
「そうだ」
側室が認められていないこの国で、高貴な身分の人間が愛人を囲うことは珍しい話ではない。だが、皇帝が城の外ではなく、宮中で愛人を囲うともなれば問題も多い。だからシエナは『宮中で』という言葉を強調してみたのだが、アーノルドは一切揺らがなかった。
それほど本気ということだろうか。
シエナは口元の笑みを崩さず、アメリの前に立った。そしてアメリの眉間に人差し指を当てると、低く言い放つ。
「しっかりと立ちなさい。陛下にまとわりついていないと自立できないのかしら」
「は、はひっ!」
普段の彼女からは聞いたことがないような低い声に、アメリだけでなくアーノルドやエマまでもがピンと背筋を正す。
(あら、意外に高身長……)
アメリはシエナが思っていたより背が高く、そして思っていたよりハスキーな声をしていた。そのことに彼女は眉を顰める。
(……本当に悪趣味ね)
シエナはアメリを上から下まで舐めるように見つつ、大きなため息をこぼした。
アメリの顔立ちや身長を考えても、彼女は今着ている、無駄なフリルと無駄なレースと無駄なリボンしかない無駄に防御力が高そうな濃い目のピンクのドレスより、金糸の刺繍をあしらった濃紺のドレスの方が似合いそうだ。
このドレスを用意したのはアーノルドなのだろうが、この男。やはり壊滅的に趣味が悪い。
「貴女、アメリさんと言ったかしら?」
「はい、アメリと申します……」
「……声が少し掠れているけれど、風邪?」
「えと、あの、そ、そんな感じです……。はい、多分……」
「そう。では後で薬室から薬をもらってきてあげるわ」
「あ、ありがとうございます?」
少し低く掠れた声をしているアメリは、誤魔化すように視線を彷徨わせた。アーノルドはそんな彼女を庇うように少し前に出る。
「彼女を病原体扱いするなということですか?」
「そうは言っていない。ただあまりそうジロジロ見るな。彼女は繊細なんだ」
「私とは違って?」
「だれもそうは言っていないだろ」
「あら、それは失礼致しましたわ」
割と本心から病気を城内に持ち込んで欲しくはないと思っているのだが。仕方がないとシエナは話を変えた。
「ところで、私が顔を見たことがないということはアメリさんは市井の生まれなの?」
「は、はい」
「そうですか」
『ふーん』と興味なさそうに返しながら、シエナは彼女の純度の高い作り物のような金髪を優しく撫でた。
「あ、あの……皇后陛下?」
「リボンが歪んでいます。ここに住むのなら身だしなみはきちんと整えなさい」
そう言うと、シエナはアメリの詰まった襟元にあるリボンを結び直す。アメリは彼女の美しい顔が至近距離にあるせいか、無意識に頬を赤らめた。
やはりエマの言っていたことは本当なのかもしれない。この美しい女に微笑まれたら誰でも落ちるようだ。
「あ、ありがとう、ございます」
「良いですか?アメリさん。貴女がどこで陛下と知り合ったのか知りませんけれど、この伏魔殿のような城で生きていくつもりならば、最低限のマナーを身につけなさい」
「……え?」
「挨拶の仕方や話し方など、貴族には貴族のルールがあります。自分で言うのもおかしな話ですけれど、この城の使用人は皆、私に好意的な者が多いわ。故に愛人であるあなたの立場はかなり辛いものになります」
「え?あの……、え?」
「だから、貴女には覚悟を決めてもらわねばなりません」
「はい?」
予想外の発言にアメリもアーノルドも目を丸くした。これではまるで、愛人をすんなりと受け入れるつもりのように聞こえてしまう。
「えーっと、シエナ?もっと他に言うことは無いか?」
アーノルドはまさかと思いつつも、焦る様子も怒る様子もない妻におそるおそる声をかけた。
するとシエナはコテンと首を傾げる。
「部屋のことですか?そうですね、流石に愛人の部屋を皇族居住区に設置するわけにはいきませんし……。西の外れの一角でも与えますか?」
「いや、そうではなく……」
「あ、教育係のことでしたらご安心ください。私の妃教育をしてくださった先生に掛け合ってみますから。まあ、受け入れてくださるかはわかりませんが……」
「いや、そうではなく。その、怒っていないのか?」
「怒っていますよ?こういうことは事前に相談してくださらないと困りますわ」
「え?怒ってるポイントって、そこ?」
アーノルドは開いた口が塞がらない。これはどう考えても愛人を受け入れている。なんの抵抗もなくあっさりと、普通に、自然に、シエナは夫の愛人の存在を受け入れてしまったらしい。そしてそればかりか、住む場所を与えて教育係をつけて、丁重にもてなそうとまでしてくれている。さすがは懐の深い皇后だ。夫の浮気まで許容するばかりか、愛人にまで平等に優しく接するなど、普通の女ではできないとエマは思わず感心した。
「え?シエナ……?」
「……何か?」
「待ってくれ。つまり、シエナは愛人を受け入れるってこと?どうして……」
「どうしてって、そもそもこの子を連れてきたのは陛下の方でございましょう?」
「それは、そうなんだけどさ……」
「ならば、受け入れるしかありませんわ」
この国の最高権力者である皇帝が愛人にすると言うのならば、それを受け入れる他に選択肢などないとシエナは言う。
確かに彼女の言う通りなのだが、まさかこんなにあっさりと受け入れられるとは夢にも思わなかったアーノルドは、ただただ呆然とするしかなかった。
「そうと決まれば早速準備せねばなりませんわね。侍女長のところへ行ってきますから、エマは後片付けをお願いね」
「かしこまりました」
「アメリさんには今日だけ南棟の客室に泊まっていただきましょう。申し訳ありませんが、陛下。彼女を部屋までご案内いただけますか?」
「わ、わかった」
「では、失礼致します」
優雅に一礼したシエナは護衛のマーシャを連れ、急いでその場を後にした。
残されたアメリとアーノルドは遠くなる彼女の背中を眺めながら小さく呟く。
『どうしてこうなった…』と。