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黒板係は、江口桜次郎の名前を書く ――閉ざされた同窓会で、処女作どおりに人が死ぬ――  作者: 神谷利休|アコンプリス


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第十七章 黒板係は、もう名前を書かない

 サイレンの音は、最初、雨音に似ていた。

 遠くで細く鳴っている。山道を縫って近づいてくるその音は、旧校舎の壁に染み込んだ夜を少しずつ剥がしていくようだった。窓の外は薄く白み始めている。雨はほとんど止んでいた。ガラスに残った水滴が、朝の灰色の光を受けて、細い傷のように見えた。

 旧三年教室には、誰も動けずにいた。

 青山怜司は、机に片手を置いたまま、俯いていた。泣いているのか、ただ呼吸を整えているのか、江口桜次郎には分からなかった。さっきまで彼は泣いていた。整った顔を壊し、弟の名を口にし、自分自身を許せないと言った。

 鴻上誠一は、その少し離れた場所に立っていた。

 彼はもう、善意の医師の顔をしていなかった。かといって、完全に崩れたわけでもない。白衣を着ていないのに、どこか白衣の内側に隠れているような男だった。自分を守るための言葉を探している。だが、音声メモが流れた後では、その言葉の選び方さえ疑われる。

 鴻上の声は始終穏やかだった。あの診察室で聞いた声と同じだった。だから余計に気味が悪かった。人を安心させるための声で、人の信用を壊す手順を語っていた。

 二階堂壮也は、教卓の前に立っている。

 今の所属は広報だった。現場の捜査員としてこの場に来たわけではない。だが、交番勤務も、刑事として現場に出ていた時期もある。人を避難させる順番、現場を荒らさない立ち位置、触れてはいけない物の見分け方、そのくらいは体に残っていた。

 感情ではなく手順を選び、怒りではなく記録を優先する。

 それがどれほど難しいことか、江口はこの夜に初めて知った気がした。

 教室の外で足音が増えた。

 階段を上がってくる複数の足音。

 防水の靴が古い床板を鳴らす音。無線機の短い音。誰かが低く指示を出す声。救急隊員の持つ資機材が金属音を立てる。

 朝が来た。

 そう思った瞬間、江口は強い眠気に襲われた。

 眠気ではない。

 緊張が一瞬緩んだだけだ。

 膝から力が抜けそうになり、机に手をつく。二階堂がすぐに気づいた。

「桜次郎」

「立ってる」

「立ってるだけだろ」

「十分だ」

「十分じゃない」

 二階堂はそう言いながら、江口の肘を支えた。

 その手の力が、思ったより強かった。

 旧校舎へ最初に入ってきた警察官は、廊下の入口で足を止めた。

 防水の上着を着ていた。雨で髪の先が濡れている。だが、目だけは妙に乾いていた。現場へ入る時の人間の目だった。感情より先に、床、壁、扉、足跡、人の位置を見る目。

 真壁だった。

 真壁彰。

 警視庁捜査一課。

 江口は、一瞬だけ現実感を失った。

 旧校舎の夜、黒板、血文字、春斗の名前、鴻上の声。そのすべての向こうから、見慣れた顔が現れた。見慣れているはずなのに、仕事の顔をしている真壁は、ふだんよりずっと遠かった。

 真壁は二階堂を見た。

 二階堂も真壁を見た。

 二人の間に、ほんの短い沈黙が落ちる。

「二階堂」

 真壁が言った。

「真壁」

 二階堂の声には、安堵と苛立ちが同じ量だけ混じっていた。

「お前、なんでここにいる」

「それはこっちの台詞だ」

 真壁はそう言って、すぐに視線を教室内へ移した。

 青山怜司。鴻上誠一。江口桜次郎。水嶋沙耶。園田美月。朝倉航平。鷺沼館長代理。スタッフたち。

 ひとりずつ位置を確認する。

「状況は」

 二階堂は短く息を吐いた。

「死亡者三名。旧職員室に中原修一。図書準備室に相沢真帆。旧体育館に牧瀬隆。青山怜司が実行犯として自供。鴻上誠一に薬物関与、教唆、証言能力破壊の設計、青山への情報提供の疑い。証拠は青山のスマートフォン内の音声メモ、壁内リフト内の録音機器、名札付着物、江口の処方薬、職員室で五十嵐教諭が保全している紙コップ、春斗の日記断片」

 真壁の眉が少し動いた。

「一息で言う量じゃないな」

「こっちは一晩で食らった」

「信じられん」

 真壁は江口を見た。

「江口先生、意識は」

「あります」

 江口は答えた。

「たぶん」

 真壁はほんのわずかに目を細めた。

「その“たぶん”は、医師に確認させます」

「鴻上先生以外でお願いします」

 真壁は鴻上を見た。

「当然です」

 その後ろから、九条雅紀が入ってきた。

 黒いコートの肩に雨の跡がある。目元は眠そうに見えるが、視線は鋭かった。九条は教室に入るなり、死体ではなく、まず江口を見た。

「江口先生」

「九条先生まで」

「妙な薬を飲まされて、妙な現場に立っている人間がいると聞いたので」

「情報が雑ですね」

「二階堂経由です」

「なら雑です」

 二階堂が横から言った。

「聞こえてるぞ」

「聞こえるように言った」

 九条は江口の顔を見て、短く息を吐いた。

「診察は救急に任せます。ただ、意識障害と薬物影響はきちんと検査してもらってください。あなたの証言は、あなたの体が壊されたことの証拠でもあります」

 その言葉に、江口は一瞬だけ返せなかった。

 自分の体が、証拠になる。

 そんな考え方をしたことはなかった。

 九条は青山を見た。

 そして鴻上を見た。

 視線は長くない。

 だが、十分だった。

「医師が、人を壊す側に立つと厄介ですね」

 鴻上は答えなかった。

 真壁が部下たちに指示を出す。

 青山には警察官がついた。

 鴻上にも別の警察官が近づく。

 二人は同じ場所にいるのに、まったく違う顔をしていた。

 青山はすでに壊れていた。

 鴻上は、壊れないようにしていた。

 だが江口には、どちらも同じように見えた。

 春斗という名前の前で、二人とも何かを失っていた。

 青山は立ち上がろうとして、よろけた。

 警察官が腕を支える。

 彼は抵抗しなかった。

 江口の前を通る時、青山は足を止めた。

「江口先生」

 声はかすれていた。

「はい」

「あなたの小説を、春斗の死を食い物にしたものだと思っていました」

 江口は黙って聞いた。

「でも、違ったのかもしれません」

 青山は、苦しそうに笑った。

「違ったのだとしても、もう遅いですね」

 江口はすぐには答えられなかった。

 許すと言うのは違う。

 許さないと言うのも、今は違った。

 江口はただ、言った。

「僕は、本当に春斗さんを知りませんでした」

「はい」

「でも、もう忘れません」

 青山の顔が歪んだ。

 泣く直前の顔だった。

 だが、もう涙は出なかった。

 彼は警察官に連れられて、教室を出ていった。

 鴻上もまた、別の警察官に促される。

 その時、江口は言った。

「鴻上先生」

 鴻上が振り返る。

 江口はあいまいに唇を動かした。

 言葉が出なかった。薬物のせいではない。

 鴻上は何も言わなかった。

 今度こそ、何も。

 彼はそのまま、教室を出ていった。

 朝の光が、窓から少しずつ入ってくる。

 旧三年教室の黒板には、いくつもの名前の跡が残っていた。

 消したはずの白い粉。

 薄く残る文字の影。

 中原修一。

 相沢真帆。

 牧瀬隆。

 江口桜次郎。

 内田春斗。

 青山怜司。

 鴻上誠一。

 誰かが書き、誰かが消した名前。

 だが、完全には消えていない。

 江口は黒板の前に立った。

 二階堂が隣に来る。

「大丈夫か」

「その質問、トレンド大賞だな」

「答えが毎回怪しいからな」

「大丈夫じゃないよ」

「正直でよろしい」

 江口は黒板を見たまま言った。

「俺の小説が使われた」

「ああ」

「俺が書いたものが、人を殺す道具にされた」

「違う」

「書くことは罪だろうか」

「違う」

 二階堂はすぐに言った。

 江口は二階堂を見た。

 二階堂の目は、まっすぐだった。

「使ったのは青山だ。設計したのは鴻上だ。書いたことと、殺したことは違う」

「でも」

「でも、じゃない」

 二階堂の声は強かった。

「桜次郎。お前の小説が誰かの死に似ていたとしても、お前はその死を知らなかった。知らずに書いた物語を、あとから殺人の道具にした奴がいる。それはお前の罪じゃない」

 江口は答えなかった。

 そう言われて、すぐに救われるほど単純ではなかった。

 だが、完全に沈むこともできなかった。

 二階堂が隣にいたからだ。

 九条が少し離れた場所から言った。

「後で検査です。逃げないでください」

「逃げません」

「社会の中の大人は、決まって逃げる印象がある」

「偏見がすごい」

「二階堂情報」

「本当に雑な情報源ですね」

 二階堂が笑った。

 笑うような状況ではなかった。

 それでも、笑った。

 旧校舎の朝は、雨上がりの匂いがした。

 その後の旧校舎は、学校ではなくなった。

 警察車両の赤色灯が、雨上がりの敷地を何度も赤く染めた。古い窓ガラスに反射した光が、廊下の壁をゆっくり滑っていく。夜のあいだ人を閉じ込めていた校舎は、朝になってもまだ息を潜めているようだった。

 中原修一の遺体が発見された旧職員室。

 相沢真帆が倒れていた図書準備室。

 牧瀬隆が見つかった旧体育館。

 そこには順に規制線が張られ、鑑識が入り、写真が撮られ、床や机や壁の一点一点が記録されていった。チョークの粉も、名札も、靴跡も、血痕も、誰かの手が触れたかもしれない場所も、すべて証拠になった。

 旧三年教室に残された黒板も、すぐには消されなかった。

 書かれた名前。

 消された跡。

 その白い粉の濃淡までが、事件の一部になっていた。

 江口桜次郎は救急隊員に促され、旧校舎の外へ出た。

 朝の空気は冷たかった。

 一晩閉じ込められていたせいか、外の空気はひどく広かった。息を吸うと胸が痛んだ。薬のせいなのか、緊張がほどけたせいなのか、足元がまだ少し頼りない。

 二階堂壮也が横についていた。

「歩けるか」

「歩いてる」

「それは見れば分かる。まともに歩けるかって聞いてる」

「その質問、教師の通知表なら『もう少し具体的に聞きましょう』だよ、壮也」

「桜次郎」

 二階堂の声が少し低くなった。

「強がるな」

 江口は返事をしなかった。

 救急車の後部ドアが開いている。中から白い光が漏れていた。そこへ乗せられるのは、病人として扱われることと同じだった。江口はそれが少し嫌だった。自分が壊れていることを、他人の手で確定されるような気がした。

 だが、九条雅紀がすでにそこに立っていた。

「乗ってください」

「九条先生、救急隊員でしたっけ」

「違います。だから余計な処置はしません。ただ、乗らない人間を乗せるくらいはできます」

「腕力で?」

「言葉で」

「それが一番怖いですね」

 九条は江口の顔色を見た。

「瞳孔、反応、ふらつき、発汗。薬物影響はまだ残っている可能性があります。加えて睡眠不足と急性ストレス。あなたは今、自分の状態を正確に判断できる側にいません」

「ひどい言い方だ」

「正確な言い方です」

 二階堂が江口の背中を軽く押した。

「ほら、乗れ。桜次郎」

「二人がかりは卑怯だろ」

「警察と法医学者に挟まれて抵抗する教師、絵面が悪すぎる」

 江口は小さく息を吐き、救急車に乗った。

 真壁彰は、その少し後方で現場指揮を取っていた。

 雨で濡れた上着のまま、旧校舎を振り返り、部下へ短く指示を出す。青山怜司と鴻上誠一は、別々の車両で移送されることになった。同じ車には乗せない。接触させない。供述のすり合わせを防ぐためだった。

 青山は抵抗しなかった。

 彼は名前を呼ばれるたび、わずかに肩を震わせた。警察官に促されるまま歩き、車の前で一度だけ旧校舎を振り返った。視線の先に何があったのか、江口には分からない。黒板か。旧三年教室か。それとも、もうこの世にはいない弟の影か。

 鴻上は最後まで静かだった。

 善意の医師として振る舞う余地を失っても、彼は表情を崩さなかった。だが、腕を取られた時、白い指先だけがわずかに震えていた。

 江口はそれを見ていた。

 壊れた人間と、壊れていないふりをする人間。

 そのどちらがより恐ろしいのか、今の江口には分からなかった。

 その日、九条は現場確認の後、三名の検死に呼ばれた。

 旧校舎から移された遺体は、すでに物語の中の登場人物ではなかった。黒板に名前を書かれた被害者でも、過去を隠した同窓生でもない。ただ、死者だった。

 九条は白衣の袖を整え、手袋をはめた。

 遺体の前では、彼の表情から余分なものが消える。眠そうな目元も、皮肉も、会話の温度も、すべて薄くなる。残るのは、死者に対する奇妙なほどの礼儀だった。

 真壁が横に立っていた。

「どう見る」

「見たままを言うなら、三人とも死亡時の状況に不自然な演出が乗っている」

「演出」

「死亡そのものと、発見された時の見え方は分けた方がいい。犯人は死因だけではなく、死体がどう読まれるかを意識している」

「小説の再現か」

「そう見せたい意図はある」

 九条は中原修一の遺体に視線を落とした。

「ただし、再現殺人という言葉に寄せすぎると見落とす。これは小説への忠実な模倣ではなく、小説を使った誘導だ。江口先生の作品そのものが犯行計画なのではなく、犯人が都合のいい部分だけを拾っている」

 真壁は黙って聞いていた。

 二階堂も同席していた。

 広報課の刑事として、本来なら検死に立ち会う立場ではない。だが、事件関係者であり、現場で初動を支えた人間として、真壁が必要な範囲で同席を許した。二階堂の顔には、いつもの軽さがほとんどなかった。

「江口の証言能力はどうだ」

 二階堂が聞いた。

 九条は手を止めずに答えた。

「事件中の一部認識には、薬物と睡眠不足による歪みがあったと見るべき。ただし、だからといって証言全体が無効になるわけではない」

「どこまで使える」

「客観証拠と照合できる部分は使える。音声メモ、録音機器、薬の成分、残留物、紙コップ、処方履歴、青山と鴻上の供述。それらと一致する江口先生の証言は、むしろ薬物によって壊されかけた人間が、それでも現場を見ていた記録になる」

 二階堂は唇を噛んだ。

「壊されかけた、か」

「ああ」

 九条は短く言った。

「鴻上は医師だ。人の不安、睡眠、感覚、証言の信頼性がどこから崩れるかを知っていた。青山は江口先生を殺すつもりはなかった。殺さずに壊せばよかった。証人としても、探偵役としても、自分自身の感覚を信じられない状態に追い込む」

 真壁の目が鋭くなった。

「かなり悪質だな」

「鴻上は医師として得た知識を、医師ではない目的に使っている」

 二階堂が低く言った。

「最悪だな」

「最悪だ」

 九条は淡々と答えた。

「ただ、失敗している」

 二階堂が顔を上げた。

「失敗?」

「江口先生は最後まで、自分の認識を疑っていた。疑いながら、それでも記録しようとしていた。あの人は自分が正しいと信じ切らなかった。だから完全には誘導されなかった」

 真壁がわずかに頷いた。

「自信のなさが防波堤になったわけか」

「本人に言うと嫌な顔をするだろうな」

「するな」

 二階堂が即答した。

「でも、あいつらしい」

 九条は手袋を外しながら言った。

「三人の死因については、正式な鑑定を待つ必要がある。ただ、現時点で言えるのは、死体に付与された意味と、実際の死因を混同しないこと。犯人が見せたかった物語と、体に残った事実は別だから」

 真壁は小さく息を吐いた。

「物語と事実、か」

 二階堂が言った。

「桜次郎に聞かせたいような、聞かせたくないような話だな」

「聞かせるべきだな」

 九条は言った。

「少なくとも、彼の小説が人を殺したわけではない、ということは」

 青山怜司の自供は、長く、途切れがちだった。

 取調室で、彼は何度も同じ名前を口にした。

 内田春斗。

 弟の名を口にする時だけ、青山の声は教師のものではなくなった。慶早大付属の卒業生でも、江口の同僚でも、事件の実行犯でもない。ただ、弟を失った兄の声だった。

 青山は、春斗がかつて受けていたいじめの内容を語った。

 表に出ていたものは、ほんの一部だった。

 からかい。無視。物を隠す。黒板に名前を書く。

 それだけなら、学校は「悪ふざけ」と呼んだかもしれない。

 だが、実際はもっと深かった。

 春斗は欠席扱いにされていた。

 教室の中で、いるのにいない者として扱われた。

 名前を呼ばれることさえ、罰のように使われた。

 裸にされ、暴行を受け、その姿を撮影されていた。

 しかし、それはすべてのうちのほんの一部にすぎない。

 青山は取調官に向かって言った。

「春斗の身辺を調査すると、同じ名前が何度も出てきました。中原、相沢、牧瀬。あの三人です。黒須の名前もありました。彼は直接手を下した側ではない。でも、知っていた」

 机の上で、青山の手が震えていた。

「日記は、ところどころ読めませんでした。涙で滲んでいた。紙がふやけていた。字が震えていた。春斗は、誰にも届かないところで助けを求めていたんです」

 青山は目を伏せた。

「でも、私はそのことを知りませんでした……」

 鴻上誠一の自供は、青山とは違っていた。

 彼は最初、言葉を選んだ。

 自分が何を知り、何をしたのか、その境界をできるだけ曖昧にしようとした。

 だが、音声メモがあった。

 壁内リフトに仕込まれた録音機器があった。

 江口に処方された薬と、実際に混入されていた可能性のある成分があった。

 五十嵐理人が保全した紙コップがあった。

 その紙コップの底に残っていたわずかな液体から、江口の症状と矛盾しない薬物成分が検出された。量は少なかった。だが、ただの過労や不眠では説明できないものが、そこには残っていた。五十嵐が「一応」と捨てずに置いた違和感は、事件後になって初めて、江口の体が意図的に壊されかけた証拠になった。

 青山との連絡履歴があった。

 曖昧にするには、残されたものが多すぎた。

 鴻上は、やがて認めた。

 江口の体調不良を過労と不眠に見せかけたこと。

 薬によって感覚の過敏さや不安、幻視に近い状態を誘導したこと。

 江口の証言能力を意図的に揺らがせ、事件後に「精神的に不安定な教師の妄想」として処理できる余地を作ろうとしたこと。

 青山に旧校舎内の構造や、証言を混乱させるための方法を助言したこと。

 そして、青山が江口の殺害を望まなかったことも。

 取調官に問われ、鴻上は一度だけ薄く笑った。

「青山は、江口先生を殺すことには最後まで反対しました」

「あなたは」

「私は、消すべきだと言いました」

 その言葉を聞いた取調官は、表情を変えなかった。

 鴻上は続けた。

「彼の小説が、春斗の死を利用したものに見えた。青山にとっては、それだけで十分だった。でも彼は、江口先生が本当に知らなかった可能性を捨てきれなかった。甘い男です」

「あなたはどう思っていた」

「同罪だと思っていました」

 鴻上は、静かに言った。

「知らなかったとしても、似た物語を書いた。春斗の苦しみによく似たものを、娯楽として書いた。私には、それが許せなかった」

「だから壊そうとした」

「壊れればいいと思いました」

 その声は、診察室で江口に薬の説明をした時と同じ穏やかさだった。

 黒須の証言は、青山や鴻上の自供よりも、ある意味で聞く者を冷えさせた。

 彼は殺していない。

 薬を盛っていない。

 青山の計画にも、鴻上の薬物操作にも、直接は関わっていない。

 だが、春斗が何をされていたのかは知っていた。

 黒須は言った。

「いじめってほどじゃないと思っていました」

 その言葉は、何度も繰り返された。

「当時は、みんなやっていたんです」

「中原たちが中心でした」

「相沢も笑っていました」

「牧瀬は止めなかった」

「僕も、止めませんでした」

「先生には言えませんでした」

「チクると次は俺だから」

 真壁は、その供述調書を読んだ時、眉間に深い皺を寄せた。

「一番よくある言い訳だな」

 二階堂は黙っていた。

 黒須は続けた。

 春斗が黒板に名前を書かれていたこと。

 係や日直を押しつけられていたこと。

 休み時間に机を隠されていたこと。

 ノートを破られたこと。

 欠席者の欄に名前を書かれていたこと。

 本人が教室にいるのに、いない者として扱われていたこと。

 黒須はそれを知っていた。

 知っていて、笑ったこともあった。

 笑わなくても、黙っていた。

 制止しなかった。

 教師にも報告しなかった。

 保護者にも言わなかった。

 誰かがやめろと言えば変わったかもしれない場面で、何もしなかった。

「自分が標的になるのが嫌でした」

 黒須は言った。

「だから、見ないふりをしました」

 それは自供ではなく、証言だった。

 しかし、その証言は、春斗の死の周囲にあった空気を、もっとも残酷に説明していた。

 直接殺した者だけが、人を追い詰めるわけではない。

 見ていた者。

 笑った者。

 黙った者。

 報告しなかった者。

 知っていたのに、自分は関係ないと思った者。

 そういう人間たちの沈黙の中で、春斗の名前は少しずつ消されていった。

 江口がその話を聞いたのは、事件から三日後だった。

 検査入院先の病室で、だった。

 白い壁。

 薄いカーテン。

 ベッド脇の小さな棚。

 点滴台。

 窓の外には、病院の中庭が見えた。植え込みの緑が、やけに明るかった。

 江口は検査入院をしていた。

 救急搬送後、血液検査、尿検査、心電図、頭部画像検査、薬物反応の確認、睡眠状態と神経症状の評価が行われた。命に別状はないと言われたが、だからといって正常に戻ったわけではなかった。

 薬物の離脱症状は予告されていた以上のものだった。

 夜になると、時計の音が気になった。

 黒い影が視界の端で動くこともあった。

 眠りに落ちる直前、黒板にチョークが触れる音が聞こえた気がして、目を開けることもあった。

 それでも、病室の天井は旧校舎の天井ではなかった。

 それだけで、まだましだった。

 見舞いに来たのは、二階堂が最初だった。

 ノックもそこそこに、彼は病室へ入ってきた。手にはコンビニの袋を提げている。

「生きてるか」

「見舞いの第一声として不適切すぎる」

「返事があるなら生きてるな」

「確認方法が雑」

 二階堂は椅子に座り、袋からゼリー飲料と水と、なぜかプリンを出した。

「病人セットだ」

「最後の甘味に雑な優しさを感じる」

「食べられそうなら食べな。無理なら俺が食べる」

「見舞いとは」

 二階堂は少し笑った。

 だが、その笑いは長く続かなかった。

「桜次郎」

「何」

「青山と鴻上、だいぶ喋ってる」

 江口は窓の外を見た。

「そう」

「聞くか」

「聞かなかったら、楽になる?」

 二階堂は答えなかった。

 江口は小さく息を吐いた。

「聞く」

 二階堂は、必要なことだけを話した。

 江口は黙って聞いていた。

 途中で何度か、指先が冷たくなった。

 だが、視界は崩れなかった。

 黒板の文字も見えなかった。

「黒須は」

 江口は言った。

「殺してはいないんだな」

「ああ」

「でも、知ってた」

「ああ」

「知っていて、何もしなかった」

「そうだ」

 江口は目を閉じた。

 教師としての自分が、そこに引っかかっていた。

 もし自分の教室で、同じことが起きていたら。

 もし誰かが見ていて、何も言わなかったら。

 もし自分が見落としていたら。

 考え始めると、胸の奥が冷えていく。

 二階堂が言った。

「お前が背負うな」

「まだ何も言ってない」

「顔が言ってる」

「刑事の観察眼か」

「友人の観察眼だ」

 江口は黙った。

 二階堂は続けた。

「春斗の件は、お前の学校じゃない。お前の時代でもない。お前は知らなかった」

「知らなかったことは、免罪符になるのかな」

「少なくとも、罪にはならない」

「教師としては、そう簡単に切れない」

「教師としてでもだ」

 二階堂の声が強くなった。

「桜次郎。見落としを怖がるのはいい。生徒の名前が消されることに敏感になるのもいい。でも、過去の別の学校で、別の教師が見落としたものまで、お前が背負ったら、お前の今の生徒を見る目が死ぬ」

 江口は二階堂を見た。

 二階堂はまっすぐこちらを見ていた。

「お前は今の教室を見ろ。死んだ春斗を忘れないことと、今いる生徒を見失わないことは、たぶん同じ方向にある」

 江口はすぐには答えられなかった。

 その言葉は、慰めというより、命令に近かった。

 だが、悪くなかった。

 翌日、真壁と九条が来た。

 二人が並んで病室に現れると、見舞いというより事情聴取の続きに見えた。

「病室に警視庁捜査一課と法医学者が来ると、死亡フラグみたいですね」

 江口が言うと、真壁は真顔で言った。

「縁起でもないことを言うな」

 九条はベッド脇の椅子に座った。

「体調は」

「昨日よりはましです」

「眠れましたか」

「三時間くらい」

「少ない」

「教師基準では平均です」

「教師基準を医学に持ち込まないでください」

 真壁が小さく息を吐いた。

「二階堂から聞きました。まだ悪夢を見ると」

「二階堂の情報網、広報課にしては実戦的すぎませんか」

「昔からああですか」

「昔からです」

「想像できる」

 真壁と九条が同時に言った。

 江口は少しだけ笑った。

 九条は書類を一枚取り出した。正式なものではない。説明のために必要な要点だけをまとめたメモだった。

「あなたの検査結果について、主治医から説明は受けていますね」

「はい」

「重篤な後遺症を示す所見は現時点ではありません。ただし、睡眠障害と急性ストレス反応は残る可能性があります。薬物の影響が抜けても、現場で受けた恐怖は別です」

「親切な死因説明みたいですね」

「死んでいない人間にも説明は必要です」

 江口は黙った。

 真壁が言った。

「江口。あんたの証言についてだが、薬物影響があった部分は慎重に扱う。ただ、音声記録や物証と一致する部分は多い。あんたの見たもの、聞いたもの、疑ったことは、事件解明に必要だった」

「でも、見間違いもありました」

「ある」

 真壁は否定しなかった。

「だから照合する。警察は、誰か一人の記憶だけで事件を作るわけではない」

 九条が続けた。

「あなたが見た虫や文字は、薬物と疲労による歪みだった可能性があります。でも、その歪みを利用しようとした人間がいた。そこが重要だ」

「僕の壊れ方まで、事件の一部ですか」

「はい」

 九条は静かに言った。

「あなたの体は、犯行の痕跡です」

 江口は窓の方を見た。

 中庭の木が揺れていた。

 風は見えない。

 だが、葉が動くことで、そこにあると分かる。

「嫌な証拠ですね」

「ええ」

 九条は答えた。

「でも、証拠は嫌でも残ります。残った以上、誰かが読まなければならない」

 江口は目を伏せた。

 真壁が、少しだけ声を和らげた。

「二階堂が心配してたぞ」

「本人が言えばいいのに」

「本人が言うと、お前が茶化すからだろう」

「信頼されてますね、僕」

「かなり」

 真壁は真顔で言った。

 九条が付け加えた。

「二階堂は、あなたが退院後すぐ学校に戻ろうとするのではないかと疑っています」

「名誉毀損では」

「事実でしょう」

「九条先生まで」

「少なくとも数日は休んでください」

「学校が」

「学校は一人の教師が数日休んでも回ります」

 江口は反射的に言い返そうとして、やめた。

 九条はその沈黙を見逃さなかった。

「回るべきです。回らないなら、それは学校の問題であって、あなたの生命維持の問題ではありません」

 真壁が頷いた。

「今回は本当に休め。これは刑事としてじゃなく、知人として言ってる」

 江口は二人を見た。

 真壁はまじめすぎる顔をしていた。

 九条は眠そうな顔をしていた。

 どちらも、こちらを現実へ戻すために来ているようだった。

「分かりました」

 江口は言った。

「珍しく素直だ」

 九条が言う。

「反抗期をやる体力がないので」

「それ、前にも聞いた気がします」

「使い回しです。病人なので」

 真壁が小さく笑った。

 その時、病室の扉が開いた。

 二階堂が顔を出した。

「お、まだいた」

「お前も来たのか」

 真壁が言うと、二階堂は紙袋を掲げた。

「差し入れ。スイーツ第二弾」

「病院を何だと思っている」

「桜次郎回復施設」

「雑すぎる」

 江口が言うと、二階堂は笑った。

「笑えるなら大丈夫だな」

「それ、全員言うんだけど」

 九条が言った。

「江口先生の場合、冗談はバイタルサインなので」

「職場の保健室と同じ診断基準やめてください」

 病室に、少しだけ笑いが落ちた。

 事件は終わっていなかった。

 取調べも、鑑定も、報道対応も、遺族への説明も、これからだった。

 春斗の名前が本当に取り戻されるまでには、まだ時間がかかる。

 中原も、相沢も、牧瀬も、死んだままだ。

 青山と鴻上がしたことも、黒須がしなかったことも、消えるわけではない。

 それでも、病室の白い光の中で、江口は少しだけ息を吸えた。

 二階堂が洋菓子屋の袋を開ける。

 真壁が呆れた顔をする。

 九条が成分表示を見て、妙な顔をする。

「何ですか」

 江口が聞くと、九条は答えた。

「病人に渡すには糖質が多い」

「見舞いのスイーツに法医学的見解を出さないでください」

 二階堂が言った。

「食べなって、桜次郎。九条に分析される前に」

「医療関係者の前で食べにくい」

「じゃあ俺が食べよ」

「見舞いとは」

 江口はミルクプリンを受け取った。

 スプーンを入れる。

 柔らかい甘さが舌に乗った。

 コーヒーの苦みは、もうしなかった。

 それだけのことが、少しだけ救いのように思えた。

 数日後。

 江口は自宅の机で、古い同人誌を開いていた。

『黒板係は、四度名前を書く』

 若いころの自分が書いた物語。

 粗い。

 青い。

 今読むと、目を覆いたくなるところもある。

 だが、そこには確かに、当時の自分がいた。

 学校という場所への息苦しさ。

 名前を呼ばれることへの恐怖。

 黒板に書かれることの暴力性。

 出席簿から消されることの怖さ。

 江口はその物語を削除しようとした。

 何度もカーソルを合わせた。

 だが、最後に指が止まった。

 消せば楽になるかもしれない。

 だが、消すことは、また一つの名前を消すことに似ていた。

 江口はあとがきを開いた。

 しばらく考え、短い文章を打った。

 この物語は、誰かの死を飾るためではなく、名前を消された人間を忘れないためにある。

 それだけを書いて、保存した。

 窓の外は晴れていた。

 学校の黒板には、今日も名前が書かれる。

 日直。

 欠席者。

 係。

 呼ばれる名前。

 消される名前。

 江口は目を閉じた。

 もう黒板に、白い少年の名前は見えなかった。

 ただ、チョークの白い粉だけが、どこかに残っている気がした。

 了



読んでくださってありがとうございます。

次回作の更新は 6/3 20:30 です。

お楽しみに。


【ランキング入り作品】

・『哭島列車と五骸童子』完結済

童歌になぞらえて、人が殺される。

登場:真壁、二階堂、九条

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十二の灯とともに、人が殺される。

登場:真壁、二階堂、九条、鳳

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・『雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか』完結済

わらべ歌になぞらえて、人が殺される。

登場:真壁、二階堂、九条、江口

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・『七禍島、鳳恭介の帰還』完結済

過去の事件『七禍』になぞらえて、人が殺される。

登場:真壁、二階堂、九条、鳳

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・『右にある心臓』完結済(社会ホラー)

九条の身体的特徴が、風評により怪異とされていく。

登場:真壁、二階堂、九条

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死者を悼う場所で、生者が順番に裁かれていく。

登場:真壁、二階堂、九条、鳳、江口

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閉鎖空間、見立て殺人、法医学、建築ミステリが好きな方は、ぜひ他作品もどうぞ。

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