第十六章 春斗の日記
鴻上誠一は、しばらく何も言わなかった。
旧三年教室の中にいる全員が、彼の沈黙を聞いていた。奇妙な表現だが、江口桜次郎にはそう感じられた。人間の沈黙にも音がある。怒りを押し込める沈黙。答えを探す沈黙。負けを認めまいとする沈黙。
鴻上の沈黙は、三つ目だった。
音声メモはまだ青山怜司の手の中にある。
そこから流れた鴻上の声は、あまりにも明瞭だった。
殺すな。殺せば江口は被害者になる。
信用を壊すんだ。
本人が自分を疑い出すところまで持っていけ。
幻聴が出るなら頓服を追加させればいい。
足りなければ、本人が勝手に薬を足す。
それは、医師の助言ではなかった。
人間の意識をどう壊せば、その人間の言葉を無効化できるか。どうすれば一人の証人を、生きたまま信用できない存在に変えられるか。その設計図だった。
江口は自分の指先を見た。
震えはまだ残っている。
さっきよりは弱い。だが消えてはいない。視界の端は時折暗く揺れ、黒板の白い粉が虫のように動いて見える瞬間がある。自分の頭が完全に戻ったとは言えない。
それでも、今だけは分かった。
自分は狂ったのではない。
狂わされようとしていた。
その違いは、あまりにも大きかった。
二階堂壮也が、鴻上から視線を外さずに言った。
「あなたは、江口を患者にしたのではありません。患者を作った」
鴻上は答えない。
「そして、青山先生を犯人にした」
鴻上の口元が、ほんの少し動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
だが、笑みにはならなかった。
「言葉が強すぎますね」
ようやく、鴻上は言った。
「私は、青山くんに強制などしていません。彼が自分の意志で選んだことです。音声を聞けば分かるでしょう。薬を発注したのは青山くんです。実際に人を殺したのも、彼です」
教室の空気がさらに冷えた。
その通りだった。
青山は実行犯だ。
その事実は消えない。
中原修一を旧職員室へ呼び出し、相沢真帆を図書準備室へ誘導し、牧瀬隆を旧体育館へ向かわた。黒板に名前を書き、放送を仕掛け、壁内リフトを使い、江口の小説を利用した。
鴻上が何をしたとしても、青山の手についた血は消えない。
青山自身も、それを否定しなかった。
彼は、スマートフォンを握ったまま立っていた。
音声メモを再生した男の顔ではなかった。自分を守るために証拠を出した顔でもない。むしろ、証拠を出したことで、最後の足場まで自分で崩した男の顔だった。
青山は静かに言った。
「ええ。殺したのは俺です」
水嶋沙耶が顔を伏せた。
園田美月は唇を噛む。
朝倉航平は何か言いたそうにしたが、言わなかった。
青山は続けた。
「中原修一は、春斗を最初に標的にした男です。あいつは……あの男は本当に最低の屑だった。優等生のふりをして、春斗のことを気に食わないからという理由で執拗にいじめていた。春斗を……脱がせて……複数人で暴行し、その様子を撮影したり……」
青山の声が熱を帯びる。
「あいつは、春斗が旧校舎の保健室に逃げ込んだことを知っていた。春斗が誰かに助けを求めていたことも知っていた。それなのに、あいつは出席簿の記録を弄り、春斗がその時間にそこへ行っていないことにした」
青山の声は、静かだった。
静かすぎた。
「相沢真帆は、春斗の相談を聞いたふりをして、全部を中原たちへ流していた。春斗がどこで泣いたか。誰に助けを求めたか。何を怖がっていたか。あいつらは、それを笑いながら使った。春斗が逃げ込める場所を、一つずつ潰していった」
水嶋が息を呑んだ。
「真帆が……」
「あなたが知っていた相沢さんは、十四年後の相沢さんです」
青山は水嶋を見なかった。
「十四年前の彼女は、春斗の味方ではなかった。味方の顔をして、春斗を檻の中へ戻す役だった」
教室に、雨音が落ちる。
青山は淡々と続けた。
「牧瀬隆は、中原の手下だった。それだけじゃない。制服をはぎ取り、屋上に閉じ込めた。トイレの個室に閉じ込め、バケツで水をかけた。体育館で春斗を閉じ込めた。暗い器具庫に入れ、鍵をかけ、外から笑っていた。春斗が狭い場所を怖がることを知っていて、それをやった。あいつは、それを卒業後も笑い話にしていた。『あいつ、泣き声だけは一人前だった』と」
誰も声を出せなかった。
「俺がそれを知ったのは、春斗が亡くなった後だった……」
青山は目を伏せた。
「あの三人は、役割を分けていた。中原が指示した。相沢が情報を渡した。牧瀬が閉じ込めた。春斗は少しずつ逃げ場を失った。最後の日も同じです」
二階堂が低く訊いた。
「最後の日、何があったんです」
青山は、黒板を見た。
内田春斗。
白い文字は、もう消えかけている。
「旧放送室の近くで、春斗は三人に追い詰められた。表向きは、自分で窓から落ちたことになっている。でも違う。あいつらは、春斗を旧放送室へ呼び出し、謝罪を強要した。春斗が拒んだ。逃げようとした。揉み合いになって、春斗は窓から落ちた」
青山の手が震えた。
「まだ息はあったはずです。助けを呼べば、助かったかもしれない。でも、あいつらは助けなかった。自分たちの名前が出ることを恐れた。春斗の靴を動かし、手帳を隠し、近くにあったチョークの粉を拭き取り、現場を整えた。あたかも、自分で落ちたように」
「自殺に見せかけた」
二階堂が言った。
「はい」
青山は頷いた。
「学校は、それを受け入れた。いじめは確認できない。旧校舎での不慮の事故、あるいは本人の精神的な問題。そう処理した。証拠不十分、未成年として奴らの名前は表に出なかった。被害者の春斗の名前と回写真だけがさらされた」
江口は息を詰めていた。
内田春斗。
知らない名前だった。
だが、その名前が、今は旧教室の床に血を落としているように思えた。
「春斗が死んだとき、俺は後を追おうとしました。それを止めたのは鴻上だった」
鴻上の目が鋭く光る。
「『どうせ死ぬなら復讐してからだ。このままじゃ犬死だぞ』って。それから、俺は、十四年間調べました」
青山は言った。
「最初は、春斗の死の本当の理由を知りたかっただけです。でも知れば知るほど、殺意が育った。中原、相沢、牧瀬。あいつらがそれぞれ何をしたかを知るたびに、俺は何度も考えました。どうすれば春斗と同じように、あいつらに苦しみを与えられるか」
青山は、そこで初めて江口を見た。
「その最中に、あなたの小説を見つけた」
江口の背中が冷えた。
「『黒板係は、四度名前を書く』。作者、江口桜次郎。最初は偶然だと思えなかった。黒板、出席簿、旧校舎、名前を呼ばれた者が死ぬ。春斗の死を、まるで飾りものにしているように見えた」
江口は何も言えなかった。
「調べれば、あなたは当時、東北の高校一年生だった。事件の詳しいことを知るはずがない。そこまでは分かった。理屈では分かった。でも、許せなかった。春斗の死に似たものを、あなたが物語にしていたことが。読者がそれを面白がっていることが。あなたが、何も知らない顔で教師をしていることが」
青山の目が、かすかに濡れていた。
「弟の死をネタにして食い物にした最低な同人作家。そう思った。江口先生が春斗のことを知った上で小説を書いたと思い込んでいたから」
二階堂が何か言いかけた。
江口は目で止めた。
今は青山に言わせなければならない。
「五人目の復讐対象は決まった」
青山は言った。
「ええ、そう。江口先生。あなたです」
教室が、また静まり返る。
青山の言葉は刃だった。
だが、その刃は、青山自身にも深く刺さっていた。
「俺は鴻上に相談していました。鴻上も春斗のことをよく知っていた。あの子を気にかけていた。だから、一緒に悲しんでくれると思った。いや、実際に悲しんでくれた。ある時俺は鴻上に言った。『お前前言ったよな。春斗を殺した連中に復讐しろって。俺さ、本当に皆殺しにしてやりたい』さすがに引かれると思った。冗談めかして言ったんです」
青山は鴻上を見た。
「でも、鴻上は真剣に答えてくれた」
鴻上は動かない。
「『応援する』と」
その一言で、教室の温度が下がったようだった。
「そこから先は、二階堂さん、あなたが推理したとおりです」
青山は言った。
「俺は復讐のために動いた。鴻上は、薬と情報と手順を与えた。同窓会の二日前に職員室で江口先生のコーヒーに毒を盛り、体調を壊し、証言を曖昧にし、事件の中心に置く。春斗を殺した四人を、江口先生の処女作に沿って死なせる。そして最後に、江口先生を五人目の復讐対象として壊す」
「けれど、あなたは江口に罪を着せ切るつもりだったわけではない」
二階堂が言った。
青山は頷いた。
「ええ。復讐が成功すれば、あとはどうでもよかった。江口先生に罪を着せるのも、事件が完遂すればそれでよかった。後で調査されれば、彼がただの被害者の一人だということは警察には分かる。コーヒーを調べられれば、俺にたどり着く。名札の粉も、薬物の入手経路も、放送設備も、全部、最後は俺へつながる。そこも分かっていました」
青山は、唇を噛んだ。
「ただ――」
声がかすれた。
「鴻上が俺を告発することだけは分からなかった」
江口は鴻上を見た。
鴻上はまだ黙っている。
その沈黙が、さっきよりも重くなっていた。
「青山先生は、鴻上先生を脅しているつもりだった」
江口は言った。
「春斗くんのことで弱みがある。学校医の息子として、当時の記録に触れられる立場だった。春斗くんの不調にも気づいていた。それを使って、鴻上先生を自分に従わせているつもりだった」
青山は頷いた。
「そうです」
「でも違った」
江口は、ゆっくり鴻上へ視線を向けた。
「鴻上先生は、脅されて従ったのではない。待っていたんです。青山先生が復讐を始めるのを」
鴻上の目が、わずかに動いた。
二階堂が言葉を継いだ。
「青山先生を復讐者として育てた。必要な情報だけを与えた。旧校舎の構造を調べさせ、江口の処女作へ誘導した。だが、自分は最後まで表に出ない」
江口は言った。
「あなたは、“脅された医師”の立場を得たかった」
鴻上は黙った。
「青山先生に江口を紹介され、診察した。過労と不眠に薬を出した。犯罪計画など知らなかった。あとで青山先生が逮捕され、あなたの名を出しても、そう言えば逃げられる。青山先生が薬を悪用した、青山先生が江口を利用した、自分は医師として診ただけだ、と」
二階堂が低く続けた。
「そのために、あなたは通話履歴にもメッセージにも決定的な言葉を残さなかった」
「医師は、言葉に慎重ですから」
鴻上が言った。
久しぶりに発した声だった。
だが、その声はもう穏やかではなかった。
江口は小さく頷いた。
「ええ。だから、携帯の履歴だけなら逃げられたかもしれません」
二階堂が青山のスマートフォンを掲げた。
「ですが、青山先生には音声メモを残す癖があった。あなたはそれを知らなかった」
鴻上の表情が、わずかに歪む。
「音声メモには、あなたが江口の証言能力を破壊する方法を教えた声が残っている。名札の粉末、頓服の追加、記憶混濁。さらに、青山先生が発注した薬物の種類と量について、あなたが助言している。これは、“診察しただけ”では通りません」
二階堂の声は冷たかった。
「そして、もう一つ」
江口は言った。
「春斗くんの日記です」
青山が顔を上げた。
鴻上が初めてはっきりと反応した。
「日記?」
青山の声は、かすれていた。
「あなたは知らなかったんですね」
江口は言った。
青山は何も言わない。
知らなかった。
それは表情だけで分かった。
「春斗くんは、大学ノートに日記を残していた。いじめの記録。教師の対応。学校の沈黙。中原たちが何をしたか。そして、鴻上先生への思い」
そこまで言って、江口は口を閉じた。
これ以上は、自分は知らない。
春斗の日記を読んだのは、自分ではない。江口が見たのは、壁内リフトに残されていた紙片と、そこに滲んだ数行の断片だけだった。日記の全体を知っているのは、目の前にいる男だ。
江口は、鴻上誠一を見た。
「鴻上先生」
鴻上は答えなかった。
白衣ではない。濃いグレーのコートを着た医師は、旧三年教室の暗い光の中で、やけに輪郭だけがはっきりして見えた。顔は整っている。声も落ち着いている。だが、もう診察室で見た柔らかさはなかった。
「あなたが、なぜ青山先生に恨みを持ったのか。聞かせてくれませんか?」
鴻上の眉が、わずかに動いた。
「私が、青山に恨みを持った理由……ね」
「ええ」
江口は言った。
「中原さんたちへの復讐は、青山先生の動機で説明できます。春斗くんをいじめ、追い詰め、最後には自殺に見せかけて死なせた。青山先生が彼らを許せなかった理由は分かる」
青山の肩が、小さく震えた。
江口は続けた。
「でも、あなたは違う。あなたは実行犯ではない。少なくとも、表面上はそう見える位置にいた。青山先生に脅された医師。江口を診察しただけの医師。そう逃げる場所を作っていた」
二階堂が一歩、鴻上へ近づいた。
「けれど実際には、あなたが青山さんの背中を押した。江口の証言能力を壊す薬物設計を与えた。青山さんが発注した薬物の使い方を指示した。音声メモには、それが残っている」
鴻上は黙っていた。
二階堂の声は冷たかった。
「あなたは、青山さんの復讐を手伝ったんじゃない。青山さんを使って復讐を遂行した」
教室の空気が凍る。
鴻上の口元が、かすかに動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
だが、その形は笑みにならなかった。
「……ここまで来たら、逃げられないというわけですか」
声が変わった。
穏やかな医師の声ではなかった。
乾いて、低く、喉の奥で削れたような声だった。
「誠一」
青山が言った。
「めでたい兄貴だよ」
鴻上は青山を見た。
その目は、もう青山の知っている鴻上ではなかった。
「怜司。お前は、本当に何も知らなかったんだな」
青山の顔が強張る。
「何を」
「春斗のことだよ」
鴻上は言った。
「俺と春斗は将来を約束した仲だったんだよ」
その場の時間が止まる。凍った空気を鴻上はゆがんだ笑顔で崩した。
「ほらな。お前らみたいな偏見野郎どもがいるから、俺たちはこっそり愛し合うしかなかったんだよ」
鴻上は、のどの奥で笑いをかみ殺す。
「怜司」
青山の体がびくりと揺れる。その様子を鴻上はおかしそうに一笑した。
「お前は、春斗が死ぬまで春斗の苦しみを知らなかった。十四年間調べて、ようやく断片的に知った。中原が指示していたこと。相沢が味方のふりをして春斗の逃げ場所を売っていたこと。牧瀬が中原とともに春斗に暴行していたこと。その様子を撮影して、チクったらお前の裸をバラまくと脅していたこと。そこまでは知った」
青山は何も言えなかった。
「でも、それは表層だ」
鴻上の声が、低くなった。
「氷山の一角でしかない。春斗が何を怖がり、何にすがり、どこで泣き、どんな字で助けを求めていたか。お前は何も知らない」
青山の唇が震えた。
「その、日記を、読んだのか」
「読んだ」
鴻上は即答した。
「春斗の部屋に残されていた大学ノートだ。何冊もあった。いじめの記録。教師に相談した日。相沢に話してしまった内容。中原に呼び出された時間。牧瀬に閉じ込められた時の暗さ。撮られた動画のこと。全部、書いてあった」
水嶋が口元を押さえた。
園田は目を伏せた。
鴻上は、まるで誰にも止められない場所まで来てしまったように、言葉を続けた。
「涙でふやけた跡があった」
教室に、雨の残り香のような沈黙が落ちた。
「ページの端が波打っていた。字は震えていた。同じ言葉が何度も出てきた。『怖い』。『行きたくない』。『誰にも言えない』。『兄ちゃんは分かってくれない』。『いい子でいなきゃ』。『高校を卒業して、遠くの大学に進学したい』。『あいつらの手の届かないところで暮らす。』『だから学校は休めない』。春斗の無念が、あのノートには宿っていた」
青山が、椅子の背を掴んだ。
それだけで体を支えているようだった。
「俺は……」
「お前は知らなかった」
鴻上は切り捨てた。
「春斗の兄だったのに。血のつながった兄だったのに。別々の家に引き取られても、春斗はお前を兄だと思っていた。最後までだ」
青山は何も言えない。
鴻上は、ゆっくりと笑った。
「だが、お前は何をした」
その笑みは、診察室で見た穏やかなものではなかった。
壊れた刃物のような笑みだった。
「お前は、春斗に俺の噂を話した」
青山の目が揺れた。
「鴻上はモテるからな。去年のミスコンの準グランプリだった宮国愛理と噂がある。今は大手局のお天気キャスターだ。そのまま女子アナコースだろう。俺が就職したら結婚するんじゃないか」
「やめろ」
青山の声は小さかった。
鴻上は止まらない。
「春斗は恐る恐る聞いた。『もしも、鴻上さんと誰かが付き合ってるなら、それって遊びなのかな』。お前は言った。『それは遊びじゃないかな』と。『宮国みたいな優良物件を逃すわけないだろう』と。『あいつは計算高いからな。女子アナだったら医者の嫁としても釣り合う』と」
「俺は……」
「そんなつもりじゃなかった?」
鴻上の声が急に鋭くなった。
青山は言葉を失った。
「皆、そう言う」
鴻上は言った。
「あの三人もそうだった。遊びだった。からかっただけだった。閉じ込めるつもりはなかった。死ぬとは思わなかった。教師も同じだ。気づかなかった。そこまで深刻だとは思わなかった。学校も同じだ。いじめは確認できなかった。本人の問題だと思った」
鴻上の目が、青山を射抜く。
「お前も同じだ、怜司」
青山の顔から血の気が引いた。
「春斗の日記に、その会話が残っていた」
鴻上は言った。
「春斗は書いていた。『鴻上さん……そうなんだね、知らなかった』。『俺は、遊びだったのかもしれない』。『兄は何も知らない』。『いい子の俺しか見てない』。『鴻上さんも、俺を選ばない』。『もう誰も、俺を選ばない』」
青山の膝が崩れた。
朝倉が反射的に支えようとしたが、青山はそのまま床に片膝をついた。
「俺は……そんなつもりじゃ」
声が、喉から落ちた。
鴻上が見下ろした。
「そんなつもりじゃなかった。そうだろうな」
その声は冷たかった。
「だが春斗は死んだ」
誰も動けなかった。
江口は、鴻上を見ていた。
この男は告白している。
だが、それは懺悔ではない。
鴻上は、自分の痛みを見せることで、青山を刺している。
死者の日記を、今度は青山を壊すために使っている。
「鴻上先生」
江口は言った。
「あなたは春斗くんを愛していたんですね」
鴻上の目が、江口へ向いた。
その目は、真っ黒だった。
「愛していた?」
「違うんですか」
鴻上はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「愛していた……ね。そんな言葉が陳腐に聞こえるくらい、俺たちは繋がりあっていたよ」
教室の空気が軋んだ。
「春斗は、俺にとって初めてだった。守りたいと思った。あの子が保健室で震えているのを見た。誰にも言えないと言っていた。兄にも言えないと言っていた。俺は、聞いた。全部聞いたつもりだった。受け止めたつもりだった」
鴻上の声が、かすかに震えた。
「春斗に言ったさ。そんな学校なんか行くな。俺と逃げようって。でも春斗は言うんだ。鴻上さんはお医者さんになって、たくさんの人を救ってほしい。だから俺も、俺で頑張ると。俺はそんな春斗を守るために、将来の居場所を約束したんだよ。養子縁組でもなんでも構わない。家族になろうって。俺は医者、春斗は教師。加害者の糞どものいない田舎でのんびり暮らそう……って……」
誰も口を挟まない。
「でも、かなわなかった。俺のせいだ。春斗との関係を、公にしなかったから。将来があるから。医者になるから。学校に出入りする立場だから。相手は高校生だから。そんな言い訳を、自分に何度もした。宮国愛理の噂も、否定すればよかった。遊びではないと言えばよかった。春斗を見ていると声を上げて言えばよかった」
鴻上は、笑った。
「言わなかった」
青山は、床に膝をついたまま、顔を上げられない。
「日記を読んでから知った。春斗が、俺を待っていたことを。俺に選ばれなかったと思って死んだことを。あの子は、俺に捨てられたと思ったまま死んだ」
鴻上の声が、急に荒れた。
「お前のせいだ、怜司」
青山の肩が震えた。
「春斗の兄だったお前が、春斗を見ていなかった。何も知らなかった。なのに、最後の希望まで折った」
「俺は……俺は、春斗を傷つけるつもりなんて」
「それはもう聞いた」
鴻上は吐き捨てた。
「俺は、お前をすぐには殺さなかった。殺して終わらせるほど、優しくなれなかった」
江口の背中に冷たいものが走った。
二階堂が一歩前に出る。
鴻上は続けた。
「お前は春斗の兄だった。だから、春斗の復讐をさせてやろうと思った。いや、違うな。させてやったんじゃない。お前を復讐者にした。春斗の死に関わった連中を殺させ、春斗を食い物にした作家を殺させ、最後に自分が何をしたのかを知って壊れればいいと思った」
江口は静かに言った。
「青山先生が江口を殺さなかったのは、あなたの予定外だった」
鴻上の目が、江口へ向いた。
「そうだ」
即答だった。
「俺は、お前のことも殺せと言ったんだがな」
二階堂が動いた。
だが、鴻上はもう止まらなかった。
「青山は、頑なに首を縦に振らなかった。薬で壊す。事件の中心に置く。五人目の対象にする。だが、殺しはしないと言った。馬鹿げていると思った」
鴻上の声が、暗く沈む。
「俺にしてみれば、お前も同罪だ」
「江口は、春斗くんの事件を知らなかった」
二階堂が言った。
「知っていようが、知らなかろうが、同じだ」
鴻上の声が乱暴になった。
「黒板、出席簿、名前を呼ばれる死。あの子が消された構造を使って、人を楽しませた。知らなかった? だから何だ。知らずに踏みつけたなら、痛みは消えるのか」
江口は鴻上を見た。
逃げなかった。
足は震えていた。薬物の名残か、恐怖か、自分でも分からない。
だが、視線は逸らさなかった。
「僕は、春斗さんを知りませんでした」
「だろうな」
彼は、コートの内側へ手を入れた。
二階堂が叫ぶ。
「鴻上、手を出すな!」
遅かった。
鴻上の手には、折り畳み式の登山ナイフが握られていた。
刃が開く音が、旧教室に小さく響いた。
水嶋が悲鳴を上げた。
園田が後ずさる。
青山が顔を上げる。
鴻上は江口を見ていた。
「なら、ここで殺す」
声は、低かった。
医師の声ではなかった。
「春斗を知らなかったと言うなら、死んで覚えろ」
鴻上が踏み出した。
二階堂が江口の前へ出る。
「下がれ!」
江口に言ったのか、鴻上に言ったのか、分からない。
鴻上は止まらなかった。
刃先が光った。
その瞬間、青山が床を蹴った。
「鴻上!」
声は、悲鳴に近かった。
青山は鴻上の腕に飛びついた。二階堂も同時に動いた。三人の体がぶつかり、机が倒れた。ナイフが床へ落ちる音がした。
乾いた、軽い音だった。
鴻上はなおも手を伸ばした。
「離せ、怜司!」
青山は離さなかった。
「もうやめろ」
声が震えていた。
「もう、春斗の名前を使うな」
鴻上の顔が歪む。
「お前がそれを言うのか」
「俺が言う」
青山は泣いていた。
泣きながら、鴻上の腕を押さえていた。
「俺は春斗を見ていなかった。俺は春斗を傷つけた。俺は人を殺した。だけど、もうこれ以上、春斗の名前で誰かを殺すな」
二階堂が鴻上の腕を床へ押さえた。
朝倉が遅れて加わり、ナイフを遠くへ蹴った。
江口は動けなかった。
いや、動かなかった。
目の前で、鴻上が初めて完全に崩れていた。
白衣の内側に隠れていた男が、旧教室の床に押さえつけられている。
鴻上は、青山を見た。
その目には怒りも、憎しみも、哀しみもあった。
だが、何よりも深いのは、空虚だった。
「春斗は」
鴻上の声は掠れていた。
「あの子は、誰にも選ばれなかったんだ」
鴻上は項垂れた。
その沈黙は、今度こそ敗北に近かった。
青山はその場に崩れた。
涙は止まらなかった。
「俺は」
青山は言った。
「弟を追い詰め、命を奪った奴らが許せなかった」
声は震えていた。
誰も止めなかった。
「春斗の名前を消した学校が、何も知らなかった顔で生きている人間たちが、許せなかった。中原を殺した。相沢を殺した。牧瀬も殺した。江口先生を五人目にしようとした。全部、俺がやった」
青山の目から、涙が落ちた。
一粒だけだった。
それから、次が続いた。
「でも」
声が崩れる。
「本当に一番許せなかったのは、いちばん近くにいたはずなのに、春斗の叫びを何ひとつ聞けなかった、僕自身だったのかもしれませんね」
その言葉は、教室の黒板に静かに落ちた。
誰もすぐには反応できなかった。
青山は泣いていた。
整った顔を崩し、肩を震わせ、それでも声を殺そうとしていた。泣く資格などないと思っている人間の泣き方だった。
水嶋は目を伏せた。
園田も泣いている。
朝倉は壁を見ていた。弁護士として、同窓生として、どう処理していいのか分からない顔だった。
二階堂は、鴻上の腕を押さえたまま、低く言った。
「鴻上誠一先生」
鴻上は答えなかった。
「あなたが真犯人です」
教室の外で、サイレンの音が聞こえた。
遠い。
雨上がりの空気を裂くように、少しずつ近づいてくる。
警察と救急が到着したのだろう。
夜が終わろうとしている。
二階堂は続けた。
「青山先生は実行犯です。中原、相沢、牧瀬を殺した。黒須さんを殺害未遂に巻き込み、江口を五人目の対象にしようとした。その罪は消えない」
青山は泣きながら、頷いた。
「だが、その復讐を始めさせ、江口を壊す薬物設計を与え、青山先生を最後に警察へ差し出す筋書きを作ったのは、あなたです」
鴻上は、もう何も言わなかった。
江口は黒板を見た。
そこには、消えかけたチョークの跡が残っている。
黒板係は、最後の名前を書く。
そう放送は言った。
だが、江口は思った。
もう書かせない。
誰の名前も、これ以上。




