第3話:【第1便】特選ハンバーグ_3
翌日の夕方。
仕事を終えて部屋に帰ると、玄関の空気が少しひんやりしていた。外は曇り。春の終わりの雨が降り出しそうで、廊下には湿った独特の匂いが漂っていた。
鞄をソファに置き、手を洗って顔を軽く拭う。
「今日は作ろ」
冷蔵庫を開けると、銀色のパックが昨日のまま光っていた。ラベルの端に水滴がついて、それがぷくりと動くと、まるで息をしているみたいだった。
取り出すと、指先にひやっとした感触が伝わる。台所の照明に反射して、金属っぽい光を返す。
「冷た……でも美味しそうなお肉」
封を切る前に、匂いをかいでみた。はっきりとした香りはわからない。だけど、ほんのり甘く、スパイスのような香りが混じっている気がした。普通の肉の匂いじゃない。しかし、不思議と嫌な感じはしなかった。
まずは玉ねぎを刻む。まな板の上で包丁がリズミカルに鳴る。
――トントン、トントン。
その音が妙に小気味よくて、仕事の疲れが少し抜ける。
「あーはは、涙出る……けど、これも久しぶり」
独り言が自然に出た。
フライパンに油をひき、刻んだ玉ねぎを炒めると、油のはぜる音と一緒に甘い香りが立ちのぼる。その匂いだけで、食欲が湧いてきた。
ボウルに炒めた玉ねぎとパン粉、卵を入れる。銀色のパックの端をハサミで切ると、中の空気が抜けるように「ぷしゅっ」と音がした。肉を取り出して、そのままボウルの中へ。感触は冷たく、少しねっとりしていて、触ると指先に吸いつく感じがする。
「うわ……すごい弾力」
気合を入れて、両手でこねる。
ぐに、ぐに、と手の中でまとまっていく。ひんやりしていたはずの肉が、だんだん体温で温まっていく。いつの間にか、手のひらの奥にまで熱がこもっていた。
「空気を抜いて……それから、真ん中、ちょっとへこませて」
昔の記憶が自然に口から溢れた。声に出すと、少し安心する。
丸く整えたタネを皿に並べ、フライパンを火にかけた。
油が温まるまでの間に、付け合わせの準備。
冷蔵庫の野菜室を開けると、しなびかけたじゃがいもが三つ。皮をむいて一口大に切り、レンジで少し温める。バターを落として塩をふる。ふわっとした香りが鼻をくすぐる。
サラダは簡単に。レタスとトマトをざくざく切って、ボウルに入れる。彩りが綺麗だと、それだけで気分が違う。
「よし、準備OK」
油がゆらゆら揺れはじめる。タネをそっと置くと「じゅうっ」と、勢いよく音が弾けた。その瞬間、部屋がいっきに香ばしい匂いで満たされる。
私は思わず目を細めた。
「ああ、この音。良い音だよね、美味しい音」
……昔、彼と一緒にハンバーグを焼いたときの記憶が、ぼんやり浮かんできた。
『焦げ目がしっかりつくくらいが好きだな』
小さく笑って、火加減を弱める。すると油が跳ねて、頬に一滴飛んだ。
「熱っ……」
指で拭って、もう一度笑う。情けないような、仕方がないような。
じっと焼き色を確認して、フライ返しでひっくり返す。少し黒くなった表面がカリッとしていて、いい香りが立った。
そのまま、ソースを作る。小鍋にウスターソースとケチャップを入れて、隠し味に少しバター。泡が立つたび、甘い匂いが漂う。
「この配合、何で覚えたんだっけ?」
誰にともなく呟いた。そして、ふと思い出す。それは昔、元彼が好んで作っていた比率だった。
更に思い出そうとすると、手が自然に動く。調味料を測らなくても、美味しくするための分量がぴたりと合う。頭よりも、身体のほうがよく覚えているのだ。
フライパンの中のハンバーグを確認して、蓋をする。しゅうぅと抜ける音を立てながら、じんわりと湯気が漏れる。
タイマーを五分にセットして、壁にもたれる。
部屋が静かになる。油の音と、時計の秒針だけが重なって聞こえる。
ピピピピピ――ピピピピピ――
タイマーが鳴る。
蓋を開けると、湯気がもわっと顔にかかった。焼けた肉の香りが、並んだ甘いソースの匂いと混ざって鼻を刺す。
一瞬、目の奥が熱くなる。
「いい匂い……」
小さく息を吐いて、皿に盛りつけた。
じゃがいもを横に添えて、ソースをかける。濃い茶色のソースが照明を受けて光った。湯気がゆっくり立ち上り、白が天井の明かりに溶けていく。
「よし、完璧」
窓の外を見ると、雨が降り出していた。雨音が静かに続いている。窓際にいると、雨の香りが漂った。嫌いじゃない。カーテンを閉め、椅子を引いた。
フォークとナイフを並べ、椅子に座る。ふぅ、と一息ついて深呼吸する。
その瞬間、冷蔵庫の中で何かが小さくぴきっと鳴った。氷が割れたような、ガラスが軋んだような音。
「……冷凍庫の氷?」
首を傾げて笑い、気にしないことにした。部屋の空気が少し冷たくなった気がしたけれど、ハンバーグの湯気がすぐにそれを追い払った。
私は指先を組み、手を合わせる。
「いただきます」
そう言いかけて、少しだけ間を置いた。唇が僅かに動く。……が、いただきますの代わりに何を言おうとしたのか思い出せなくて、そのまま口を閉じた。結局、心の中で「いただきます」と言う。
その言葉に反応するかのように、冷蔵庫のモーターが低く唸った後、静かになった。まるで、誰かが息を殺して聞いているような静けさだった。




