第29話:【第6便】あったかポトフ_4
椅子に腰かける。目の前のポトフは、まるで私に食べられるのを待っているかのように、美味しそうな匂いを放ち続けている。
「ちょっと……どんな感じか触ってみたいよね、まずはさ」
スプーンで肉の端を押し込むと、繊維がすっとほぐれた。
「わぁ……すごい」
声が漏れた。
長時間煮込んだつもりはなかったのに、こんなに柔らかいなんて。
「何か特殊な液にでも浸けてたの? でも、匂いも見た目も別に違和感なかったもんなぁ」
この柔らかさは衝撃的だ。
すぐにでも食べたい衝動を何とか抑えて、他の食材にスプーンを伸ばす。
そっと底にスプーンを沈めて、まずはスープを。
琥珀色が透けて、泰斗に反射して出来た光が揺れる。
それから、野菜を順にみていく。
にんじんは輪切りのまま形を保っていた。玉ねぎはとっくにバラバラに崩れていて、じゃがいもは角が取れて少しばかり丸くなっている。
セロリは煮込んでも、まだ鮮やかな薄緑色を保っていたし、コーンはただ載せただけなのに、独特の優しさを持っていた。
「いい感じ。見た目も完璧」
テーブルの上には、このポトフの入った深皿とパン皿とコップ。
「あっ! パン!」
皿を並べただけで、パンは袋に入ったままだった。慌てて皿にカットした食パンを載せる。
本当はバケットが良かったが、あいにく我が家には食パンしか常備していなかった。
「仕方ないよね。次は買ってこれば良いだけだし。じゃ、いただきます」
いざ、スープをひと口。
舌の上で、出汁の甘さが広がる。塩は控えめで、野菜のうまみが主役。これは間違いない。
「うまっ! やっぱり染み出てるね、出汁が……」
目を細める。温度が喉を通り抜け、身体の奥底に落ちていく感覚が、とにかく気持ちいい。
次にじゃがいも。フォークを刺すと、ほろっと崩れる。
「うん、いい煮え具合。これくらいが好きなのよ」
噛むと、ほのかな甘さが口いっぱいに広がった。
続けて他の野菜も口へ運ぶ。
にんじんは柔らかく、玉ねぎはとろけるよう。スープが染み込んでいて、噛むたびにじんわり温かい。
コーンはプチッとした歯ごたえをアクセントに、セロリも少量なのが逆に香りを引き立てている。
「これも、誰かに食べさせてあげたいなぁ」
思わず口から出た。
……その誰かは、毎回同じであることはわかっている。我ながら、うっすらとしか出てこないのがポンコツだと思う。
思い出せるはすなのだ、きっと。
それなのに、私の何かが、それを拒否している。
どうしてなのかはわからない。だから、特にわからなくてもいいやと思う。
思い直して、フォークの側面を、ナイフ代わりに肉の側面へ差し込んだ。驚くほど、繊維がすっとほどけていく。
「やわらか……」
そのまま刺してひと口。
舌に乗せた瞬間、脂の旨味がじんわりと溶けて、この上ない旨みが広がる。そして、奥歯で噛み締めるたびに、肉の深い味がゆっくりと出てきた。
「やばい、幸せ」
小さく幸せを噛み締めながら、もう一口。
そのとき、一瞬だけ金属の味が口内を刺した気がした。
「ん? 何この味。えっ?」
フォークを見たけど、何もない。そりゃそうだ、もし錆の味だったら、流石に気が付く。……表面ならばだが。
「気のせい、か」
パンをちぎってスープに浸す。汁気を吸って一層柔らかくなったパンが、口の中で溶けていく。
「これ、リゾットにしてもいいんじゃないかな。いいな、アレンジがいっぱいあるって」
独り言が増える。
スマホを見て、思いつくままメモを打った。
リゾットアレンジ。ポトフ。夜ご飯。
あとで検索できるように、忘れないためのメモだった。
――コトン。
「……?」
静かな中に響く物音に、私は思わず顔を上げた。
念のためにと見に行っても、特に何もない。
「地震? 外で工事でもしてたっけ?」
スマホで速報を確認するが、特に通知はない。
「気のせい、だね」
ふぅ、と、溜め息を吐く。それでも、胸の奥が少しざわついていた。
気を取り直し、スープをもう一口。
温度が少し下がって、味がまろやかになっている。
「うん、ちょっと冷めても美味しいのは嬉しい」
そう言って、グラスの水を飲む。
冷たさで口の中がリセットされて、またスープが恋しくなる。
噛み応えも欲しくなって、肉も野菜も口の中へ消えていく。
気が付けば、皿の底が見えてきた。
「これも早かったなぁ」
最後の一口をすくいながら、ふと思う。この香り、やっぱり昔作ったポトフと同じだ。一緒に作った夜、笑い声、湯気、温かい手。
――あの人。
でも、どんなに頑張っても、靄がかかったように名前も顔も出てこない。喉の奥に小さな違和感が残る。
性別だけはわかるのだ。男の人だった、それも確か――
「ま、仕方ないよね。人の名前と顔、覚えるのって苦手だし?」
スプーンを置いて、小さく何度も頷く。今の私を正当化するように。
その瞬間、背中に微かな息を感じた。まるで誰かが、すぐ後ろでこちらを覗き込んでいるような。息をのむほどの生々しい感覚に、びくっとして振り返る。
――でも、誰もいなかった。
「もう、怖いこと考えるからだよ。私の悪い癖だね」
自分に言い聞かせるように無理やり笑う。笑い声が少しだけ乾いて響いた。
皿の底に少しだけ残ったスープを、パンでぬぐう。
「これで、よし」
食べ終えた皿を両手で持ち上げて、軽く傾ける。
数滴残る琥珀色の光が底に溜まって、ゆっくり表面を流れる。その中に、一瞬だけ黒い線のようなものが見えた。髪の毛のようで、すぐに消えた。
「……」
何も言わずに、皿を置いた。それから、意識的に明るい声を出した。
「ごちそうさまでした! あー、美味しかった!」
声が響いて、部屋の中で少し遅れて返ってくる。反響音のはずなのに、もうひとつ、返事のような声が重なった気がした。
私はしばらく動けずにいたけれど、不安を誤魔化すようすぐに笑って片付けを始めた。
「食べすぎちゃったな……」
シンクに皿を置く。
蛇口をひねると、水が透明な音を立てて流れる。
私は、もう振り返らなかった。




