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身に覚えはありませんか?  作者: 三嶋トウカ
夏:第1便~第3便

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第1話:【第1便】特選ハンバーグ_1


 その日は金曜日だった。朝の光が、彼女の瞼越しに存在を主張する。少し閉め忘れたカーテンの隙間から、朝の静けさがほんの少しだけ覗いていた。


 ピピピピピ――ピピピピピ――


「……うーん……」


 ピピピピピ――ピピピピピ――


「はいはい……」


 左手でスマホの電源ボタンを押す。アラームを止めてからも、彼女はしばらく布団の中で目を閉じていた。

 部屋は一人暮らしには十分な広さで、彼女の好みなのか、観葉植物が置かれていた。シンプルな色で構成された家具。そして、整頓された水回りとクローゼット。

 時計の針が一秒ごとに鳴る音だけが、生活の証のように響いていた。


「……そろそろ起きるかぁ」


 声に出してみるが、この部屋には返事をする人はいない。それでも、独り言を口にすると、少しだけ空気が柔らかくなる気がした。


 台所に立ち、電気ケトルのスイッチを入れる。コーヒーを淹れるのは、毎朝の日課だった。お湯が湧くまでの間、冷蔵庫を開ける。

 昨日の残りの野菜、半分使いかけの卵、小さめな合挽肉のパック。萎びてカサカサになったネギを、彼女はゴミ箱に捨てた。

 ……特に変わり映えしない、いつも通りの中身。


「……ハンバーグ、久しぶりに作ろうかな」


 そう呟いてから、彼女の胸の奥が少しだけ温かくなった。


 ――思い出したのは、十四年前の春。

 大学の近くのアパートで、初めて出来た彼氏と、二人で作ったハンバーグ。

 うっかり焦がして笑い合った夜の匂い。

 その記憶が、油の匂いと一緒にまだどこかに漂っている気がする。


 朝食はトーストとコーヒーだけにして、身支度を整える。鏡の中の自分に、短く挨拶した。


「今日も、頑張らない程度に頑張ろ」


 目元の小さなクマを隠すように指でなぞった。


 通勤電車は、いつもより少し混んでいた。車窓に映る自分の顔を眺めながら、イヤホンの音量を少し上げる。

 僅かに聞こえる、周りの音。隣の学生たちが笑っている。その声に混じる笑い方が、かつての彼の笑い方に少し似ている気がして、思わず窓の外に視線をそらした。


 会社に着くと、午前中は書類とメールの整理であっという間に過ぎた。迎えた昼休み、同僚が新しいお弁当箱を見せながら言う。


「最近、自炊始めたんだ。やってみると、意外とハマるね」

「いいじゃん。料理は、無心になれるもんね」

「え、料理するの?」

「うん、気が向いたらだけど。昨日も作ったよ」

「何作ったの?」

「オムライス」

「へえ、いいなあ。写真撮ればよかったのに。みんなタグ付けて、SNSアップしてるでしょ」

「確かに。次は撮るかも。てか、そんなに私が料理するの意外?」

「あー。ごめん、なんかイメージになくて」

「酷いなぁ」


 笑いながら答えた。


 (――写真、か。彼といたころは、よく撮っていたっけ。焼け具合がいいとか、ソースの照りがどうとか、盛り付けが上手くいったとか、そんな他愛もない理由で)


 午後、仕事が一段落したころ、休憩スペースでコーヒーを飲む。本日二回目のコーヒー。カフェインの撮り過ぎが良くないことはわかっているが、彼女はやめられなかった。

 コーヒーを飲みながら、SNSの懸賞アカウントを何気なくスクロールした。


 『#食材モニター』『#懸賞当選』『#無料サンプル』『#キャンペーン』。懸賞関連の投稿を見ると、つい参加してしまう。これなら、応募だけなら名前、住所、メールアドレス、何もいらない。

 『フォロー&リポストで応募OK!』という文字が輝いて見える。『どうせ当たらないよね』と思いながらも、フォローとリポストをタップすると、胸の奥が少し軽くなった。

 ……なぜだろう。誰かが見ていてくれる、そんな気のする瞬間があった。


 定時で上がり、外に出ると風が少し冷たくなっていた。春の終わりの夕暮れは、色が淡い。

 スーパーの袋を提げ、マンションの坂を上る。買ったものは、玉ねぎとパン粉と牛乳。今足りない、ハンバーグの材料。


「今日はちゃんと、焦がさないようにしよう」


 独り言を呟きながら、ふと足元のアスファルトを見ると、西日が影を長く伸ばしている。その影が、一瞬二人分に見えた。


 家に帰り、カーテンを閉めて照明を点ける。手洗い、うがい、ルーティンの動作を終えた後、冷蔵庫を開ける。残っていたひき肉のパックは、ちょうど良い色のままだった。賞味期限は明日だ。


「よし、久し振りにハンバーグにチャレンジ」


 玉ねぎを刻みながら、彼の声がふっと浮かんだ。


 ――焦げ目がつくくらいが、一番美味いんだ。


「わかってるって」


 笑って、手早く動く。玉ねぎを炒めパン粉を牛乳に浸し、ボウルに材料を入れてこねる。だんだんと手の中の温度が上がり、柔らかくまとまっていった。


「ね、こんな感じで合ってたよね」


 誰にともなく話しかけながら、フライパンを温めた。


 ――じゅうっ。


 音が弾け、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。油が跳ねて、頬に小さく当たった。


「いたっ……。もう」


 半分呆れて笑いながら、フライ返しを握る。


 ハンバーグを皿に盛り、ソースをかけた。湯気の向こうに、甘くて濃い匂いが広がる。テレビの音をつけるのも忘れて、ただ黙って食べた。

 味は、思っていたよりも優しかった。


「おいしい」


 その一言で、今日一日の疲れがどこかへ飛んでいくようだった。


 洗い物を終えて手を拭くと、指の先に少しだけ油の匂いが残っていた。


「……これ、投稿しとこうかな」


 スマホを手に取り、写真を一枚撮る。


『#おうちごはん』『#手作りハンバーグ』『#自炊ご飯』『#ハンバーグ』


 投稿ボタンを押すと、心の奥にぽっと灯りがついたような気がした。

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