第9話:中立地帯へ向かうキャラバン 〜暑すぎる!〜
キャラバンの一番後ろの馬車のさらに後ろで、クロサワは右足を外に垂らして通り過ぎる道を見つめていた。表情は冷たく、目には虚ろな光が宿っていた。向かいに座っているヴァナが、つま先でクロサワを軽く突っついた。
「どうしたの? 元気なさそうね」
クロサワはわずかにうつむき、疲れたような笑みを浮かべた。そしてゆっくりと顔を上げ、怒りを滲ませた視線をヴァナに向けた。
「こっちに来てから何も食ってないんだ。で、お前…金がないってだけで、俺に飯を買ってくれなかったな」
「だって、お金ないでしょ?」
「そうだよ、ないよ。でもちょっとくらい貸してくれても死なないだろ?! それに、自分の飯を少しくらい分けたって死なないよな、なあ?!」
ヴァナはお腹に手を当てて、満足そうに目を細めた。肩の力を抜き、まるで柔らかいパンのように顔を緩めた。
「でも、すごく満腹で幸せなのよね~…」
クロサワは怒りで顔をそむけ、また道を眺め始めた。お腹が鳴りそうになり、手で押さえてどうにか我慢する。
とにかく、金を稼がないと。魔界に行く前に、この中立地帯でちょっと稼げたら…
顔を向けずに、視線だけをヴァナにやった。
「中立地帯で仕事を探さなきゃな」
ヴァナはため息をつきながら、軽くうなずいた。
「そうね。私も仕事が必要よ。勇者ギルドには入ってないのよね?」
やっぱギルドの話か…ありがちだな
「入ってないし、入会金も払えない」
ヴァナは「わかってたわ」とつぶやいた。
二人は静かに考え込んだ。金がなければ生きていけない。クロサワの中では、金を手に入れて、新しい力を試したいという欲望がどんどん大きくなっていた。
早く、早く、早く! 新しい力を試して、魔界に突っ込まなきゃ。でも今の力じゃ魔王になるには足りない。もっと強くなるか、仲間を増やすか…勇者を殺すしかねぇ
馬車は揺れながら進み、石を踏むたびに身体が小さく跳ねた。クロサワは空を見上げながらぼんやりとしていた――そのとき、大きな手が右肩に置かれ、体ごと左へと引っ張られた。
驚いて顔を向けると、きれいに剃られた短い赤毛に、青い目の若い男が笑みを浮かべていた。
その男は目を細めて言った。
「仕事探してるんだろ? オレと一緒に来ないか?」
突然の提案に、クロサワは驚きを隠せなかった。
「……ああ。でも、あんた誰?」
「ハハハ! オレはレッキンってんだ。冒険者だよ。安く雇える射手を探しててな」
クロサワは右手を腰の銃に添えながら言った。
「目がいいな。オレはク…ジェイムズだ。報酬ってのは、どれくらいだ? 宿と飯は?」
レッキンは肩に置いた手を離しながら笑った。
「ハハハ! お前おもしれぇな、ク…ジェイムズ! 報酬は、二泊の宿代と、食い放題の飯だ!」
ヴァナは興味なさそうに前を見ていたが、耳はしっかりと二人の会話を捉えていた。
「そりゃ悪くないな。それで、何をすればいいんだ?」
レッキンは人差し指を顔の横で立てた。
「一つだけだ、ク…ジェイムズ。たった一つ。それはな……」
クロサワの目が輝いた。胸の奥で冒険心が再び芽吹いていくのを感じていた。
こいつ…まさか王道のやつか? 主人公の危機を救って仲間になる、ちょっと抜けたけど強いタイプのやつ? いいぞ、言ってみろ! めっちゃ気になるぞ!
「洞窟から出てくるゴブリンを倒してくれ」
クロサワの目から一気に光が消えた。まるで干からびた魚のような目で、魂が「平安を…」とつぶやきながら抜け出ていくようだった。
レッキンはクロサワの肩を掴み、不安げに揺さぶった。
「おい、ク…ジェイムズさん!? 大丈夫か!? しっかりしてくれ、頼むっ!」
おまえのせいで、オレのライフゲージがゼロになったわ……
その後の旅の間、ヴァナは無関心を装い続け、レッキンはクロサワの魂を呼び戻そうと必死に肩を揺さぶりながら「ク…ジェイムズ!」と何度も叫んでいた。
他の武装した旅人たちは、レッキンから滲み出る真っ赤なオーラを感じ取り、黙って見守ることにした。皆が心の中で祈っていた。
神よ……どうかこの男の望みが叶いますように
旅の間、大した出来事は起こらなかった――レッキンの叫び以外は。
キャラバンは中立地帯の境界に近づいていた。乾いた風と焼けつくような暑さが、それを知らせていた。
クロサワは額の汗をぬぐい、背中のジャケットを脱いでも、少しも涼しくならなかった。
ヴァナの隣に座っていた老婆は、シワだらけの顔に、ニキビの残る大きな鼻、前に突き出た顎をしていた。彼女は黒いローブをまとい、足を投げ出し、膝を抱えるように座っていた。
突然、老婆が語り出した。
「中立地帯。砂岩でできた平屋の家々、暗い裏路地、焼けつく太陽と乾いた土……住むには厳しい土地じゃ。なぜこの地だけ他よりも暑いのかは誰にも分からん。だが、魔力が濃く、魔界に最も近い場所であることが原因という説もある」
クロサワは老婆の突然の語りに耳を傾けたが、知っている情報ばかりで肩を落とした。
その視線が、いつのまにか老婆の足の間へと吸い寄せられていった。
そして――目から血がにじみ、頬を伝って流れ落ちた。
クロサワの目から流れる血を見て、レッキンは驚いて眉を吊り上げた。
「クロサワ……目から血が……どうしたんだ?」
クロサワは指をさし、老婆の股のあたりを示した。
「ローブの中……下着すら履いてない……すべてが……しわしわ……」
レッキンはその指し示す方向を思わず見てしまい、鼻血がダラリと顎まで垂れた。
クロサワは血に染まった目でレッキンを見据える。
「変態……」
「おいクロサワ! お前はあまりにエロい視線で見すぎて目から血を流してんじゃねぇか! それで俺を変態呼ばわりだと!?」
クロサワが反論しようとしたその時、話題の老婆が足を下ろし、眉間に皺を寄せてレッキンを睨んだ。
「おまえみたいな下劣なガキは初めてじゃよ! 注意する代わりにじっと見やがって! しかもあたしゃお前の婆ちゃんより年上かもしれんのに!」
老婆が叫んだ拍子に、口の中に一本だけ残っていたダイヤのように輝く前歯が飛び出し、レッキンの右目に命中した。
一瞬、レッキンは固まった。
「な……に?」
彼は左手の甲で鼻血を一拭きし、そのまま目を覆った。
「なんだこれぇぇぇぇぇ!? 燃える! 目が燃えるぅぅ! クロォォォ……ジェーーームズッ!!」
クロサワのほうを右目で睨みながら叫んだ。
「クロ……ジェイムズ。歯が目に入った……もう一人で冒険なんてできない……だから、親友として、お前とずっと一緒にいるからな!」
クロサワはため息をつき、手のひらで顔を覆った。
なんでこのアホをあんなに頼れる奴だと思ったんだ……?
荷馬車が「中立地帯」の広場に到着すると、クロサワは軽やかに飛び降りた。広場は砂埃が舞うほど乾燥しており、どこか荒んだ雰囲気を漂わせていた。ヴァナはすでに下りており、広場の片隅に立っていた。彼女の表情にはどこか沈んだ影が落ちていた。
「ヴァナ、俺はレッキンと一緒に――」
言いかけたクロサワの言葉を遮るように、ヴァナは手のひらを彼の顔の前に掲げた。
「わかった。行ってらっしゃい。私は自分のことをどうにかするから。……でも、日が沈む前にはここに戻ってきて。ここを集合場所にしよう。」
クロサワはヴァナの差し出した手の指先をそっと掴み、唇を寄せて優しくキスを落とした。
「了解。」
そう言って背を向け、レッキンのもとへと歩き出した。
ヴァナはその場に立ち尽くし、クロサワの後ろ姿を見送っていた。指先に残る温もりに、心がざわめく。
「いまのは……?」