そうしてここから始まる(3)
「お父様喜んでくれるかしら」
ケーキの入った箱を入れたバスケットを握りながらイザベルはユリウスの差す日傘の中に入った。
「公爵様はベルが買ってきた物なら何でも喜ぶよ」
「そうね。お父様、私のこと大好きだもの」
(私もお父様のこと大好きだけれど)
他の貴族と比べてもイザークとの仲は良好である。多忙の身であるイザークに時間ができれば三人で出かけるのがランドール家の日常だ。
(早く帰ってお茶を準備して書斎に向かおうっと)
そうしてうきうきとした気分で馬車に戻ろうとした矢先のことだった。
突然足を止めたユリウスに引っ張られ、イザベルはバランスを崩し彼の体に鼻をうちつけた。
「んっもう! いきなり止まらないで!」
「ごめん」
声を荒らげながらヒリヒリ痛む鼻を手で覆い、ユリウスを見上げた。彼は何やら心配そうな顔をして横の脇道に目を向けていた。
イザベルも怒りを解いてユリウスの視線の先を追う。
「あっ」
広がっていたのはガラの悪い二人組がイザベルと同じ年齢くらいの娘を恐喝している光景だった。荒々しい怒鳴り声がここまで届く。
お使いの最中だったのかバスケットは地面に転がっており、落とした弾みに飛び出した食べ物らしきものは彼らによってぐちゃぐちゃに踏み潰されていた。
怒鳴り声に道行く人は一時視線を向けるが、絡まれて被害がこちらまで及ぶのを避けてか仲裁に入る素振りはない。見て見ぬふりをして去っていく。
(ひどい)
「ちょっとここで待ってて」
騎士として見過ごせなかったのだろう。イザベルの反応を待たずユリウスは娘と悪党の間に入り──
あっという間に悪党達は地面に組み伏せられた。安全が確保されたのを確認してイザベルも倒れている娘の元へかけて行く。
転んだのか膝が擦りむけ血が滲んでいた。
「大丈夫です……か? って!」
差し出そうとしていたハンカチがひらりと地面に落ちる。
「ふっフローラ! ど、どうしてここに!?」
鮮やかな新緑のような翡翠の瞳は涙に濡れ、蜂蜜色のさらさらとした滑らかなロングヘアは絡まりボサボサ。えぐえぐと嗚咽を堪えながら泣いているのはイザベルの顔見知りで。名を呼ぶと泣き声が大きくなり、抱きついてきた。
「ベ、ベルうう」
ぎゅうぎゅう抱きつかれて離せそうにない。仕方が無いのでそのまま抱きしめる。
「ベル、この人と知り合いなの?」
「うんよく知ってるわ」
捕らえた悪党を自警団に引き渡し終えたユリウスが声をかける。
イザベルの胸に顔を押し付けて未だ泣いている彼女とは定期的に会う仲だ。だからこそ、何故ここにフローラがいるのか訳が分からなかった。
とんとん背中を一定の感覚で叩いてあやしつつ、疑問をぶつけてみる。
「フローラ、貴女神殿から出られないんじゃなかったかしら」
ようやく顔を上げたフローラの顔を予備で持っていた二枚目のハンカチで拭く。
「普通ならそうなんだけど……明日、孤児院の子の誕生日なの。院長さまが特別な日くらい美味しいものを食べたいだろうって」
その一言でイザベルは察した。大きなため息を吐く。
「だとしてもよ。貴女は聖女候補なのだからお供も付けずに街を歩くのはいけないわ」
イザベルはフローラの手首にうっすらある三日月形のアザを見遣る。これは聖女になる資格を持つ者──つまり、聖女候補の人間が生まれつき持つものだった。
へストリアの聖女は血族関係なく三日月形のアザを持つ者の中から選ばれる。なのでアザ持ちはいかような理由があっても強制的に親から取り上げられ、保護の名目で神殿が養育するのだ。
それだけ聞くと無理やり取り上げる神殿は残酷で、批判が殺到しそうであるが、生活費の援助、望むなら半年に一度の対面が許可されており、その日暮らしの農夫らは口減らしのために喜んで赤子を神殿に預けてしまうのだとか。
しかも一番反対しそうな貴族家にはアザ持ちが現れないという都合の良い具合なので今のところ大きな問題にはなっていなかった。
そうして聖女候補が集められる訳だが、世代交代の際、聖女として選ばれた者は瞳の色が菫色に変化するらしい。選ばれなかった聖女候補もポイッと捨てられるのではなくて神殿で働くことも、奨励金をもらって親元に帰ることも、なんなら街で生活することもできる。
(フローラはどうなるのかしら)
今代の聖女は白髪の混じる年齢だ。世代交代は近々行われるだろう。
聖女になるのは名誉であるが、一生神殿での生活を余儀なくされる。許可なく敷地外に出ることはおろか、限られたひと握りの人としか話せない。
生まれた時から死ぬまで囚われるのは窮屈だ。イザベルだったら逃げ出したくなる。
「伴がいないのは……あー、その、ね? 買いに行くことになったのはいいものの、みんな忙しそうだったからわたしがこっそりお使いを────あああっ! け、ケーキ」
悲鳴をあげたフローラはケーキに手を伸ばして掬った。土とホコリにまみれたそれは原型を留めていない。
「どうしよう」
止まった涙がまたフローラの瞳から溢れ始める。
「新しいのをもう一個買うのは?」
「むりなの。そのお店人気らしくてわたしのが最後の一個だったの。他のお店で買おうにも、いつの間にかお金の入った袋が消えてるし」
フローラが指した箱を拾った。表に書かれていた店舗名は先程訪れたお店で。
(…………仕方ないわね)
悩んだのはほんの一時だった。帰って食べるのを楽しみにしていたけれど、誕生日にケーキがない方が大問題だろう。
「私が買ったケーキをあげるわ」
イザベルはバスケットの中からケーキの入った箱を取り出し、フローラに押し付けた。




