60 恋人達の決戦②
「次、クトゥグァ! 右ストレートッ!!」
『おおよおっ!!』
次から次へと押し寄せて来る、赤い肌をしたオーガのような火の精霊達。その最後の一体を威勢よく殴り飛ばしたクトゥグァは、気持ち良さそうに額の汗をぬぐった。
『いやー! 戦った、戦った! 久しぶりにいい運動になったぜ!』
例え彼等が上級の精霊達でも、クトゥグァは世界で最強の部類に入る火の高位精霊だ。その気になれば威圧するだけで下がらせることも出来た。それを、わざわざ殴る蹴るの肉弾戦に持ち込んだのは、久しぶりに大暴れするのが楽しかったからに他ならない。
戦うクトゥグァのセコンドについてーーもとい、指示を出していたディアナは、窓の外をのぞいて、ほっと息をついた。
「お疲れ様! 火の精霊達は、もう来ないみたいね。これで少しは火の魔力を抑えられたのかな?」
『おう。ただ、ここの奴等を減らしたからじゃなく、大元でなんかあったみたいだな。火の魔力が弱まる代わりに、水の魔力がずいぶんと強まってる。まさかとは思うが、クトゥルフの奴が何かやったのか……?』
ディアナとクトゥグァが顔を見合わせた時、それまで後援に徹していたソレイユ達があっと声を上げた。
「ディアナ、クトゥグァ! アステルが……!」
うぅん、と呻く声とともに、床の上に寝かされていたアステルの瞼がゆっくりと開いた。汗も引き、赤く火照っていた肌の色も、普段通りに戻っている。アステルは黒い瞳を彷徨わせた後、ソレイユと視線を合わせた。
「ソレイユ……皆さんも、どうして、ここに……?」
「クトゥグァから、貴女が危ないと知らせを受けて駆けつけたのよ。こんなところで一人で倒れて、一体何があったの?」
「一人で……? ……そうだ、私、どこでもいいから逃げてしまいたくて、きっと、知らないうちに〝月の扉〟に来てしまったんです……」
言いながら、アステルは身を起こす。その途端、黒い瞳の面から、ポロポロと涙が零れ落ちた。
「あ……」
「アステル……! ねぇ、本当に何があったの? また、誰かに魔術で酷いことをされたんじゃ……!」
「ソレイユ、待って。目が覚めたばかりで、彼女も混乱してるんだ。ーーアステル、何があったのか、もし、話して楽になるようなら聞かせてくれ。困っているのなら、僕等が力になる」
穏やかな口調で、ロベルトはアステルにハンカチを手渡した。アステルはそれを受け取り、頬を濡らした涙をぬぐった後、ぽつりと話し出した。
「……先ほど、ヴィルヘルム様にお聞きしたんです。レアンドロス殿下は、私の祖父を死に追いやった張本人なのだと」
「えっ!?」
「彼が賛成派を率いて魔工技術申請制度を成立させたのは、祖父の研究チームに配属されていた魔工技士達と共謀し、発明品の利権を奪うためだったのだそうです。ヴィルヘルム様がレアンドロス殿下に対して敵意を抱いておられたのは、何も知らない私が殿下に惹かれていくことが、許せなかったから……」
「まさか!? そんなこと、ヴィルヘルム王太子が言った出まかせでしょう?」
「ーー残念ながら、そうではないかもしれませんわね」
「レジーナ! 貴女まで何を言うの!?」
パチン、と広げた絹の扇子で、レジーナは口元を隠したままヒラヒラとそれを仰ぐ。
いいから話を聞け、という仕草に、ソレイユは喉から出かかった剣幕をぐっと飲み込んだ。
「前に、レアンドロス皇太子とヴィルヘルム王太子の不仲について話したことがありましたわね。あの後、詳細が気になって、お父様にお伺いしたのですわ。ーー五年前、魔工技術申請制度の成立の際、賛成派と反対派の激しい対立が起きた。その際、賛成派の魔工技士達による良からぬ企てがあったのですわ。ヴィルヘルム王太子は、ベルクシュタイン博士と鉱石系素材を通じて親交の深かった御方。そのため、ベルクシュタイン家の没落の元凶となったレアンドロス皇太子を恨んでいる……というのが、父の見立てですわね」
「レジーナ。君は、それを知った上で、今まで恋だなんだと騒いでいたのか……?」
「あら、ロベルト。障害の多い恋ほど、女性は燃えるものでしてよ?」
悪怯れず眼を細めるレジーナに、ロベルトは絶句する。真っ赤になったソレイユが怒鳴りつける前に、ふらりとアステルが立ち上がった。
「……いいんです。私、殿下はどうして落ちぶれた家の出の私に、あんなにも親切に接して下さるのか、ずっと不思議だったんです。前に尋ねた時、殿下は贖罪なのだと言っておられました。……馬鹿ですね。殿下が何かを抱えておられることには気がついていたのに、気づかないふりをしていました。知ってしまったら、もう……殿下のお傍には、いられなくなるような気がしていたから。ーー今まで、たくさん迷惑をかけてしまって、ごめんなさい。私、この学院祭が終わったら、グランマーレ帝國に帰国します」
「アステル、待って……!」
アステルは制止を振り切り、〝月の扉〟から飛び出そうとした。けれど、その時、アステルの腕を掴み、引き止めた者がいた。
「ちょーーーーっと待って下さい!!」
「ーーっ、あ、貴女は……!?」
振り向いたアステルは、その顔をまともに見て眼を見開いた。
「ま、まままさか、〝精霊王の寵妃〟ディアナ様っ!? どど、どうしてこのような所に……!?」
「ソレイユ達に貴女の話を聞いて、一緒に来たの!! ーーって、そんなことはどうでもいいわ。アステルさん、物事は見る人によって見える真実が異なるのよ! だからまだ、諦めちゃ駄目! 逃げるのは、レアンドロス皇太子の口から、自分が納得する答えを聞き出してからにしなさい!! でないと、絶対に後悔するわ! だって、私とお父様がそうだったもの!!」
「は、は、はい……っ!!」
ディアナの言葉と、その澄んだ紫水晶の瞳の力強さに、アステルは出て行こうとしたことも忘れて立ち惚けた。先程までの陰鬱な空気が嘘のようだ。クスクスと、背後でソレイユ達が笑う。
「本当ね……! ディアナが言うと、ものすごく説得力があるわ」
「全くですわ。ーーアステル、わたくしがお父様に聞いた話は、賛成派による企てがあったという事実のみですわよ。他のことは推測に過ぎませんわ」
「ソレイユ、レジーナ……私、私は……」
震える右手を、アステルは強く握りしめた。
嬉しかった。
たった一人で母国を離れ、この国に留学して、辛いことが何度もあった。その度に願った。挫けそうな心を支えてくれる者が傍にいてくれたら。
もし、そんな友人がいてくれたら、きっと、何があっても諦めずに頑張ることが出来るのに、と。
だから、今はーー
「……私、殿下に会いに行きます! 会って、今度こそ、彼自身の言葉で本当のことが知りたい……!!」
ーー熱い。
右手に刻まれた火の精霊の祝福印が、いつかと同じように熱を帯びて広がっていく。唐草のような印は、いつしかアステルの腕全体を覆い尽くし、眩い光を放ち始めた。
炎のように閃きながら、金色に、銀色に、ひとときもとどまらずに姿を変える光。その光に身体全体を包まれても、アステルの心に不思議と恐れはなく、アステルはただ、レアンドロスの元に行くことだけを望んでいた。
「アステル!?」
次の瞬間、その場にいた者は皆、目を疑った。
ーー光が閃光となって弾けるとともに、アステルの姿が消えたのだ。
それも、転移の魔術を使った痕跡すらない。
あり得ない、とソレイユが呟いた。
「な、何が起こったの……!? クトゥグァ、今のは貴方の力なの?」
『いいや……今のは、アステル自身の力だ。どうりで火の精霊獣の俺と相性がいいと思ったぜ! あんな魔力を使いこなせる人間がいたとはな……!! おい、姫さん! 俺達も行くぞ!』
「えっ!? ち、ちょっと待って、クトゥグァ! 私達にも分かるように説明してってばーーっ!!」
ディアナの叫びも虚しく、クトゥグァは来た時と同じように、転移の魔法でアステルを追った。
彼女の魔力の行先は、精霊杯が行われている場所、野外演習場だ。
 




