48 陛下とデートと学院祭③
時は巻き戻ること少し前。
皇宮から溜塗の四頭馬車に乗り、リンドヴルム魔術学院に向かう最中、ディアナはずっと頬を膨らませて、そっぽを向いていた。
窓からのぞく陽は高い。学院祭はとっくに始まっている。本当ならば今頃、ディートリウスとともに学院街を散策したり、ルシウスが開いたというティーハウスを訪れて、美味しいスィーツをお腹いっぱい満喫出来ていたというのに。
誰かが寝坊をしたせいで、スケジュールの余裕が一切なくなってしまった。そのため、現地に着いたらすぐに精霊杯の観覧をしなくてはいけなくなってしまったのだ。そうなれば、終わるまでは動けない。
ーー精霊杯。
魔術師が最も懇意にしている、絆の深い精霊を呼び出して、ともに戦う召喚術戦。
幼い頃、学院祭で行われていたそれを、ソレイユ、ロベルトと三人で、父達に内緒で観に行ったことがある。
魔術師と精霊が互いに互いの力を補い合い、息をぴったりと合わせて戦い合う様は、激しい戦いの最中だというのに、まるでワルツを踊っているかのように、とても美しく感じたのを覚えている。
それが、一番の特等席で観覧出来るのだ。楽しみには違いないのだが、でも、やっぱり。
……陛下とデートがしたかった。
「はぁ……」
『……』
あからさまなため息をついてみても、対面に腰掛けたディートリウスは、瞼を深く伏せたまま何も言わない。少しは反省しているのだろうか、とディアナはそっぽを向いたまま、視線だけ動かして様子を探ってみる。
ーーいや、ただ二度寝しているだけかもしれない。
そう思った瞬間、また怒りがこみ上げてきた。
「……陛下は、私とデートしたくなかったんですか?」
ポツリ、と呟いた言葉に、ディートリウスは瞼を上げ、深い宵闇色の瞳の中にディアナを映した。
ふ、と、溜めていた想いを吐き出すかのように、ゆるく息を吐く。
『そんなことはない。私とて、今日のことを楽しみにしていた』
「楽しみにしていたなら、もっと浮かれているはずです。私に嘘はつかないで下さい!」
強引に連れ出したことは分かっている。けれど、行くと約束した以上は、ちゃんとそれを果たして欲しい。変な期待だけ持たせて、結局うやむやにするくらいなら、初めからはっきりと断ってくれれば良かったのだ。
「……馬鹿みたいじゃないですか。私一人で期待して。辛い思い出があることはお伺いしましたけど、それでも行ってくれるって仰って下さったこと……すごく嬉しかったんですよ? でも、初めからその気がなかったのなら、嘘なんかつかずに、ちゃんと断って頂ければよかったんです。そうしたら、私だってこんな我儘言わなかったのにーー」
『ディアナ』
ディートリウスの白い掌が、膝の上で固く握りしめていたディアナの手に触れ、優しく包み込んだ。少し体温の低い彼の手は、ひやりとして、そして、わずかに震えていた。
「陛下……?」
『ーーすまない。まだ、少し怖いのだ。だが、行きたいという気持ちは本当だ。ディアナと一緒なら、乗り越えられると思っている』
「……あ」
時々、魔帝と恐れられる厳格なディートリウスが、ただの子供のように甘えてくる時がある。
それは決まって夜のことで、そういう時は、闇の精霊達の気配を察し、彼が恐怖を感じているのだということを、一緒に閨に入るようになってからディアナは知った。すがりつくように伸ばされる手は、いつもは大きいと感じるのに酷く弱々しくて、抱える不安を伝えるように、震えているのだ。
今も同じなのだと、ようやく気がついた。
「も、申し訳ございません……っ! 私、自分のことばかり考えていました……っ! ああもう、そんなに怖いならちゃんと言って下さい! ただでさえ、仮面のせいで表情が隠れて分かりづらいんですから!」
馬車の揺れにも構わずに席を立ち、ディアナはディートリウスの傍らに腰掛ける。広々とした大きな馬車だ。それくらいの余裕は充分にあり、いつもはこうして隣合って座っている。今日は怒っていたから、わざと対面を選んでいた。
今度はディアナが腕を伸ばして、黒衣に包まれたその身を抱きしめる。
『ディアナ……?』
「着くまでこうしていますよ。少しは落ち着きますか?」
『……ああ。とても暖かくて心地良い……ありがとう、私の寵妃』
幸せそうに微笑んで、重ねられる唇を受け入れながら、我ながら甘いなあと笑ってしまう。でも、ディアナは知っている。誰かに抱きしめて欲しくて、すがりつきたくて伸ばした手を、ふりほどかれる辛さを誰よりも知っているから。
ディートリウスには、そんな思いをさせたくはないと思うのだ。
黒衣越しに触れる身体の怖張りが解けていく頃には、ディアナの胸の中にあった刺々した気持ちも、すっかり消えていた。ディートリウスの両腕が、ディアナの身体を優しく抱いた時。
ーーこの場にいないはずの者の笑い声が、ふいに響いた。
『相変わらず、君達は仲が良いね』
「ーーっ!? ルシウス!!」
いつからそこにいたのか、先ほどまでディアナが座っていた対面の座席に、白い従者服に身を包んだ、真珠色の髪の青年の姿があった。
途端、抱きしめ合っていたことが急に恥ずかしくなり、ディアナはパッと身を離す。『……精霊王よ』と、ディートリウスの仮面の下から、不機嫌極まりない声が漏れ出した。
『礼儀を欠いた現れ方はしないように言っておいたはずだが』
『ごめんね。急用なんだ。これでも待った方なんだけど、君等がいつまで経っても離れようとしないからーー』
「言わないでーーっ! 急用って、学院祭で何かあったの? ルシウス」
『うん。もうすぐ、この馬車は学院の門を潜る。そうしたら、君達にも分かるはずだよ』
彼の言葉が終わらないうちに、馬車の窓から差していた日差しが陰った。学院の正門を潜ったのだ、とディアナが外をのぞいた途端、真紅の羽根を持つ獣の姿をした精霊達が、群れをなして横切っていった。同時に、熱波のような空気が馬車の中に流れ込んでくる。
「暑っ!? な、なんなのこの熱気は……!?」
『火の魔力の高まりを感じる。ずいぶんと均衡が乱れているようだな。そなたがいながら、どうしてこのような事態に陥ったのだ』
宵闇色の双眸が咎めるようにルシウスを射抜く。ルシウスは悪怯れる様子もなく肩をすくめた。
『色々あってね。どうも、火と水の精霊達が加護を与えている者同士が、諍いを起こしているのが原因のようなんだ。精霊同士ならともかく、人間同士のことには介入出来なくてね。僕の力ではどうしようもない。だから、〝精霊王の寵妃〟の力を借りたいと思ってね』
「私の力を? それは、寵妃選考の時のように、力の歪みを抱えた相手と戦えばいいということ?」
『いいや。都合の良いことに、今日は〝精霊杯〟という祭儀がある。僕は今回初めて知ったんだけど、この祭儀には人間と精霊との絆を示し、魔力の均衡を整える効果がある。君はその場にいて、力の調和を望んでくれるだけでいい。それだけで、澱んだ力は流れるべき方向を見出すだろう』
「試合を観ながら、力の調和を望むだけでいいのね。分かったわ、やってみる!」
『加護を受けた者同士の対立か……厄介だな。この学院に通う者は皆、高位の身分を持つ者ばかりだ。争いの火種が広がらなければよいが』
『そこは、深淵の魔帝の出番だよ。不埒者達が余計な事を考える余裕がなくなるくらいに、存分に萎縮させてくれ』
『善処しよう。ーーそうだ。代価を求めるつもりはないのだが、聞いて欲しい頼み事がある』
『おや、珍しいね。言ってごらん、僕の寵児』
『私が学院に来ることを躊躇っていたせいで、来訪が遅れてしまった。ディアナはそなたの作る菓子を楽しみにしていたのだが、店を訪れる時間が取れなくなってしまったのだ。観覧の際に食せるよう、手元に運んでやってはくれまいか』
『なんだ、そんなことならお安い御用だよ! たくさん用意してあげるから、二人で楽しむといい』
ルシウスはにっこりと笑って、姿を消した。
瞬間、ディアナは喜びのあまり、ディートリウスに飛びついた。
「陛下ああーーっ!! ありがとうございますっっ!!」
『恥ずかしがり屋のそなたから、このように熱い抱擁を受けようとは。ルシウスの菓子に嫉妬してしまいそうだ』
「違いますよ! 陛下のお心遣いが嬉しかっただけで、スィーツが食べられることに喜んだわけではーー」
ググウ、と鳴り響いたディアナのお腹の音が、言葉の全てを否定した。
『ーーっ、ははは……っ!』
「わ、笑わないで下さい……っ! これは違います! ドレスを着たらコルセットが苦しくて朝ごはんが入らなくてーーって、聞いてますか、陛下ってば!」
賑やかな二人を乗せたまま、溜塗の四頭馬車は魔術学院のキャンパスを横切って、学院街へと入っていく。懐かしさを感じる街並みは、次月の季節花である蒼い紫陽花の花で、美しく飾りつけられていた。
やがて、目的地である野外演習場で馬車は止まり、御者をしていた精霊執事が扉を開いた。ディートリウスが先に降り、ディアナに向かって掌を差し伸べる。
その手を取り、地面に敷かれた純黒のカーペットの上に降り立ったディアナを出迎えたのは、魔術交響団による見事なファンファーレと、高らかに響く学院塔の鐘の音。
野外演習場を埋め尽くし、溢れるばかりに集まった人々の、割れるような拍手と歓声だった。




