46 陛下とデートと学院祭①
魔帝ディートリウスは朝に弱い。
しかし、それはけして寝坊癖があるからではない。闇の精霊の加護を受けて生まれた彼は、幼い頃より闇の眷族達と深く関わり合って生きてきた。夜魔精霊、夢魔精霊など、闇に棲まう精霊達は夜を好む。恐怖、悲しみ、怒り……人間の負の感情を求めるそれらはディートリウスの心を酷く乱し、彼の眠りを妨げるのだ。一晩中、魘されて、一睡も出来ないことも珍しくはない。
その事は、宮廷魔術師団、精霊騎士団等、高位官職の臣下達をはじめ、皇宮に従事する全ての者達が心得ている。
よって、やや遅い時間の起床であっても、誰一人として、君主の安らかな眠りを妨げることはしないのである。
ーーしかし。
ただ一人だけ、例外中の例外がいた。
「陛下っっ!! 起きてくださーーいっ!! もうっ! 今日は一緒に学院祭に行ってくれるって約束したじゃないですか!! いつまで寝ておられるんですか!? 遅刻しちゃいますよっ!!」
銀糸の髪を美しく結い上げ、式典用にあつらえた白銀のドレスを翻し、帝廟の重い扉をバーンッと開け放った〝精霊王の寵妃〟こと、ディアナ・リーリス・ゾディアークは、足音荒くディートリウスの寝室に突撃し、固く閉ざされたカーテンを全て開き、寝台を包むベルベットの天蓋を無慈悲に捲り上げた。
うう、と閨の主はシーツの海の底から低い唸り声を漏らすが、起き上がる気配はない。
ディアナはため息ひとつ、絹のシーツをかき分けて、ディートリウスの顔を覆う漆黒の龍の仮面に手を伸ばし、パッと奪い取った。
ハラリと額に落ちる黒曜石の黒髪。仮面の下から露わになるのは、見慣れたはずのディアナでさえも、一瞬、時が止まったかのように魅入ってしまう魔性の美貌だ。
まともに顔を照らした朝日が眩しかったのか、ディートリウスは綺麗な眉をひそめ、再びシーツの海にもそもそと潜ってしまう。ハッと我に返ったディアナは眉をつり上げた。
「起きて! 顔を洗って! 歯を磨いて着替えて下さい!! 出かける準備はとっくの昔に整っているんですから! 皆、陛下が起きるのを待ってるんですよ!?」
『……ディアナ。皆から聞いていないのか……私が朝に弱い理由を』
枕に顔を埋めたまま、低い声音で不機嫌そうに呟くディートリウスに対し、ディアナはふん、と憤慨気味に答える。
「存じていますよ。闇の精霊達に邪魔されて、眠れない時があるんですよね? でも、昨夜は違いますよね? 今日の予定があるから、もうこれ以上はやめて下さいって、私、何回もお願いしましたよね? 聞く耳を持って下さらなかったのは、どこの誰ですか??」
『……』
「自業自得です。さっさと起きて下さい」
『……怒っているのか?』
ふわり、とシーツが大きく波打つとともに、ディートリウスの白い腕がディアナに向かって伸びてきた。きゃっと悲鳴を上げる間もなく、ディアナの身体はシーツの海に引きずり込まれてしまう。
仰向けに押し倒され、見上げた先には仮面を被っていないディートリウスの顔があった。二人ともシーツの中にいるものの、薄い絹地を透かして差し込む朝日が、意地悪そうに微笑む彼の顔を照らし出している。
ディアナ、と低い声音が囁いた。
『昨夜はあれほど求め合ったというのに、自業自得だとは冷たいことだ。ーーそれに、最後に強請ったのは、そなただぞ』
「ーーっ! そっ、そそそれは、陛下が無理矢理、言わせたからじゃないですかっ!!」
『ほう? 覚えていないな。私がそなたに何をどう言わせたのか、教えてもらおうか……?』
スッと、唇を寄せられそうになり、ディアナは大慌てでディートリウスの身体を押し退けた。
「駄目ですっ!! この髪も、ドレスも、お化粧だって、支度をするのに何時間かかったと思ってるんですか! 女官さん達が頑張ってくれたんですから、乱すことは許しません! はい! もう、お戯れはやめて起きて下さい。これ以上は本当に遅刻します!」
『そのように特別美しく装ったそなたを前にして、手を出すなとは、酷なことを言う』
ふう、と整った唇の間から深いため息を吐き出し、ディートリウスは宵闇色の双眸を張り詰めて、じっとディアナを見つめた。
『ディアナ』
「な、なんですか……?」
『ちゃんと起きるから、キスをしてくれ』
「……っ!」
直視すれば目眩を覚えそうなほどの美貌に、やや上目遣い気味にキスをしてくれとお願いされて、断る方法があるなら教えて欲しい。
ディートリウスがディアナに対して心底甘いように、ディアナもまた、彼に対しては甘々に甘いのだった。
顔を真っ赤に、ため息をつき、観念したように唇を近づける。
「……い、一回だけですよ?」
『ああ。ーー愛している、私の寵妃……』
今、それを言うのはずるい、と思う。重ねた唇がたちまち深く繋がっていくのを止められず、繰り返される口づけの波を、いつしか心地良いと感じてしまっていた。
ーー結局、ディアナが支度を終えたディートリウスを寝室から連れ出す頃には、昼近い時間になっていた。




