二 付喪神の主
「そう。僕の主はあの頃まだ小さな女の子だった。十歳ぐらいのね。僕がこの姿になったのもそれが理由」
十歳を少し過ぎた人間の少年ほどの姿をした青戸は語り始める。氷雨は冷たいざるうどんをすすりつつ、耳を傾ける。
「僕が作られたのは昭和の初めだった。最初は意志なんてなかったけれど、その僕を買ってくれた人がいた。それが、僕の主人の父親だった」
青戸は思い出に浸るように目を瞑っている。氷雨はうどんを咀嚼しながら話の続きを待つ。
「僕はある大きな洋館に運ばれて、その中の広いひとつの部屋の窓際に置かれた。そして僕を買ってくれた男の人は、ある小さな女の子を連れてきて、贈り物だよと言っていた。それが、僕と光永奈緒の出会いだった」
氷雨は氷の入った水でうどんを流し込むと、口を開く。
「話長いけど、簡単な話その奈緒って子に会いたいんでしょ?」
いきなり結論を告げられ、一瞬青戸は怯んだが、頭を掻きながら反論する。
「氷雨さん、情緒ないね」
「結論先に行った方が分かり易くていいじゃないの」
「とにかく、僕の主人はそれからずっと僕を大事にしてくれた。元々音楽の才能があったみたいで、ただの楽器だった僕でもはっきりと分かるほど日々上達して行った。それを見るのが僕はとても楽しかった」
青戸は相変わらずの調子で続ける。
「そうやって年月が過ぎるうちに、ずっと奈緒の宝物として扱われていた僕には、いつしか心が宿っていた。妖怪化だよ。僕の方から彼女に話しかけることはしなかったけど、僕は彼女の言葉を理解することはできた。そのうちに、奈緒の元にはいろんな音楽の専門家たちがやってくるようになったんだ。是非うちの弟子にさせてくれだったり、うちの学校に来てくれだったり。奈緒の才能は本物だった」
氷雨は適当に相槌を打つ。青戸の気持ちが分からない訳でもないが、正直に言えば顔も知らない人間のことを話されてもどう感想を言えば良いのか分からない。
「そして、奈緒はアメリカに渡ることが決まった。彼女の家族とともにね。その引っ越しの時、僕はその洋館に残されることが決まった。それが僕と奈緒の別れだった」
青戸は涙ぐむような声を出すが、氷雨は特に何も反応しない。
「僕はひとり、その洋館に残った。奈緒は僕と別れる前、再会を誓ってくれたから、器物である僕は何年でも待つつもりだった。その場所で、ずっと。だけど彼女は中々帰ってこなかった。そのうちにあの洋館の取り壊しが決まった。僕はそのまま壊される訳にはいかなかった。だから、こうして人の形となって館から逃げ出した。その時に助けてくれたのが氷雨さんだったんだ」
氷雨は水の中にあった氷を噛み砕いてから、青戸に言う。
「まどろっこしいわね、あんたがその奈緒って子と色々あったのは分かったわ。あたしが聞きたいのは、なんで急にその奈緒って子のことで悩み始めたかってことよ」
氷雨にそう指摘され、青戸は小さく溜息をつく。
「氷柱女だけに体も心も冷たいよね氷雨さん」
「本当に冷たかったらあんた拾って来ないし相談にも乗ってないわよ」
氷雨は近くの店員に水を注文してから青戸に言った。
「分かったよ。その奈緒が、今度日本に帰って来るんだ。ピアニストとなって。テレビで見たんだよ」
「それで、また会いたいってことね」
氷雨は氷多めで頼んだ水を一気に飲み干す。
「分かったわ。ならお姉さんが一役買ってあげる。一人で人間界は危ないからね」
「ほんとだ、冷たくない」
青戸の言葉を無視して氷雨は氷をがりがりと噛み砕く。冷たいものは体に良い。
「それで、その光永奈緒が来るのはいつなの?」
「確か、明日には日本に到着するって言ってた」
「なら、明日行くわよ。早い方がいいでしょ?」
氷雨の言葉に青戸は心なしか嬉しそうに頷いた。何だかんだと言って長年面倒を見てきているからか、こう言う顔が見られるのには悪い気はしない。
黄泉国で暮らしている妖怪たちは、人間界に限らず外の世界を恐れているものが多い。それはかつて人に迫害された妖たちの歴史や、妖同士で争っていた歴史があるから仕方がないのかもしれない。実際、この国は美琴の庇護下にあるが、その領地を出ればそれはなくなる。少なくなったとはいえ、人間界にも異界にも妖を狙うものは多いのだ。
氷雨はかつて美琴の元で戦っていた経験のある妖怪でもあるため、戦闘にはそれなりの自信があった。美琴やその側近二人には敵わないかもしれないが、この子を守るぐらいのことはできる。
そんな滅多なことは起きないと思うけど、とそうは考えるが、何度も妖怪や人間が他者の手で傷付けられ、殺された光景を見ている。青戸がそうなるのは見たくない。
口には出さないが、何だかんだと言っても彼が心配なのだ。
「じゃあ、準備しときなさいよ。特に心の方のね。何十年か振りの再会なんだから」
氷雨はそう言って微笑んだ。
黒く輝く、新しいピアノを前にして喜ぶ少女の姿。父と母はその様子を見て温かに微笑んでいる。自分の背よりも高いそれに少女はすぐに魅せられた。
七つの誕生日に買ってもらった、とても大きな友達。少女は長い長い時間を彼と一緒に過ごした。音楽を奏でるという行為を通して、少女は友人と会話した。彼女が鍵盤を押すと、彼は様々な音を出して答えてくれた。そうやって二人で過ごしながら、窓の外の空を見上げるのが少女は好きだった。
「お婆様、起きてください」
孫の声が懐かしい夢から光永を引き戻した。名残惜しさを感じながら、光永はゆっくりと瞼を持ち上げる。
窓の向こうはまだ少し暗い。ただ微かな青さを感じるのは、夜明けが近いからなのだろう。
「どうやら予定より少し早く日本に着きそうなんです。お婆様のことだから、すぐにでも日本が見たいかと思って」
「そうかい。ありがとうね、リサ」
光永は柔らかく微笑み、ベッドから立ち上がる。まだ体と頭は睡眠を欲しているが、心は故郷を待ち侘びていた。懐かしい夢を見たせいもあるだろう。
ずっと昔、住んでいた場所で別れるしかなかった大好きな親友。きっとこの世からはもう消えてしまったのだろうけれど、できるのならもう一度会ってお礼と謝罪をしたかった。
彼がいなければ、自分はこうしてピアニストとなることもなかっただろう。日本を離れたことも、アメリカに行ったことも後悔はしていない。だけれど、人生を変えてくれた、たったひとつのピアノなのに、彼を見捨てて行くことしかできず、救うことはできなかった。それがこの人生の中でのたったひとつの後悔だ。光永はひとり、目を閉じて頷いた。
「じゃあ、甲板に行こうか。あそこからならきっと、この船のどこよりも早く日本が見えるはずだから」
光永はリサの手を握り、歩き出す。波は穏やかなようで船内に揺れはない。
夜明けを待つ空の下には、二人の他にも幾人かの人々がいた。光永と同じ日本人もいれば、白人も黒人もいる。だけど皆ここにいるということは気持ちは同じなのだろう。
この旅の目的である、日本が見たい。リサに体を支えられながら、光永は甲板に立つ。
薄らとした夜明けの光を背にして、黒く広い海の向こうにやがて大地が見えて来る。かつてその国を離れた時に見た光景が今度は近付いて来る。
光永は懐かしさで胸が詰まるのを感じながらその島国を眺めている。
一日が経った。夜が再びやって来た時、氷雨と青戸とは黄泉国の東端にある門の前に立っていた。ここは人間界に繋がる境界のひとつだ。本来ならば志阿町からは南端の境界が最も近いのだが、あの境界は人間界ではなく境界そのものに繋がっているため、人の世界に出るには北、東、西のどれかを使う必要がある。
「まあ、今日外に出ても会えるとは限らないわよ?ピアニストとして日本に来たんだから、忙しいんだろうしさ」
「分かってるよ。でも、会えないとも限らない」
氷雨の言葉に青戸が答える。氷雨は頷き、境界の門を開く。
普段人間界に出ない妖が人間界の昼間を歩くのはあまり推奨できることではない。そもそも妖は昼間行動することに慣れていないし、人が多いとそれだけ危険に晒される可能性も高くなる。また、妖がその意志に反して人間に危害を加えてしまうことも考えられる。
氷雨が境界の外に足を踏み出すと、少し躊躇してから青戸もそれに続いた。雪に覆われた黄泉国とは違い、東京の景色は他の季節と変わらない。
「明るいね」
青戸の感想に氷雨も同意する。彼女も人間界に出るのは久し振りだった。街全体に明りが灯り、夜の星はそれに掻き消されている。
「行くわよ。あんたその光永って人の場所分かってんでしょうね?」
「今は渋谷という場所でピアノを弾いているはずだよ。霊気は覚えているから大丈夫、近くに行けば分かるさ」
青戸は自身を持ってそう答えた。氷雨はそれ以上尋ねることはせず、一言「暑い」と文句を言った。
「ほんと、東京と黄泉国じゃなんでこんなに気温違うのかしらね~。ヒートアイランドってやつ?それとも地球温暖化?」
「冷気でも張ってればいいじゃないか」
「あれも結構妖力使うのよ。疲れるのいやだわ」
言いながらも、背に腹は代えられず氷雨は体の回りを氷の妖気で包む。それで大分楽になった。
「ほれ行くわよ。ここからなら電車で行く必要があるわね。乗り物なんて久し振りだわ。便利だけど、あんまり頻繁に使いたいものではないわね~、人多いし」
氷雨はぶつぶつと文句を言いつつも先導して歩いて行く。青戸はその横に並んで付いていくだけだ。
「僕が知っている頃の人間界とは、やっぱり違うね」
数十年前の景色と今の景色を重ねているのか、青戸はそうしみじみとした調子で口にした。
「そりゃそうでしょ。テレビとかで見てるじゃない」
「画面に映ったものを見るのと直接この目で見るものは違うよ」
青戸が息を吐くとそれは白く色を付け、夜の中に散った。この気温でも彼にとっては寒いのかと、氷雨は当たり前のことを思う。
人の世界は変わった。それは確かなのだろう。それでもこの子は変わらない人の想いを信じてかつての主人に会おうとしている。その純粋な気持ちは少しだけ羨ましい。
「あ、駅。ここはあんまし変わってないわね」
氷雨は青戸の手を引き、駅の方に駆けて行く。自分の中に湧き出てきたかつての記憶を振り払うようにして。
カリスは船を降りた後、東京という町を一人徘徊していた。幾つもの国を訪れた彼だが、この日本という国は初めてだった。
この東京には黄泉国という大きな異界へと繋がる境界があると聞く。異界への入り方はどの地域を見ても外的の侵入を防ぐため、守られていることの方が多い。
だが、別に自分で異界に向かう必要はない。人間界にいる異形を襲っていれば、そのうちに様々な異形があちらからやって来る。
カリスは黄色く濁る鋭い目で夜の町を見つめている。彼は深い緑色をした、拳程の大きさの宝石を取り出すと、それを掌に置き、意識を集中させる。この宝石は広範囲に漂う妖気に反応し、その主を突き止めてくれる。
「ほう、今回は幸運だな」
日本においては人間界に現れる異形は少なくなっていたと聞いていたが、カリスの求めるものはすぐに見つかった。日本の異形は妖怪と呼ばれるようだが、その妖怪が二体、この付近を歩いている。まだ彼らが目的の異界からやって来た妖怪かどうかは分からないが、それならば直接尋ねてみるとしよう。
カリスはビルの上から真下へと飛び降りる。数十メートルの高さも彼の障害とはならず、夜風を切り裂きアスファルトの上へと着地する。
「さて、仕事の時間だ」
深くかぶった帽子の下でそう小さく笑みを作り、異形の殺し屋は歩き始める。
「ん?ちょっと待って」
氷雨は立ち止り、そう言った。氷雨と青戸は現在、渋谷駅を降りてしばらく歩いた場所にいた。夜にも関わらず人間と光に溢れていた駅前とは違い、この辺りは人の姿も少なくはなっているが、それでもこの時間にはそぐわない賑やかさだ。
「どうしたの氷雨さん?」
「なんか変な妖気が……」
氷雨はその妖気の方向を睨む。こんな人だらけの場所に自分たち以外の異形がいるとは予想していなかった。何か悪い予感がする。
「あたしの側を離れないのよ」
氷雨は言って、近付いて来る妖気に注意を向ける。人間界に同じ妖がいて、ただ興味を持って近付いて来るのか、それとも別の理由か。
冬の東京の夜の下に、焦げ茶のコートを羽織り、目深に茶色の帽子をかぶった男が現れる。敵意とも興味とも取れない霊気を纏ったその男は、黄色に濁った眼で氷雨の姿を捉える。
「妖怪だな」
淡々と発せられる異国の言葉を、氷雨は霊術によって日本語に変換する。自分の後ろに青戸が隠れるように移動し、体に纏う妖気を厚くする。
「だったら何?」
「妖怪を見るのは初めてだ」
氷雨の目には、その奇妙な風体をした男が小さく笑ったように見えた。男の右手が動くと同時に氷雨も妖力を開放し、半袖の洋服という季節にそぐわない恰好から白の着物に姿が変わる。
「なら、伊耶那美のことは知っているな」
「知らないわ」
氷雨は険しい表情のままそう言った。相手の男は辛うじて露出しているはずの肌には包帯を巻いており、見えているのは口元と黄色く濁った瞳だけ。不気味な異国の異形だ。どんな能力があるのか分かったものではない。
「思い出させてやろう」
コートから引き抜いた男の手には大型の拳銃が握られていた。氷雨は咄嗟に左手で青戸は自分の真後ろに回らせ、右手で妖力を放出した。
銃口が轟音と閃光を放ち、妖力を纏った弾丸が発射される。しかし、それより一瞬早く氷雨の妖力が発動した。
弾丸は突如として現れた透明な壁にぶつかって減り込み、そしてその直進を止めた。
「氷の壁か。試したつもりだったが、中々」
二発目の弾丸が氷壁にぶつかり、それを粉々に砕く。氷雨は舌打ちすると右手を男に向かって振った。
「どこの誰かは知らないけれど……」
男の足元に氷塊が出現し、氷柱のように先端を尖らせて男に向かって伸びる。だが男は後ろに退いてそれを避けた。
「あんたみたいなミイラ男に襲われる謂われはないわよ!」
今度はミイラと呼ばれた男の頭上に巨大な氷塊が出現する。しかしミイラは自身を押し潰そうとするそれにひとつも怯まず、妖力を纏わせた弾丸を一発放って氷塊を砕いた。
「お前に無くても俺にはある。だが、お前も力不足だ」
「何訳分からないこと言ってんのよ!」
氷雨は両手に小さな氷の玉を作り出すと、ミイラに向かって投げつけるが相手はいとも簡単にそれを空中で撃ち落としてしまう。
「たかが島国の異形が調子に乗るな」
あくまで淡々とした調子を崩さずにミイラは銃の引き金を引く。氷雨は黄土色の妖気を纏ったそれを、次々と氷壁を作って防いでいる。
青戸が後ろにいる限りは派手なことはやり難い。こちらが攻撃に集中した隙に青戸が狙われる可能性も考えられる。かつて美琴とともに戦っていた氷雨と違い、この青戸は誰かを傷付けたことさえない。




