一 ピアノの付喪神
ある一人の少女が、月明りの漏れる窓の側でピアノを弾いている。
その細い指が鍵盤を押す度に音が鳴り、少女はその高低と強弱、そして長短を組み合わせてひとつの旋律を紡ぎ上げる。
その音楽は、冬の冷たい空気を伝って、満月の咲く夜へと吸い込まれて行く。
第二五話「冬の夜空に月の光」
冬の黄泉国。薄く積もった白い雪の上を一人の女の妖怪が歩いている。円形の泉を中心としたその広場には他には妖の姿はない。緩く巻かれた髪を肩の下と胸の辺りまで伸ばし、青白いとも言える肌をしたその妖怪、氷雨は乾燥した空気を呑み、吐き出す。
夜だと言うのに妖たちの姿がないのは気温が低いからだろうか。今夜は今年の冬に入ってから一番寒い。だが、氷柱女という種族である氷雨にとってはその寒さが心地よかった。
今宵もそんな冷えた空気に惹かれて外に出てきただけであるため、特にこれと言った目的はない。少し散歩でもして、近くの食堂にでも行こうかと思いつつ、港町である志阿町の路地に積もった真新しい雪に足跡をつけて行く。
「あれ?」
氷雨は前方を見て首を傾げた。見覚えのある少年の姿をした妖が一人、思いつめた様子で歩いている。
「おおい、青戸!」
氷雨が小走りで駆けながらそう名前を呼ぶと、少年は顔を上げ、彼女の方に振り向いた。
「何やってんのこんなところで?」
「氷雨姉さん……」
青戸は氷雨を見上げ、そう静かな声で言った。普段からそこまで明るい雰囲気の少年でもないが、こんなに暗くもなかったと氷雨は感想を抱く。
「どしたの?なんか悩みでもあんの?」
氷雨はぽんと成季の頭に手を置き、尋ねる。いつもなら嫌がってその手を振り払う彼なのだが、今日に限っては何もしない。
「なんでもないよ」
「あんた隠すの下手ねぇ」
氷雨は苦笑いを浮かべる。こうなると放っておくわけにもいかないだろう。
「ねえ青戸、久し振りにご飯でも食べに行こうか。まだでしょ?」
一人の老年の女性が、月を映す夜の海を見つめている。彼女がいるのはある客船の甲板。周りには誰もおらず、ただ潮の香りと冬の夜の風が体に染みて行くようだ。
その女性、光永奈緒はただじっと海の向こうに視線を向ける。海の景色の移ろいなどほとんど分からないはずなのに、彼女は自分の生まれた地がもうすぐそこまで来ているということが感じ取れる。
「お婆様、またこんなところに」
そう英語で話しかけられ、光永は振り返る。そこには孫であるリサがいる。四分の一だけ日本人の血が混ざった彼女は、祖母である光永のことを良く慕ってくれていた。
「体を冷やすのは良くないですよ?」
「ああ、済まないねぇ、リサ」
リサにコートを掛けてもらい、光永はそう礼を言う。
「でも、もうすぐ何十年か振りに故郷に帰れるのだと思うと、じっとしていられなくてねぇ」
「もうすぐ、お婆様の生まれた日本に到着するのですものね」
リサのその言葉に小さく微笑み、光永は頷いた。日本を離れた頃、彼女はまだ十代の半ばだった。高度経済成長期と言われる時代で、テレビにやっと彩が加えられた、そんな頃だった。
「そろそろ部屋に戻りましょうか」
「ええ、そうですね」
リサがほっとしたような笑みを浮かべる。光永はもう一度だけ海を振り返り、それから甲板の上を歩き始める。
「日本の人たちも、お婆様のピアノを楽しみにしておられるのですから、お体には気をつけて」
「分かっているわ。心配かけてすまないわね」
光永が日本を離れたのは、ピアノのためだった。当時、まだ十にも満たないころから天才と謳われていた彼女はその才能を買われ、米国のピアニストに師事するために渡米したのだ。だが、それは様々な別れを伴っていた。
家族は着いて来てくれたが、当然学校の友人や地元の知り合い、親戚の人たちが着いてきてくれることはなく、それから二度と会えてはいない。両親が死んでしまった今、秋田の知人はアメリカで知り合った人ばかりで、故郷である日本には一人として知っている者はいない。
それでも、光永は日本が好きだった。自分が生まれた、小さな島国。きっと今はもう自分が知っていた景色などないのだろうけれど、それでももう一度足でその地を踏み、手でその空気を感じたい。
光永は思いながら、夜中であるために誰も歩いていない客船の廊下を歩く。人生の大部分を過ごしたアメリカのことももちろん嫌いではない。もう死んでしまったが、あの国で夫と出会ったのだし、子や孫にも恵まれた。
特にリサは自分に懐いてくれていて、光永にピアノの演奏を習いつつ付き人のようなことをしてくれている。六十を超えた老体には非常にありがたかった。
「お婆様、今日はもう寝ましょう?起きたらもう日本はすぐそこですよ」
「そうね……。楽しみだわ」
光永は素直に頷き、数十年振りの故郷を瞼の裏に映しながら客室のベッドに横たわる。
同じ頃、その客船の貨物室を一人の男が歩いていた。焦げ茶色の帽子を目深に被り、同色のコートで全身を覆っている。
黒いブーツが貨物室の床を叩く度に軽い音が鳴る。男は何かに気が付いたように立ち止り、後ろを振り返る。
「良い加減出てきたらどうだ。蜥蜴臭くてかなわん」
男が低いが良く通る声でそう言うと、一部の貨物が音を立てて倒れ、二メートルほどの身長を持った異形が姿を現した。
「殺し屋、カリスめ」
二足歩行をする蜥蜴のような異形のものは男を見てそう呟いた。その両手には両刃の剣が握られており、血走った目は殺意を湛え、コートの男に向けられている。
「こんな所までついて来るとは、暇なのか?」
カリスと呼ばれた男はそう馬鹿にしたように言うと、腰から拳銃をひとつ取り出した。黒色のその拳銃は、薄暗い闇の中に溶けるようでありながら、微かに鈍い光を反射している。
「黙れ、俺の兄はお前に殺された。何故だ」
リザードマンの男は裂けた口を歪ませ、そう怒りの声を発する。
「私が戦う理由はひとつ。私は死を求めている。ただ貴様では足りない。見逃してやるからさっさと失せろ」
カリスは言うが、リザードマンは敵意を鎮めようとはしない。両手の剣を握り締め、口の端から唾液を垂らす。
「死を求める?兄貴は殺されたのか……。ただ貴様の快楽の糧となるために!」
「貴様の兄では駄目だった。私の求めるものには足りなかった」
そう言うと、リザードマンは低く唸り声を上げた。
「貴様はこの手で殺してやる……。二度目の死を与えてやるよミイラ男」
「そうかい」
カリスは小さく溜息をつく。雑魚に興味はない。だが、ここは海の真ん中。逃げると言うことも無理そうだ。白い包帯に巻かれた顔の隙間から、鋭い眼光がリザードマンを捉える。
「兄貴、待ってろよ……」
リザードマンは一人呟き、両足の逆関節を曲げるとカリスに躍り掛かる。カリスはその跳躍を体を横にずらして避けると、大型の拳銃を構え、銃口をリザードマンに向ける。
「全く面倒だ」
引き金を引くと同時に薄暗い貨物室に閃光が迸り、弾丸が放たれる。だがリザードマンは床から壁、壁から天井へと跳び移り、銃の照準から外れる。
「そんなものが当たると思ったか?」
リザードマンの剣が迫る。カリスは拳銃を逆手に持ってそれを防ぐと、左手でコートの中から次の拳銃を取り出した。
「この距離ならな」
カリスの左手に握られた銃が火を吹き、装填されていた50口径弾がリザードマンの右手を吹き飛ばした。甲高い悲鳴を漏らし、灰緑の怪人はコートの怪人から離れる。
「対化け物用に特注した弾丸だ。痛かろう?」
カリスはにやりと笑みを浮かべ、片腕を失ったリザードマンを見下ろす。この拳銃や銃弾はそこらで手に入るような代物ではない。様々な素材を組み合わせた上に幾重にも妖術を施された、異形に傷を与え、殺すことに特化した武器だ。
小型の恐竜のような姿をした異形は肩で息をしながらも、闘志を燃やした目でカリスを睨み返す。
「てめえ……」
「自分で喧嘩を売って来たんだ。反撃されても文句は言えまい」
カリスは照準をリザードマンの頭部に合わせる。だが、リザードマンは怯むことなくその尾を振い、カリスの腹部に叩き付けた。
カリスの体が吹き飛び、貨物である積み上げられた段ボールに突っ込んだ。
「やる気が出んな……」
カリスはゆっくりとした動作で立ち上がった。このままあの男がどこかへ行ってくれれば楽なのだが、兄の仇と固執されている以上はそうもいかないだろう。
カリスは両手に銃を持ったままリザードマンの流す緑色の血を辿る。それは貨物と貨物の間へと続いており、その隙間の途中で途切れていた。
カリスはその狭い空間を出て、ある程度周りに障害物のない空間を見つけ、その中心に立った。狭い場所よりこちらの方が迎撃しやすい。
壁の向こうから聞こえる波の音に混じり、何かが動く気配がする。腕を失っているのだ、ただじっとしているのも困難だろう。決着を急ぐは筈だ。
背後で音がした。カリスは気付かない振りをして、じっと待つ。わざわざ狩人が獲物の元に赴く必要はない。相手が罠に掛かるのを待てば良い。
背後にリザードマンの妖気が迫る。カリスは前を向いたまま銃口だけを後ろに向けた。
轟音と火花が散り、甲高い悲鳴がそれに続く。カリスは振り返り、右脚を失って地面でのたうっているリザードマンの首を掴んだ。
「放せ……」
リザードマンが呻き声を上げるが、カリスはその声を無視して風の吹く甲板の上を進む。そして、その端まで辿り着くと首を掴んだままリザードマンの体を持ち上げる。
「生きてどこかに辿り着ければ、また会うかもな」
カリスは言うと、リザードマンの体を船の手すりの向こうへと放った。体液を散らしながら夜の海へと異形の姿は消えて行く。
「まあ、私は会いたくないがね」
黒い革手袋をはめた手を払い、そう告げて海に背を向けた。
月夜の下、美琴は窓際に腰かけ、彼女の愛刀、十六夜の刀身を月明りに晒す。妖刀は銀色の鈍い輝きを放ち、闇の中にその存在を示す。
千年来の付き合いであるこの刀は、もちろんただの刀とは違う。妖力と思念を込められて作られた、特別な太刀だ。
妖怪、いや異形にとっての武器はそれぞれ異なるが、基本的な条件として自身の妖力を通わせることに耐えられなければならない。ただの武器であれば妖力に耐え切れずすぐに壊れてしまうし、そうでなくとも異形同士の戦いの中では相当な負荷がかかる。
そのため、戦いを糧とする異形のものは自分に合った武器を見つけ出すか、作り出すこととなる。よって異形のものたちは量産された武器を使うということが少ない。
銃を代表とする近代武器が異形の間であまり使われないのはそういった理由がある。しかし、作ろうと思えば銃であろうと戦車であろうと、妖力を媒介とする武器としては作れないことはない。
美琴は月の光をたっぷりと吸った十六夜を鞘に戻す。この刀は美琴のために作られ、贈られたものだった。彼女の妖力に合わせて作られたため、戦いの際には一心同体となって使うことができる。
「あなたが必要でなくなる時が、来るのかしらね」
美琴は刀を愛おしそうに撫でながらそう言った。これは美琴にとって大切なある人が残してくれたものでもある。だから、きっと世界に武器が必要と亡くなった後も自分の手の中にあり続けるのだろうと美琴は思う。
「僕が付喪神だってことは氷雨さんも知ってるでしょう?」
氷雨は青戸の言葉に、食べていたざるうどんの箸を止め頷いた。
「そりゃそうよ。あたしが外歩いてるあんたを見つけたんだから」
ここでいう外は、屋外という意味ではなく黄泉国の外、つまり人間界のことだ。数十年前、氷雨はぼろぼろの姿になって歩いている彼を見つけた。確か今日と同じように、寒い冬の日だった。
ある用事で人間界に出ていた氷雨は、目的を済ませて黄泉国へと帰るところだった。その途中、古い洋館の前を通った時、氷雨は青戸を見つけた。
見た目は穴だらけ、汚れだらけの布を纏った人間の少年だったが、微かな妖気を漂わせていた。人の世界で一人さ迷う彼を放っておけず、この黄泉国に連れて来たのが氷雨だった。
「あんたあれから全然成長しないよね」
「僕は器物の妖なんだから、成長する訳ないだろ」
氷雨がからかうように言うと、青戸はむっとして答えた。彼はある楽器の付喪神。元が器物である以上は年老いる、成長するという概念は存在しない。
「氷雨さんはちょっと老けたね」
「老けてないわよ」
氷雨は少し怒ったような声を出して、それから小さく笑った。うどんを一口すすり、青戸に問う。
「それで、悩みってなあに?あんたが妖怪になる前と関係ある?」
「鋭いね氷雨さん」
青戸が苦笑して言った。
「そりゃあね、あんたがそんな風に悩んでることはめったにないから、原因といったらここに来る前だろうな、と思うわよ。で、何に悩んでるの?」
氷雨に問いに青戸は少しの間沈黙した後、小さく息を吸って話し始める。
「僕は氷雨さんの知っている通りピアノの付喪神だ。物が妖怪化する条件は知ってるだろ?」
「そうね、ひとつは粗末に扱われた場合、器物は時を経て怨みとともに妖怪化する。そしてもうひとつは」
氷雨は一口茶を飲み、続ける。
「とても大切に扱われていた場合。器物は持ち主の愛情を受けて妖怪となる。怨嗟か愛情か、何かが異形に変わるのにはこのどちらかがほとんどだしね」
氷雨の言葉に青戸は頷いた。
「そう。僕は後者だったんだ。でも僕が妖怪化した時にはもう、僕の主はいなかった」
「何か止む負えない事情があったってことね」
青戸とは長い付き合いだが、氷雨の方から彼の過去を聞き出したことはなかった。それを知らなくてもこの場所なら生きていけるから、自分から言い出さないのなら聞くつもりもなかった。




