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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第二四話 守り手
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三 守り手

 美琴は屋敷のテレビでニュースを見ていた。キャスターが木久里町二丁目で起きた事件を報道している。これで二人目の犠牲者だそうだ。

「やはりね」

 美琴は一人呟き、立ち上がる。昨日その場所に調査には赴いたが、(けが)れの気配はなかった。だが、事件はこうして起きている。

 死人は出ていないが、時間の問題だろう。今夜辺りには解決しなければならないようだ。

 美琴は立ち上がると、居間を出た。ひとつ気になることがある。




 事件が起きたという現場は、見た目は何の変哲もない住宅街だ。この場所でのみ事件が起きるのには理由がある。

 美琴が歩いていると、電柱の後ろに茶色の犬の姿が見えた。だがただの犬ではない。人間には見えない幽体をしている。

「おいで」

 美琴がそう声を掛けると、その犬はびくりと体を震わせて走って行ってしまった。昨日はちゃんと近付いて来たのにと思っていると、後ろから声を掛けられた。

「お譲ちゃん、この辺りは危ないよ」

 後ろから声を掛けられて、美琴は振り返った。そこには三十前後ほどのスーツ姿の男がいる。出勤の途中だろうか。

「どうしてですか?」

 予想は付くが、一応聞いてみる。

「最近ここらで通り魔事件が起きてるからさ。朝とはいえ人が少ない時間は危ないと思うんだ」

 悪い人ではなさそうだと思った。ただ、疲れた顔の中で眼だけが何か決意をしたような力を帯びているのが気になった。

「分かりました。ご親切にどうもありがとうございます」

「いやいや、いいんだよ。じゃあ、気を付けてね」

 そう言って、男は歩いて行く。そして美琴は、その男の姿をじっと見つめるあの犬の妖の姿を遠くに見た。




 また夜が来た。馬上は決意を胸にいつもの道を辿っていた。

 こたろうは自分の家族だ。だから、他の誰かではなく自分がこたろうがしたことの責任を取らなければならない。

 やがてあの道が見えてきて、正面にこたろうの姿があった。生前よりも体が大きくなって、目つきも鋭くなったように感じる。だが、毛の色も耳の形も、こたろうだ。

「こたろう……、だよな」

 こたろうは答えない。ただゆっくりとこちらに近付いて来る。

「俺のこと怨んでるなら、俺にぶつければいい。もう逃げないから。だから、もう誰かに怪我させるのはやめてくれ」

 こたろうは気が弱い犬だった。小さなころに噛まないように教えてからは誰も噛まず、また少しでも叱られれば尻尾を丸めてしまうような、そんな犬だった。それでも、自分が両親に怒られている時や、外で不良に絡まれた時などは自分に味方して、守ろうとしてくれる犬だった。そんな彼を、自分はこんな風にしてしまったのか。

 こたろうが近付いて来る。そして、唐突に走り出した。馬上は目を瞑る。この人生、こたろうの手で終わらされるのならば本望だった。

 だが、自分の体に衝撃が走る前に後方から呻くような悲鳴が聞こえた。馬上は目を開けて振り返る。すると、そこには包丁を持った男がこたろうに体当たりされ、倒れる光景が見えた。

 こたろうは前足で男を押さえつけているが、男は人間とは思えない力でこたろうを蹴り飛ばすと、立ち上がる。

「こたろう!」

 馬上は思わずこたろうに駆け寄った。腹を蹴られたこたろうは苦しそうに息をしている。自分は勘違いしていた。こたろうは自分を殺そうとしていた訳ではなかったのだ。

 男は血走った目で馬上とこたろうを睨み、包丁を握りしめて一歩ずつ歩いて来る。明らかにまともな精神状態ではない。

 こたろうが立ち上がり、男に向かって吠え声を上げる。その声はかつてのこたろうと全く同じだった。

 こたろうが男に飛び掛かるが、男はこたろうの前足の付け根に包丁を突き立てた。甲高い声を上げ、こたろうが地面に落ちる。

「やめろ!」

 馬上は思わず男に飛び掛かった。これ以上こたろうが傷付くのは見たくない。

 男は包丁を持っていない方の拳で馬上の顔を殴りつけた。首が折れるかと思うほどの力で数メートル後ろに吹き飛ばされ、馬上も地面に叩きつけられる。その彼に、こたろうが心配そうに声を出して近付いて来た。

「お前は早く逃げろ。もう俺のことは守ってくれなくていいんだ」

 馬上は言う。こたろうが二回も死ぬなんてことは耐えられない。どうせこの生活に希望などないのだ。自分が犠牲になって、こたろうが逃げられるのならそれでいい。

 そう思い、再び男に向かって行こうとした時だった。

 紫色の和服を着た何者かが突然現れて、馬上と男との間に立った。長い黒髪が腰まで伸び、着物には銀色の蝶の刺繍が施されている。背を向けているので顔は分からなかったが、どうやら女性のようだった。

「間に合ってよかった。大丈夫ですか?」

 その少女が振り返り、馬上はそれが誰なのかに気が付いた。今朝この辺りにいたあの少女だ。瞳の色が紫に変わってはいるが、間違いない。

「君は今朝の……」

「あの男は私に任せてください」

 少女はそう言うと、包丁を振りかざして襲って来る男の右手を掴み、背負い投げでアスファルトの上に叩きつけた。

「あまり手荒なことはしたくないからね」

 少女は言い、男の頭部を掴むとその腕を引き上げた。すると、男の頭から何か黒い気体のようなものが引き剥がされるようにして彼女の手に続いて現れる。水中に漂う墨のような物体は、生きているようにうねうねと彼女の手の中で(うごめ)いている。

「通り悪魔。久々に見たわね」

 少女はその黒い塊を宙に放ると、腰に()いた日本刀を振り抜いた。それは通り悪魔と呼ばれた塊を切り裂き、一撃で霧消させた。

 通り悪魔を剥がされた男は気を失ったのか倒れたまま動かない。少女は刀を腰に戻すと、馬上とこたろうの方を向いた。

「色々と、説明せねばならないことがありますね」




「つまり、君やあの黒いのは妖怪だと」

 馬上が美琴と名乗った少女にそう尋ねると、彼女は頷いた。にわかには信じ難いが、この目で見たのだから否定することはできない。

「はい。そしてその子も同じように妖怪です」

 馬上はこたろうを見る。こたろうは地面に伏せて上目使いで馬上を見返す。その姿は小さくなり、いつの間にか馬上の良く知る生前のこたろうのものに戻っている。

「その子は送り犬という妖怪です。その特性は、道行く人々を守ると言うもの。この子はあの通り悪魔に憑かれた人間たちから、この道を通る人々を守っていたのでしょう」

「そうだったのか……」

 馬上がこたろうの頭を撫でると、こたろうは気持ちよさそうに目を閉じる。その表情が懐かしくて、思わず目の奥が熱くなる。

「通り悪魔が憑いている人間がいて二人も被害者が出ていながら死人が出ていないのその子のお陰です。だけど、その子もあの男性が自分の意志で人を襲っているのではないことを知っていたから、強く攻撃することもできなかった。優しい子なのでしょうね」

「昔から、そういう犬だったんだ。こたろうは」

 馬上はこたろうを抱き上げる。こたろうは抵抗せずに馬上の胸に収まった。匂いも感触も温かさも、昔のままだ。

 家族の誰かが泣いていれば慰めようと近付いて来て、また自分から怒ることはほとんどしなかった。死んで妖怪になってまで、その性格は治らなかったのか。

「送り犬は旅行く人を守る妖。きっと、この子はあなたを守りたくて妖になったのでしょうね」

 馬上は頷く。そうなのだろう。それなのに自分は、こたろうが人を傷付けているのだと思ってしまった。こたろうは力を込めてこたろうを抱きしめる。

「ごめんなぁ、こたろう。ずっと謝りたかったんだ。お前を看取ってやれなかったことも、苦しいお前を構ってやれなかったことも。辛かったよなぁ」

 こたろうは舌を出して、馬上の頬を流れる涙を舐めた。

「お前を見た時、逃げ出してごめんな。お前はそんな犬じゃないってことは、俺が一番知ってたはずなのになぁ」




 美琴は言葉を発さずに、一人の人間と一匹の犬の再会を見つめていた。死してなお主人を守ろうとした犬と、(あやかし)化した飼い犬を抱きしめる人。きっと二人の間には強い絆があったのだろう。

 あの日、マコの言葉でこの場所に調査にやって来た時、美琴はこのこたろうと出会った。しかしこたろうにはひとつも穢れの気配は見えず、こたろうが人を襲っているという噂は間違っているということはすぐに分かった。

 そして、言葉が通じない彼の霊気を辿らせてもらってその想いを見た時、彼の心が一人の人間に向いていることが分かった。

 その人間が、今こたろうを抱いている馬上。恐らくこたろうは死んだ後も彼に対する想いから成仏することなく、この世に留まり続けていた。そして、あの通り悪魔が出たことで、彼を守るために肉体を得て、妖怪化した。

「美琴さん、私とこたろうを助けてくれてありがとう」

「いえ、それはいいのです。ただ、ひとつ言わなければならないことがあります」

 だけどもうすぐ、日が昇ろうとしている。まだ妖になったばかりのこたろうは、妖気が薄くなる朝には実体を保てずに幽体になってしまう。

「こたろう君は、もう普通の犬ではありません。恐らくこの世界で人と一緒に生きることは難しいでしょう」

「そうか……」

 馬上の腕の中で、こたろうの肉体は少しずつ幽体に変わり始めている。馬上にはこたろうが少しずつ消えて行くように見えているだろう。

「こたろうは、どうなるんだ?」

「妖怪化したものは、簡単に消えることはありません。これからは妖怪として生きて行くことになるでしょう」

「……うん、分かった」

 馬上はそっとこたろうを地面に下ろした。こたろうは馬上を見上げてから、美琴の方に歩いて来た。もう体はほとんど幽体になっているから、馬上には見えていないだろう。

「さようならだ、こたろう。でも寂しかったらまた会いに来てもいいんだぞ」

 馬上はそう言った。こたろうはそれに答える代わりに、先程男に襲われた際に脱げてしまった馬上の靴の片方を咥えた。その靴は、馬上にも見えているはずだ。

「そうか、お前はまだ人の靴を持ってくのが好きなのか。また怒られるぞ」

 馬上はそう泣き笑いのような表情で言う。こたろうは美琴の側に戻って来て、一度彼女を見上げた。もう自分が住むべき世界は分かっているようだった。

「こたろうを、よろしく頼みます」

 馬上は美琴にそう頭を下げた。美琴も頷いて答える。

「分かりました」

 そして、馬上は靴を咥えたこたろうに向かって、最後に笑って言った。

「元気でな、こたろう」




 美琴はこたろうを連れて、ともに黄泉国への道を歩いて行く。こたろうは時折後ろを振り返りながら、それでも美琴の横にぴったりとついている。

 送り犬と別れる時には、履物を脱いで渡すと良いと昔から言われている。それはあなたのお陰で無事に歩いてこれたという感謝を表す行為。だけどこたろうにとっての馬上の靴は、かつての主人と自分とを繋ぐ大切なものだ。

 美琴はこたろうの頭に手を置き、撫でながら言う。

「もう、あの人は大丈夫よ。もう一度あなたに会えたから」

 その言葉を理解したのか、こたろうは後ろを振り返るのをやめた。この子には、これから妖の世界での新しい生活が待っている。




 こたろうとの別れから、数日が過ぎていた。こたろうは自分を怨んで化けて出たわけではなかった。自分を守るために、妖怪になってまでやって来てくれた。馬上はずっと昔、こたろうがぼろぼろにしてしまった小さな靴を見つめる。

 そんなこたろうのためにも、もっと前向きに生きなければと馬上は思う。こたろうはまだ、この世界のどこかにいるのだ。いつか再会する時が来れば、胸を張って生きている人間として、彼を抱きしめてやりたい。

 今日もまた、変わらない日々が始まる。だけどそれを変えられるかどうかは自分次第だ。そう心を切り替えて生きて行くことにした。それが、自分を守ってくれたこたろうにできる数少ないことだから。

「行ってきます!」

 馬上は爽やかな表情でそう言い、太陽の下を歩き始めた。


異形紹介

・送り犬

 長野県、兵庫県に現れる妖怪。山中を行く妊婦を狼から守り、送り届ける話が残っていたり、送り犬と迎え犬という二種類の妖怪がおり、送り犬は人を守ってくれる妖怪で、迎え犬は人を襲う妖怪だという言い伝えが残っていたりする。また、柳田國男氏の『妖怪談義』などにおいて送り犬は送り狼と呼ばれる妖と同じものであるとされ、山道で転べば襲いかかってくるが、座った振りをすれば何もされないのだという。

 無事に送り届けてもらった際には塩や小豆飯、また草鞋を片方供えれば良いのだとされる。

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