二 ゆうれい
高校へと向かうバスの中、恒は窓の外を流れていく景色を見つめながら一人、過去を思い出していた。霊感、それは恒にとって特別なものであり、また、彼を最も悩ませたものだった。人とは違うものが見える。それに気が付いたのは、彼がまだ小学校に上がる前、五歳になったばかりの頃だ。
幼い頃に両親を失くし、物心ついたときから祖父母の古い家に住んでいた彼は、ある夜、そこにはいないはずの十三歳ほどの年恰好の女の子に出会った。
尿意を催し、起きてきた午前二時。部屋から厠へ行き、また戻る途中にある縁側。そこから見える庭に、その子は月明りを受けて立っていた。
泥棒や強盗ならともかく、こんな時間に人がいるのはおかしい。その上半分体が透けているように白く、庭に立つ少女は幼い恒にとっても不可思議な存在だった。しかし恒が恐怖を覚えることは無かった。その少女は恒の良く知っている美樹という名前の中学生だったから。たまに遊んでくれる近所のお姉さんのような存在で、最近姿が見えなかったが、こんな時間にこんな場所で会うとは思ってもみなかった。
美樹は酷く悲しそうな表情をして、夜の黒に上がった月を見上げていた。その顔が恒に恐れとは違う感情を抱かせたのかもしれない。
「どうしたの?」
恒は縁側に立ったまま、少女に話しかけた。美樹はとても驚いた様子で声の主を見た。そして、呟くように言った。
「私が見えるの?」
恒は黙って頷いた。すると美樹は、とても嬉しそうに微笑んだ。
それから美樹と恒はしばらく縁側に座って話をした。彼女は自分のことを気付いてくれたのは恒が久しぶりだと打ち明けた。
「私、もう人間じゃないのかな」
夜空を見上げながら、美樹はそんな言葉を呟く。
「どうして?お姉ちゃんは人間にみえるよ」
恒がそう言うと、美樹は悲しそうに微笑んで、そして静かに首を横に振った。だが肌が異様に白く見えること以外、恒には彼女は普通と変わらないように思えた。
「私、本当は知ってるの。私はもう死んでるって」
「死んでいたら、ここにいるわけないじゃないか」
「でも、私はあなた以外の人に見えないの。私ね、車に轢かれたの。そして気がついたら、私が声を上げても誰も気付いてくれない。触ろうとしてもすり抜けてしまう。誰も、私を見てくれない。そんな状態になってた。きっとそれは私が幽霊になったからなんだろうね」
「幽霊?お化けってこと?」
恒が尋ねると、美樹は今度は首を縦に振った。夜風が恒の髪を揺らす。しかし、美樹の体は風をすり抜ける。
「ひとりで悩んでいるときは、怖くて、怖くて自分がお化けになったなんて考えられなかった。でも恒君と話してみて、やっと納得できたわ。恒君は不思議な力を持っているのね」
美樹の体が硝子のように透け始めていた。恒の中で胸騒ぎがした。
「そんな、僕は普通だよ、だからお姉ちゃんも普通だよ」
泣きそうになりながら恒が言う。本能的なものなのか、美樹との別れが迫っていることが分かった。彼女はもうこの世のものではない。そう、心のどこかで分かっていた。でも彼女と別れるのは嫌だった。
「優しいのね。でももういいの。私はここにいるべきじゃないって、誰も教えてくれていないのに私は知っている。でも、私は最後に誰かに気付いてほしかったんだと思う。私がいるってことを」
美樹は透明になりつつある自分の手で、恒の手を取った。そこに暖かさはほとんどなく、冷えた水のように冷たい。
「暖かい。あなたには、触れるんだ」
美樹の頬を涙が一筋流れた。恒もいつの間にか泣いていた。なんだか分からないが、これを最後に美樹とは会えなくなるような気がしてならなかった。
涙は地面に落ちることなく、消えた。
「恒君、泣かないの。もっと強い大人になるのよ。そして、私みたいな他の人には見えない誰かを、助けてくれたら嬉しいな。ありがとうね、恒君。みんなによろしく言っておいて」
美樹は手を離し、微笑んで恒を見る。その表情が、光の粒へと変わっていく。
「さようなら」
言葉を返す間もなく、光となった美樹の魂は夜空に消えた。それはまるで幾千の星の輝きのようで、恒の心の中に強く残っている。
そして美樹と話すことができたのは、本当にそれが最後となった。
翌日、恒は祖母に昨夜に不思議な出来事を話した。最初は驚いていた祖母は、次第に柔和な顔つきになり、恒に言った。
「そうかい、美樹ちゃんが。一週間前車に撥ねられて亡くなったとは聞いていたけどね。きっと寂しかったんだろうね」
「お姉ちゃんはどうなったの?」
「きっと、恒ちゃんに救われたんだよ。人間にはね、この体の他にもうひとつ、魂というものがあるんだ」
祖母が恒の頭を撫でながら言う。
「たましい?」
「そう。心と言っても良いかもね。美樹ちゃんは体は死んじゃったけど、魂の方はまだこの世から離れられずに、誰かの温もりを欲していたんだろうねぇ」
「お姉ちゃんは消えちゃったよ」
「それで良いんだよ。魂だけじゃ、人はこの世にはずっとはいられない。でも恒ちゃんが美樹ちゃんを慰めてあげたおかげで、美樹ちゃんは空に昇ることができたんだ」
泣きそうな顔で、恒が尋ねる。
「それって、いいことなの?」
「ああそうさ。おばあちゃんもおじいちゃんも、恒ちゃんより早くお空に昇ると思う。でも、それは悲しいことじゃないんだよ。それは生きてきてよかったって、思えたことなんだ。恒ちゃんは美樹ちゃんがそう思うための手助けをしたってことなんだよ。だから、もう悲しむのはおよしね」
「うん、分かった」
恒はなんとか笑顔を作り、そう言ってその話をやめた。その時はまだ幼く、死というものをきちんと理解してはいなかった。だが、祖母の言葉は今でも強く心に残っている。
歳を重ねるにつれ、恒は様々な霊と出会うことになった。しかし美樹との経験を除いて彼らの魂を救えたことは無い。そして次第にそんな話を誰かにすることも無くなっていった。幽霊が見えると言って信じてくれたのは祖父母以外には小町だけだった。今にして思えば彼女も妖怪だったのだから幽霊のことを知っているぐらいは当たり前だったのかもしれないけれど、それでもずっと自分の味方でいてくれたことには感謝している。
幽霊が見えるなんて言ったところで他の人間たちからは気味悪がられるだけだった。それが原因でいじめに遭ったことさえある。今そんな話ができるのは、小町の他には水木と飯田の二人の親友だけだ。
そうして、恒は霊という存在からできるだけ離れるようにになって行った。美樹が願っていた彼らを助けるということも、自分の力では無理だと、諦めるようになった。結局自分は彼らが見えて触れるだけで、救う力などないのだと、思うようになった。自分の持っている霊感なんてそんなものだ。
バスが学校前に着く。もし美琴は幽霊を相手にすることになったら、どう対処するのだろう。やはりあの鬼や大百足の時のように、あっさりと消してしまうのだろうか。そんな考えが学校への道を歩く途中にふと浮かんだ。
木久里町の中心に存在する、生徒数三百人ほどの小学校、木久里小学校。被害者が自分たちと同じ小学生であるためか、ここでも生徒たちの間では例の神隠し事件の話題で持ち切りだった。
「聞いたか?隣町の小学生二人が神隠しに遭ったらしいぜ」
小学三年生用の、生徒三十人の教室、その部屋の隅に固まっていた四人の小学生のうち、坂本弘樹が言った。彼の周りには清水晶、小林真菜、樋口洋子が座り、弘樹の話に耳を傾けている。
「本当に花子さんなのかな、あの事件の犯人」
真菜が独り言のように呟く。すると晶がわざとらしく彼女の側に顔を寄せ、ひそひそ声で囁いた。
「そうさ、次に来るのはこの学校かもしれないよ」
「何バカみたいなこと言ってんのよ」
洋子がノートで軽く晶の頭を叩いた。晶は笑って頭を掻く。
最近では学校もこの事件に対し、三階の女子トイレの使用を禁止したり、下校時間を早めたりして対処し始めていた。しかし、事件がそうやって身近で大きくなるほど、子供たちは興味を惹かれるものだ。この四人もその例外ではなかった。
「それでさ、俺考えたんだけど、花子さんをこの学校に呼び寄せてみない?」
弘樹は身を乗り出し、静かな声で言った。他の三人が突拍子のない提案に驚いて彼の顔を見る。その中で、晶が興味ありげに弘樹に質問した。
「どうやって?」
「それは……、『ひとりかくれんぼ』って知っているか?」
「なんだそれ?」
晶がさらに尋ねる。
「素人でも霊を呼び出すことができるんだよ。名前はひとりかくれんぼだけど、何人かでやってもいいんだって」
「どうやるの、それ?」
興味を持った様子の真菜が尋ねる。
「人形を使ってやるんだ。詳しいことはお楽しみにして、今日の夜、やんない?この学校でさ」
「マジ?でも面白そうだな」
「夜中に学校に侵入か~。やってみたいかも」
「私も、少し興味ある」
三人が弘樹の提案に口々に同意する。弘樹は満足気に頷くと、こう続けた。
「よし、じゃあ今夜八時頃に学校の前に集合だ。かくれんぼの材料は俺が持っていくから、遅刻するなよ」
三人が頷く。そのとき、授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。弘樹は今夜の冒険のことを想像し、胸を弾ませながら席に着いた。自らの行為が、何をもたらすか予想もせずに。
夕方、一人黄泉国の屋敷に残っていた良介は、玄関の方で扉が開く音を聞いて、そちらを見た。美琴と朱音は先程出て行ったばかりなので、恒が帰って来たのだろうと予想し、玄関に向かう。
「ただいま帰りました」
「おかえり、恒ちゃん」
彼が予想した通り、玄関の引き戸を開けたのは人間と妖怪、二つの血が流れた少年だった。
恒がこの屋敷に来てまだ一ヶ月ほどの時間しか経っていないが、それにしては彼はよくここでの生活に馴染んでいる。彼がここに来たばかりの頃は、住み慣れないこの異界という世界に戸惑って逃げ出してしまうのではないかと危惧していたが、もうそんな心配はいらないようだった。やはり妖怪の血がこの世界の空気に合っているのだろうか。
「美琴様と朱音さんは?」
屋敷に二人の姿が見当たらないのに気が付いて、恒が言った。
「二人とも人間界さ。何でも女二人でたまには食事でもということだ」
「珍しいですね」
朱音はともかくとして、美琴はこの屋敷からあまり出たがらない。恒がそんな感想を漏らしたのも、普段の美琴のそんな様子を見ているからだろう。長年彼女に付き従っている良介も、そんな彼女の性格を知っていた。特に最近は、恒のことを心配してか外出の頻度が減っていた。
いきなり命を狙われ、知らない世界に住むことになり、自分の半分が人間ではないと知らされた。そんな恒を、彼女なりに心配していたのだろう。その心配も、どうやら薄れてきたようだ。良介は恒が部屋に戻って制服から着替えてくるのを待ってから、声をかけた。
「どうだい、恒ちゃん。君もそろそろ黄泉国へ出てみないかい?男二人で夕食でもしにさ」
恒は驚いた顔をしてから、すぐに笑顔になって「はい!」と頷いた。
木久里町、その駅前から少し先に行ったところにある全国チェーンとして有名なファミリーレストラン。広めの店内には三十ほどのテーブルが用意されており、眩しいくらいの照明が店内を照らしている。夕食時より少し早いため、客はあまりいない。
その少ない客の中に、人間ではない二人の女が窓際の席に座っていた。高校生ほどのストレートの黒髪の少女と、二十二、三歳に見える、長い黒髪を紐で縛ってポニーテールにしている女性。どちらも整った容姿で、傍から見れば姉妹のようにも見えるだろう。
「たまにはこういうのもいいですね、美琴様」
「ええ、そうね」
食後のコーヒーを飲みながら、朱音は自分の主を見る。美琴は紅茶を飲みながら、窓の外を見ていた。その窓に映る少女の顔は、何か考え事をしているような表情をしている。
「神隠しの事件ですか?」
「そう。朱音は、あれが花子の霊の仕業だと思う?」
美琴が朱音の方を見る。朱音は、少し考えてから答えた。
「ええ、まあ出現する条件も同じですし、美琴様の言うとおり霊磁場の乱れも感じます。ただの模倣犯だったらこんなところまで共通するはずはありませんしね」
そう考えるのが自然だ。ただ、二十数年前、美琴は花子の霊の存在を知りながら、最後までその居場所を掴むことができなかった。それが気がかりなのだろう。今回は事件が起きている以上、このまま逃すわけにはいかない。
「それにしても、どうして二十年越しに姿を現したんでしょうか」
「さあね、でも、彼女の魂はこの二十年以上の間、救われることもなく、ずっと現世をさ迷っていたことになるわね」
そう言って、美琴は悲しそうな表情を浮かべた。彼女はこの事件にある種の責任を感じているのだ。
朱音はかつて花子の噂が流れた時のことを思い出す。
あの時、美琴が花子の霊を探していたのは、除霊のためではなかった。霊は人々が噂し、その存在を怖がるほど、その霊は念縛霊としてこの世に縛りつけられることになり、成仏することができなくなる。人々の噂、娯楽の対象として、いつまでもこの世に留まらせるのは忍びなかった。だから、まだ成仏できるうちにさせてやりたかったのだ。
だが、それは失敗に終わり、噂も沈静化に向かって花子の足取りは掴めなくなった。そのまま年が過ぎ、この事件だ。美琴はかつて自分が花子を見つけることができていれば、事件は起きなかったと考えているはずだ。神隠しに遭った子供たちもそうだが、花子と呼ばれる霊自身も、被害者なのかもしれない。
美琴は色々と考え過ぎる。朱音は、時折そう思う。自分の責任でないものも自分の中に取り込んでしまい、誰にもせずにひとり苦悩する。出会った時から彼女はそうだった。
美琴は罪を犯した者に対しては一切の容赦を見せない。その内面に何を隠していようともそれを外に出すことは無い。そうやって自分の役割をこなして来て、どれほどの苦悩を溜めこんできたか、朱音に分かるはずがなく、それが口惜しかった。
「さあ、そろそろ帰りましょう。恒も帰って来ているだろうし」
「え?」
美琴の声で、朱音は思考の渦の中から現実に戻ってきた。立ち上がって歩いて行こうとしている美琴を慌てて追いかけて、自身も立ち上がる。
「待ってくださいよ~」
二人は会計を済ませ、外に出た。空は夕焼けから夕闇へと青く染まりかけている。学校帰りの学生や、買い物中の主婦などでにぎわう繁華街を歩きながら、朱音は美琴を見る。
美琴は騒がしい雑踏に一つも注意を向けず、無表情のまま足を動かしている。長年の付き合いから、朱音は美琴が何かを考えているのだと分かった。多分、神隠し事件のことだ。こんな時は話しかけるのはよした方が良いだろう。彼女の注意をそむかせるのは、朱音の本意ではない。
しばらく無言のときが続いた。そして繁華街を抜けるころにやっと、美琴は口を開いた。
「今夜、私が決着をつけるわ」
朱音にだけ聞こえるような小さな声で、美琴はそう呟いた。




