一 はなこさん
生きとし生けるものには、必ず死が訪れる。しかし、全てのものの魂が救われ、昇天するとは限らない。愛情、怨嗟、悔恨、そんな強い未練をこの世に残したものは、霊魂のみの存在となっても現世に留まり続ける。そうして異形のものと化したものたちは、幽霊と呼ばれる。
第三話「おにさんこちら」
とある真夜中の小学校、その三階の女子トイレ。暗い闇に支配され、昼間のにぎやかさの名残さえ消し去った、誰もいるはずのないその場所において二人の少女の会話がしている。
「ねえ由香、本当に出るの?トイレの花子さん」
短い髪の少女が長い髪の少女に尋ねた。どちらも小学校低学年ほどの年齢。本来ならば、こんな時間に学校にいることはあり得ない。
「噂だとそうだって。最近この学校でも一人いなくなったらしいよ」
由香と呼ばれた少女が楽しそうに言った。
二人がこの時間にこんな場所にいるのは、この由香の提案が発端だった。最近、ずっと昔に流行ったというトイレの花子さんの噂が、彼女たちの通う小学校でまことしやかに囁かれていた。そんな中で、由香はその花子の霊がこの学校に来たという噂を耳にしたのだ。由香はそれを確かめようと、親友の皐を誘い、丑三つ時である今、この学校へと足を運んだ。
「本当に花子さんがいたら私たち有名人になれるかもよ、初めて花子さんを見た小学生って」
由香は笑ってそう言ったが、皐は心配そうな眼差しを由香に向けた。
「でも、花子さんを見た人はどこかに連れて行かれるんでしょう?」
「大丈夫よ、幽霊なんて生きてる人間に敵うわけないって」
由香はそう言って皐の心配を一蹴すると、閉まっているトイレの個室に顔を向けた。奥から三番目の個室。噂ではその扉を三回ノックし、声をかけると花子の霊が返事をするという。
由香は本当は霊など信じていなかった。そんなの、誰かが作り出したおとぎ話に過ぎない。今夜ここにやってきたのも、親友と二人で夜の冒険をしてみたかっただけなのだ。花子さんの噂など、その口実に過ぎない。
「じゃあ、いくよ」
由香がそう話しかけると、皐は無言で頷いた。由香は深く息を吸い込むと、個室のドアを三回叩いた。
「はーなこさん、遊びましょ」
そのまま、静寂が続くと二人とも思っていた。噂は噂に過ぎない。だが、その予想に反して、二人のどちらのものでもない声が暗いトイレに響いた。
「はーい」
誰もいないはずの個室から声がした。大人ではない、まだ小さな女の子の声だ。皐が「ひっ」と短く悲鳴を上げる。由香も先程までの余裕を失くし、茫然と自分がノックしたドアを見つめいていた。嫌な汗が額を流れる。単なる噂と高をくくっていたのに、本当に返事が返ってくるなんて。
個室のドアが内側から開き始める。まるで重い鉄のドアを開くようにゆっくりと。
由香は逃げ出そうとしたが、筋肉が硬直したように動かない。皐は、地面に座り込んですすり泣いていた。
「なにして遊ぶ?」
異界の扉が開く。その闇の中から現れた異形のものは、二人を見て、笑った。
月の光は、優しげだ。陽の光のように強過ぎず、儚げな光を授けてくれる。その方が、死神の少女には好みだった。黒に染められた夜道を歩く少女の姿は、今時にしては珍しい和服で、深い緑色は暗い闇に溶け込むようだ。足には草鞋を履いている。
午前二時を少し超えた時間帯、街灯もまばらなこんな道を歩くものは、彼女の他にはいない。美琴という名のその少女は、町外れにある一軒の家の前まで来て、その歩みを止めた。
美琴はその白い壁の家を見上げた。街灯の光も届かなくなったその場所に、その白は不気味なほど目立った。
五年前、この家で凄惨な事件が起こった。何でも、夫の暴力に耐えかねた妻が夫を刺殺し、一人息子とともに心中したらしい。それ以降、この家には女の霊が出現し、家にやってくる者を呪い殺すと噂されている。実際、事件の後入居した一組の家族がこの家で謎の自殺を遂げていた。それが霊の仕業かどうかはまだ分からないが、美琴はこの家から強烈な霊気が漂っているのを感じていた。
時は丑三つ。妖気が最も高くなる黄昏の逢魔刻とは逆に、霊気が最も高くなるのがこの時間帯だ。霊気が濃くなれば、霊は活発に活動を開始する。それが害のない浮遊霊なら良いが、悪霊の類であれば人や動物に害が及ぶ。たとえ相手が霊体であろうとも、有害であれば対処せねばならない。
美琴は家のドアノブに手を掛けると、それを回した。鍵はかかっておらず、あっさりとドアは開いた。
家の中はさらに霊気が強くなっていた。美琴は妖力を開放して紫の死神の姿となり、紫に染まった瞳で家の中を凝視した。夜を本来の活動の場とする妖にとって、暗闇は視界を妨げるものにならない。しかし、それは相手も同じだ。
玄関から先は廊下が伸びており、その途中に階段があった。どうやら、霊気はその上から流れてきているらしい。相手は二階だ。
美琴は草履を脱ぎもせず家の中に上がった。そのまま階段へ向かおうとしたとき、霊気の塊が彼女を掠ってフローリングの廊下に沈んだ。見ると、階段の上から青白い顔の女が、憤怒の形相で美琴を睨んでいる。この家に取り憑く地縛霊のようだ。
幸せな家庭を築くための家が不幸の温床となり、それを未練として死んでいった女の霊。その強い執着により彼女は死して尚この家に留まり、新たに入ってくる家族を殺すのだ。それは、自分たちが幸せを築くはずだった場所で他人が幸せになるのが許せないからか。よくある怨霊の話だ。
死者の霊は強い思いによってこの世に留まる。それが負の理由であれば、それらは悪霊となり、他者に危害を加えるようになることが多い。
美琴は刀の柄に手を当てた。目を閉じ、自身の霊力を高める。霊を斬るとき、ただ物理的に刃を当てるだけではすり抜けてしまう。相手は肉体を持たない存在だ。霊体を斬るには、霊力を直接ぶつけるしかない。
女の霊が階段を四つん這いで降りてきた。その移動の仕方に似合わず、スピードはかなり速い。美琴の霊気を感じ取り、通常の呪殺では駄目だと判断したのだろう。直接美琴を殺そうと迫ってきている。だが、美琴は一瞬も怯まず、女の手が届く寸前に居合で応戦した。
「昇天なさい」
斬撃の概念に霊力を乗せ、銀色の刀身は一太刀で女の霊を切り裂いた。女は断末魔を上げ、白い粒子と化して、夜の葛と消え去った。
現世に留まり続ける魂。それは人々の世界から疎外され、異形のものと化したがために妄執は募り、死して死にきれぬ。哀れなものだ。霊魂はこの世のものに対して干渉する手段をあまり持たない。
美琴は刀を鞘に仕舞い込む。今夜の仕事は終わった。夜が明ける前に家に帰りたい。朝は妖や霊ではなく、人間たちの時間だ。三日月が沈みかける薄い闇の中、美琴は深緑の着物姿に戻り、帰途に着いた。
「昨夜未明、再び小学生児童二人が行方不明になる事件が発生しました。被害者は小学三年生の林由香さんと明石皐さん。二人は昨夜の午前一時ごろ家を抜けだし、彼女らの通う小学校へ向かった模様で、三階の女子トイレに彼女らの私物が残っていたそうです。警察はここ二カ月の行方不明事件と関連性があるとみて、調査を進めています」
四角いテレビの画面の中、キャスターが淡々と原稿を読み上げる。美琴、良介、朱音、恒の四人は朝食を取りながらそれを眺めていた。この家では、朝は決まった時間に飯を食べながらニュースを見る。
「またか、こりゃ人間の仕業じゃないな」
良介が呟いた。
「そうですね、私たちの仕事になるかもしれません。ね、美琴様」
朱音の問いに、美琴は黙って頷いた。
学校の女子トイレに行った小学生が神隠しに遭う。最近、そんな奇妙な連続児童行方不明事件が騒がれている。事件発生は一カ月前から。この二人を含め被害者は八人で、全国場所を選ばずに神隠しは発生、誘拐の痕跡もない。ただ小学校の三階の女子トイレで発生するということだけが共通している奇怪な事件。警察も調査を進めているが、全く事件解決の糸口は見えないようだった。その発生区域の広さから同一犯とは考えにくく、そもそも犯人が存在するのかも分からない状態だ。
「じゃあ、これは妖怪の仕業なんですか?」
恒が三人に尋ねる。妖怪がこの世に存在し、時には人間の世界に干渉すると彼が知ったのは、つい一月前だ。しかし、その存在を知った以上、この神隠しの事件が人外の手によるものであってもなんら不思議ではないと思えるようにはなっていた。
美琴が食べ終わった味噌汁の碗を置いて、恒の方を見た。木製の碗がちゃぶ台に当たり、ことりと乾いた音を立てる。
「恐らくね。でも、幽霊が関わっている可能性もあるかもしれないわね」
「幽霊?」
意外な返答に、恒は少し戸惑う。彼にとってみれば、犯人は人間か妖怪かという二元的な区別しかなく、幽霊という選択肢は頭になかった。そもそも、幽霊と妖怪の明確な違いを彼は知らない。
「そう、幽霊。二、三十年前にも同じような事件があったのよ。その事件の元凶はある幽霊だった。多分今回も同じ相手でしょうけど。ただ、まだ幽霊のままなのかは分からないわね」
調子を変えず、美琴はそう言った。彼女は今回の事件の犯人を知っているらしい。良介と朱音も知っていたらしく、驚いた様子はない。一人驚く恒を余所に、美琴は淡々と話を続ける。
「あの時は実害が無かったから、あまり深くは追い掛けなかったけれど、今回はそうもいかないみたい」
「昨日美琴様が除霊に行った幽霊は、やはり違うのですか?」
朱音が尋ねた。
「違うわ。あれは家に憑いた地縛霊。今騒ぎになっているのは絶えず場所を変える、散歩する幽霊よ。まあ、ある程度は出現場所が決まっているようだけど」
美琴はそう言うと、食べ終わった皿を丁寧に重ねた。食事を終え、もうその話題には興味が無いというように立ち上がろうとする美琴を、恒が引き止める。
「あの、一つ質問して良いですか?」
美琴が立ち止って、恒の方に振り返る。
「なに?」
「幽霊と妖怪って、何が違うんですか?」
その質問に、少し考えるような仕草を見せた。
「そうねえ、簡単に言えば肉眼で見えるか見えないか、つまり肉体を持つか持たないかといったところかしら。貴方のように最初から霊感がある場合は実感しにくいと思うのだけど」
「つまり妖怪は普通の人間でも見えるけど、幽霊は霊感が無ければ見えないということですか?」
恒の質問に美琴が頷く。
「簡単に言えばそういうことね。ほら、もう学校へ行く時間でしょう。詳しいことは、また後で話してあげるから」
いつの間にか食器は片付けられ、朱音が食後の茶を盆に乗せて現れる。
「恒君は飲んでいきますか?」
「いえ、時間が無いので。すいません」
「そうですか」
恒は朱音の誘いを断ると、鞄を持って立ち上がった。あまり多くの情報は得られなかったが、大まかな区別は分かった。学校へ行ったら飯田にも聞いてみよう。そんなことを考えながら、恒は屋敷を出る。
居間に残った美琴は、朱音とともに茶を啜った。その渋い味が、食後の口に心地よく染み渡る。
「幽霊と妖怪の違いね。久々に聞かれたわ」
「そうですね、でも人間界ではお化けとして一緒くたにされることが多いですからね」
「ええ、そうね」
茶を飲み干し、美琴は立ち上がった。それに続いて、朱音も立ち上がる。
「人間の世界でお化けが見えるといっても、奇異な目で見られるだけでしょうから。恒君もそれで苦労したんでしょうね」
共にに屋敷の広い廊下を歩きながら、着物姿の女妖二人は会話する。
「ええ。霊感があるというのも、人間社会では邪魔な才能に過ぎないのかもね」
人間は自らの科学的知識で説明がつかないものを全て否定しようとする。それが人間の常識というものを支え、社会活動を円滑に進める基礎になるのだろうが、その視野の狭さが思わぬ事態を招くことは多い。この前の大百足の事件や、今回の神隠し事件などがそうだ。
盲目的に自分の常識だけを信じてはならない。そんな簡単なことを知らない人間が、人間という存在のほとんどを占めている。いや、信じられなくなってしまえば、それは彼らにとっての常識ではなくなってしまうのかもしれない。常識というものは、ひどく脆いものだ。
廊下の端、二階へと続く階段の前で二人は立ち止まった。
「では、私は仕事がありますので」
「いつも御苦労様」
「いえ、美琴様も昨夜は仕事でしたんだから、今日はゆっくり休んでくださいな」
そう言って、美琴は階段の前で朱音と別れた。家事の大部分は朱音に任せられている。手先が器用な彼女だが、何故か料理だけは苦手なようで、それは良介の仕事となっている。
美琴は三階まで階段を上り、短い廊下を伝って自室の前まで進む。その襖を開き、六畳ほどの部屋の中心に正座した。一つ、確かめておきたいことがあった。
瞼を閉じ、精神を研ぎ澄ます。木久里町へその意識を向けると、やはりその霊気の異変を感じ取れた。霊磁場が乱れている。
霊磁場は霊気の流れだ。霊気は地脈と同じように、この人間界を一定の通り道に沿って流れている。この乱れは霊の活動に大きな影響を与えてしまう。昨夜あの地縛霊の家へ向かったのも、この乱れの中で特に強い霊気を放っていたからだ。
霊力の流れが自然に乱れることは、滅多にない。とすれば、何者かが大きな霊力を使ってここ木久里町の空間に大きな影響を与えたのだろう。未だ磁場が乱れたままなのを見るに、やはり昨夜の幽霊は元凶ではなかったようだ。となると、その元凶はこの町にまだいる可能性がある。
一九七〇年代後半、今起きている事件と似た噂が流れたことがある。全国の学校に現れ、三階の女子トイレに現れるという幽霊、『トイレの花子さん』。二十年以上前、小学生たちの間で流行った学校の怪談。
三階の女子トイレ、その奥から三番目の個室のドアを三度ノックすると、かつてトイレで死んだ女生徒の霊が現れるという。世間では都市伝説として処理されているこの霊が、二十余年の時を経て現れた。美琴はそう考えていた。
その理由として、事件の共通点の他にこの霊地場の乱れが挙げられる。かつてこの霊の噂が流れた時、全国で霊地場が乱れたことを覚えている。あの霊の特殊性は移動の仕方にある。たった一晩で日本中のどこにでも現れ、再び姿を消す霊。その移動方法が不明で、あの時はあの霊の居場所を掴むことができず、特に事件も起きないまま噂は終息に向かった。
しかしどうして二十年以上もの間を開けて活動を再開したのか、それは美琴には分からなかった。しかも今度は被害者も出ている。もし木久里町に現れるのなら、次に行く前にこの町で決着をつけねばならない。
美琴はふう、と溜め息をついた。この元凶を確かめるため、今夜も仕事は続くだろう。その前に朱音の言うとおり、少し休んでおこうか。体力を回復するためには睡眠が最も効果的だ。
美琴は畳の上に横になり、今度は自分の意思ではなく瞼を閉じた。




