四 異形のもの
大百足の毒液が美琴を掠めた。外れた毒の塊は近くにあった自動車を直撃し、一瞬にして腐食した鉄の残骸に変える。木久里駅の前、線路の下で美琴は戦っていた。
彼女の前に立ちはだかるは二体の大百足。線路に巻き付き、縦横無尽に動き回る二体の攻撃を避けつつ、同時に相手にするのは中々難しい。一体が囮になるようにして動き、もう一体が美琴に攻撃を行っている。
美琴が振るった刀が大百足の足を数本切り落とした。大百足の傷口から緑色の体液が撒き散らされる。しかしその直後、もう一体の大百足が背後から美琴を襲った。巨体に体当たりをされ、美琴の体が宙を飛んだ。美琴は空中で体制を立て直し、線路の上に着地する。
ここで一気に蹴りを付けることもできる。しかし、ここは妖力を解放するには周りに人が多すぎる。場合によっては更なる被害を及ぼしかねない。苦心しながら、美琴は再び大百足の攻撃を避けた。
その時、誰か女性の声が夜の暗闇に響いた。
「美琴様!」
朱音の声だ。線路の上に飛び上がると同時に、朱音が自分の髪を縛っている紐を解く。縛りを解かれた長い髪が夜空に拡散し、その先が針のように鋭く変化する。そのまま髪が一気に弾丸のように伸び、雨のように大百足を襲った。大百足の固い外殻を針が背から貫き、髪の毛の先が腹から飛び出す。
大百足が凄まじい叫び声を上げ。その体を振りまわして朱音を振り払った。朱音は空中で身を捻り、美琴のすぐ側に着地した。
「遅くなりました」
「ええ、遅刻よ」
美琴はそう言って、口元だけ笑った。傷を負っていない方の大百足が二人に突進してくる。二人がそれを避けようとした瞬間、今度は青い炎の塊が大百足を吹き飛ばした。
「只今到着しました」
良介が線路の上に姿を現した。その右手が青い炎でぼんやり光っている。そして線路の下では小町と恒が線路の方を見上げている。
「集まったわね。じゃあ良介と朱音はその小さい方を頼むわ。私は大きい方をやるから」
「了解」
「分かりました」
良介と朱音が同時に体色の薄く、小さい大百足の方に走り出した。美琴はそれを横目で確認して、巨大な大百足と対峙する。空気が漏れるような怒りの唸りを上げ、大百足が美琴を見下ろす。
「じゃあ、始めましょうか」
恒は小町とともに鉄橋の下に立ち、戦いを見守っていた。先週の鬼に続き、今度は大百足。二度目となっても、全く慣れていない。まるで映画のスクリーンを通して見ているように恒には感じられた。
「恒ちゃんは危ないからこっち!」
小町に手を引かれ、恒は駆け出して近くの建物に入った。中には誰もおらず、外と壁一枚を隔てた静寂が沈んでいる。
「美琴様は、どうして戦ってるの?」
恒が尋ねると、小町は言う。
「それが、あの方の仕事やから。死神っていう種族はね、元々そういう宿命を持っているらしいんやけど、あの方はもっと特別やね」
「宿命?」
「私の口からはあんまり言えへんよ。でもね、あの方は私たち妖怪が、そして人間たちが平和に暮らせるように戦っているのは確かやから」
それが今の恒に与えられた答えだった。コンクリートの壁の向こうでは、まだ戦いは続いている。
薄い体色の大百足が良介に向かって緑色の毒液を吐いた。だが良介は逃げようともせず、その液体の塊に右手を掲げる。途端に毒液が空中で蒸発した。妖力によって作られた熱が毒液を襲ったのだ。その蒸気に大百足が一瞬怯む。それを見て良介が叫ぶ。
「朱音、今だ!」
朱音が大百足の背後に回った。大百足がそれに気付いて尾部を振り回すが、朱音は地面を蹴って跳び上がり、その攻撃を避けた。そのまま髪に妖力を集中させ、鋼のごとく硬質化させる。一本一本が自由に動き、曲がる弾丸と化した髪の毛が風を切って伸び、大百足を背後から突き刺した。大百足は金属音のような悲鳴を上げ、地面に倒れ込む。
「やりましたか?」
「いや、まだ生きている」
朱音の問いに、良介が答えた。体から緑色の体液を傷口から垂れ流しながら、大百足はその複数個の目で、二人のことを恨めしそうに見つめている。もう動くことはできそうもないが、怒りと怨みだけはひしひしと感じられた。その負の感情だけがこの怪物の命を繋ぎ止めているようだった。
良介は静かに大百足の方に手を掲げると、妖力を放出した。空中を妖力が伝わり、大百足の外殻に当たって発火する。
一瞬にして大百足の体が青い炎に包まれた。大百足は断末魔の叫びを上げ、最後に怒りの咆哮を上げた。そして、灰だけが残った。
良介、朱音が戦っているその頃、美琴も戦っていた。大百足の突進を横に避け、近くのビル壁を蹴って跳び上がる。
戦っている間も、大百足の激しい憤怒は伝わってきた。森を壊され、住処を燃やされ、子供を奪われ、やっと辿り着いた平和な眠りを妨げられた妖の怒り。だがその復讐を野放しにする訳にはいかなかった。そろそろ決着を付ける時だ。
大百足が頭部を曲げ、再び美琴の方に突進した。空中で十メートルを超える巨体の体当たりを受け、美琴の体がさらに上に飛ばされる。
美琴は両手にしっかりと太刀を握った。刀身が紫色の妖気を帯びる。大百足は尚も体を伸ばし、美琴を追ってくる。美琴は刀を頭上に掲げると、大百足の頭部を正面に、一気に振り下ろした。
刀に通った妖力が斬撃となって放出され、大百足を襲った。三日月状の紫の刃がその頭部を縦に切り裂き、それに体が続いた。細長い二つの亡骸と化した大百足が線路から落ち、地面に沈む。その体はもうピクリとも動かない。ただ緑の体液を流し、妖気を散らばすだけだった。
美琴は地面に降り立ち、その死骸を見つめた。心の中で黙祷を捧げる。数百年の時を経て、彼らは平穏を手に入れることができたのだろうか。
顔を上げると、朱音と良介の姿が見えた。彼らも終わったようだ。
「美琴様!」
小町と恒が走って来る。近くで見ていたようだが、怪我は負っていないようだ。続いて朱音と良介が下りてくる。全員無事だ。
「良介、頼むわ」
良介は頷いて、真っ二つになった大百足の死骸に妖力の火を放つ。大百足の亡骸は青い炎に包まれ、朽ちて行く。命を手放した後になってまで、その憐れな姿を人の前に晒して置きたくはなかった。彼らが何よりも憎んだ人間たちに。
しばしの沈黙があった。誰も口を開かなかった。そのうちに、危険が去ったことを察知したのか、人間たちが少しずつ隠れていた建物から出てきた。
「お姉ちゃん!」
美琴が大百足から救った少女が、美琴たちに向かって走り出そうとした。だが、その少女の手を母親と思しき女性がぐっと掴んだ。彼女は、美琴たちの方に恐怖と嫌悪の入り混じった視線を投げかけている。
事件が終わったのを察して、人間たちが建物から出て来る。彼らの目は、死体以外で唯一外に出ていた美琴たち五人に向けられている。奇異なものを見る目だ。
美琴は建物の中から出てくる人間たちを見返した。その中の何人かが美琴たち五人を指差して、叫ぶ。
「化け物だ!」
多分、この戦いを見ていたのだろう。彼らにとってはあの大百足も、それを殺すものも怪物には変わりはない。一人驚いている恒を除き、美琴たちはそのような言葉には慣れていた。人間と妖怪、その溝は時代を経るにつれて深くなって来ている。人の世界から闇は薄れてしまった。
信じられないといった顔で、恒が呟く。
「化け物って……、、美琴様たちは助けたんでしょう?」
「大丈夫よ。どうせ明日には私たちのことなんて忘れているから」
美琴はそう言って、歩き出した。家はここではない、黄泉国だ。暗い夜空を背に、美琴たちはその場を去った。
翌朝、黄泉国。また、いつものような毎日が始まった。良介が朝食を準備し、朱音が洗濯をし、恒は学校の準備をする。美琴が居間で待っていると、皆が集まり、朝食が始まる。恒は昨日のことを気にしているのか、口数が少ない。無理もない。彼には慣れないことだ。
「昨日の事件、どうなってるんでしょう」
恒が独り言のように呟いた。あれだけの被害を出した事件だ。しかも、多くの者に妖怪が目撃されている。気になるの仕方がない。
「ニュースでも見てみる?」
美琴はそう言って、リモコンの電源ボタンを押した。ブラウン管のテレビに、除々にニュースキャスターの姿が現れる。そのテロップに映るのは、「木久里駅前でテロ事件」
アナウンサーが話す内容も、ひとつも大百足のことには触れない。まるで大百足という生物はいなかったことにされている。
「そんな、あんなに目撃者がいたのに。それに、死体も」
恒が驚いたように声をあげた。それをなだめるように、良介が声を出す。
「まあこんなもんさ、恒ちゃん。現在の日本で妖怪を見たなんて話しても信じる人間はいないよ。目撃者は集団幻覚を見たかなんかで片付けられて、都市伝説になるのがせいぜいさ」
恒は納得のいかなそうな顔で俯いていたが、そこに美琴が口を挟んだ。
「人間の世界で起きた妖怪の事件は、決して広まってはいけないの。それが原因で今まで多くの争いが起きて来たから。だから、ああいった事件が起きた場合、人の記憶を混乱させたり、証拠となるものを回収したりするものたちがいて、働いているの。昨日の事件もそう。そうしないと、私たちの存在がばれてしまうから。分かった?」
恒は頷く。しかしまだ納得の行く表情はしていない。
「なんで、昨日の人たちは僕らのことを化けものなんて言ったのでしょう」
美琴は恒の様子を一瞥して、答えた。
「私たちはね、自分たちのことを異形のものと呼んでいるの」
恒が美琴の方を見た。美琴が続ける。
「簡単なことよ。人は自分たちの知らないものは認めようとしない。自分たちと同じように知識を持っていて、社会を営んでいるものたちをね。だから本当にそれらと出会った時、彼らは私たちを恐れる。世界の支配者である自分たちの立場が、揺らいでしまうかもしれないから」
美琴はそこで一度、言葉を区切り、息を吐いた。
「そうやってかつて、私たちのようなものは迫害されて、人間界から追放された。だから私たちは、さっき言ったように自分たちの存在を人の世界から隠すの。彼らの認識の外にいなければ、私たちは生きていけなかったからね。そして、そういった人間の世界から疎外されたものを、私たちは異形のものと呼ぶようになった。それぞれが異なった形をしたものたちという意味を込めてね。もちろん、その裏には人間とは違うものという意味があるのだけれどね」
「そうですか……」
恒はそう言ったきり、黙々と朝食を食べ始めた。今まで人間として育ってきた彼には、昨日の出来事が気にかかるのだろう。人間と異形の関係を彼はまだ知らない。
「ほら、恒さん、時間がありませんよ」
朱音が時計を見て言った。恒も時計を見て、慌てて飯を口にかき込む。そして食べ終わると、鞄を掴んで立ち上がった。
「すいません、行ってきます」
恒が廊下を走っていく音が響いて、やがて消えた。美琴も食事を終え、朱音と良介が食器を片付け始める。
「美琴様、恒ちゃんはどう考えるでしょうね」
良介が言った。
「それは、恒が自分の中で片づけること。私たちが何か言っても仕方がないから。さて、私は最後の仕上げに行って来るわ」
そう言って、美琴は立ち上がった。緩やかな足取りで、廊下に出る。
「行ってらっしゃいませ」
良介に見送られ、美琴は屋敷を出た。彼女の心情とは裏腹に、太陽が眩しいぐらいに晴れていて、彼女は目を細めた。空は透き通るように青い。美琴はしばらく空を眺めてから裏庭を横切り、門を通って人間界へ下る。そのまましばらく歩き、彼女はあの大百足が封印されていた森へと向かった。今朝はまだ工事が始まっていないのか、木々は静かに風に揺れている。
美琴はあの壊れた祠の前で立ち止まると、しばらくそれを眺めていた。人が利便性や娯楽を求めすぎた結果、住処を奪われたり、封印を解かれてしまった妖怪はたくさんいる。人は、もっと考えなければならぬことがある。この森にも、多くの命が住んでいただろうに。
美琴はそっと祠に手を向けると、開いていた指を静かに握った。その瞬間、一瞬祠の上の空間が歪み、元に戻った。開かれた異界との境界を彼女は閉じたのだ。これで人間にこの異界が見つかることは無い。
「今度は、ゆっくり眠りなさい」
美琴はもうそこにはいない大百足に向かって呟いた。あの世というものが本当にあるかは分からないが、もしあるのならば今度こそ子供たちとの平穏な暮らしを手に入れて欲しい。心から美琴はそう願った。
恒に話したように、異形とは人間界から疎外されるものたちだ。しかし、美琴には均質化し、平準化していく人間の世界が好きになれないのも確かだった。多くの異形もそうした人間界と人間に愛想を尽かし、また迫害されて異界へと住処を求めた。
遠くから、朝の澄んだ空気を壊すような機械音と、木々が倒れる音が聞こえて来た。どうやら今日もまた工事が始まったらしい。昨日の事件とこの森の工事が繋がっているなど、考える者はいないのだろう。人は、いつからか妖怪や幽霊など、異形のものの存在を忘れてしまった。そうして、人が異形の領域を侵し、また異形と人との衝突が起こるのだ。これまでもそうだったように。
美琴は浅いため息をついて、空を見上げた。千切れ千切れに雲が浮かぶ水色の空の下、春風が少女の髪を揺らす。
人間と異形、それは互いに分かり合える存在になるときが来ると、いつかそんなことを言った妖がいた。その言葉がいつか本当になることを信じていたい。
異界と人間界、彼らはそうした境界により隔絶された世界に住んでいる。しかし、互いに近付くことができる可能性は無ではないだろう。人間界の空がこうして青いように、異界の空も青いのだから。
異形紹介
・大百足
その名の通り巨大な百足の姿をした妖怪。蛇や龍の天敵とされる。
大百足にまつわる話としては、龍神や蛇神が人間に助っ人を頼み、大百足を退治させるというものが多い。これは、大百足の弱点が人の唾液だからである。
有名なものは平安時代の藤原秀郷の百足退治伝説であるが、ここでは橋に寝そべり人々の通行を遮断していた大蛇の上を、秀郷が堂々と通ったことからその豪気さを買われ、大蛇が秀郷に天敵である大百足の退治を依頼するという流れになっている。ここでは大百足は矢尻に唾を付けた矢によって射抜かれることにより倒されている。この話では大百足は近江国(滋賀県)の三上山にいたとされているが、『日光山縁起』や『二荒山神伝』では赤城山(群馬県)の百足の神と男体山(栃木県)の蛇の神が争い、百足の神は小野猿麻呂という人間に左目を射られて殺されたとされる伝承もある。
また、石川県にある二つの島のそれぞれの神である大蛇と大百足が戦い、人間が大蛇に加勢したことで大蛇が勝利したという話も残っている。
この話で神とされているように、大百足は妖怪ではなく毘沙門天の使いとされることもあり、神聖視もされていたようだ。
百足が蛇や龍に強いのは元々は中国の伝承であり、その足の数に所以すると考えられている。同じように細長い蛇と百足では、足の数が多い百足の方が強いと考えられていたらしい。 また『五雑組』という中国の文献においては百足は一尺(約30cm)にもなると空を飛び、龍がこれを恐れて雷で撃ち落とすという記述が見られる。




