第1話 失敗作の黒騎士と未来を視る少女
ある平行世界に、ローズ帝国という国があった。
その帝国を治める若き皇帝がローゼス、その右腕を務める騎士がアルファである。
ローゼスは金髪碧眼の青年だった。皇帝というより、まだ皇太子と呼んだ方が似合うほど若い。年の頃は二十歳前後。目鼻立ちの整った美男子で、長い手足を少し持て余すようにしている。
身にまとうのは、白を基調として金糸をあしらった豪華な衣装だ。
だが、その若さや華美な装いに反して、ローゼスは賢帝だった。愚帝と呼ばれた先代皇帝が残した負債を、即位以来、休むことなく処理し続けている。
対するアルファは、髪も瞳も黒曜石のように黒い。黒地に銀糸をあしらった騎士礼装に身を包み、彼もまたローゼスと同じ年頃の青年だった。
ローズ帝国では数日後に、先代皇帝が長らく拒み続けてきた条約が結ばれようとしていた。
相手は、水運と治水に優れた、水辺の大国《アヒル帝国》
ローズ帝国側はそれを「友好条約」と呼び、アヒル帝国側は「友達条約」と呼んでいる。微妙なずれではあるが、両国の官僚たちの頭を大いに悩ませていた。
「のう、我が騎士よ」
「何でしょう、皇帝陛下」
玉座の間。
玉座に腰かけ、だらしなく笑うローゼスに対し、その斜め後ろに立つアルファは、どこまでも堅苦しい態度で応えた。
それが気に入らなかったらしく、ローゼスは声を荒らげる。
「その態度はやめいと言っておるだろうが!」
「あなた様は皇帝になられたのです。一臣下がへりくだることの何が気に入りませんか」
「お前は余の側近中の側近だ。しかも今は二人きりではないか。……それに、余が皇帝の座につけたのは、お前のおかげだろう」
「……だからといって、僕が偉くなったわけではありませんよ。陛下」
広大な帝国を治めるローゼスにとって、飾らずに話せる相手はほとんどいない。
彼が一言発すれば、それは皇帝の言葉として帝国中を駆け巡る。ローゼス自身、その重さをよく理解していた。
だからこそ、皇帝ではなく、一人の青年ローゼスとして振る舞える相手は貴重だった。
アルファにも同じように接してほしい。
だが、そうはいかない。
アルファにとって、ローゼスは友である前に皇帝だった。二人の身分には、決して無視できない隔たりがある。
「……まあよい。それより、街で面白そうな話を聞いたのだ」
「街って、またお忍びで出かけられたのですか!? お願いですから、せめて僕を護衛に――」
「ええい、うるさい! 最近、巷で評判の教団があるらしいではないか」
「ああ、箱舟教団ですね」
「そうだ。しかも、そいつらは『大洪水によって帝国は滅びる』『異種族と手を結ぶ皇帝は偽物だ』と言いふらしているそうではないか」
ローゼスの顔から笑みが消えた。
「信仰を理由に潰すつもりはない。だが、民を騙し、条約を血で汚すというなら話は別だ。調査し、必要とあらば――潰せ」
「予言者はどうしますか」
「判断はお前に任せる。だが、可能な限り生け捕りにしろ」
◆◆◆
玉座の間を出た途端、アルファはため息をのみ込んだ。
宮殿の廊下を歩く彼へ、嫌な視線が集まる。
いつものことだ。気にするほどでもない。
聞こえてくる悪口も、誰が言っているのかも、だいたい分かっていた。
魔力の少ない出来損ない。
皇位継承権を失った皇太子を帝位につけた簒奪者。
騎士でありながら、人を斬ることを嫌がる臆病者。
自室へ戻ったアルファは騎士礼装を脱ぎ、黒いシャツと同色のスラックスに着替えた。
宮殿の外へ出る頃には、辺りはすっかり日が暮れていた。
夜空には、満月に近い月が浮かんでいる。
表情などあるはずもない。それでもアルファには、月がじっと自分を見下ろし、何かを期待しているように感じられた。
見守られているというより、あるべき場所へ戻ることを求められているような、息苦しい視線だった。
この国では、あの月は不安の象徴とされている。
今は穏やかに見えても、いつ不吉な顔へ変わるか分からない。
そう考えると、期待のまなざしを向けられても、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
「はあ、やれやれ」
闇に紛れるような服装で、アルファは一本のキセルに火を入れた。
その煙には、彼の姿だけでなく、声や気配さえ認識しづらくする「認識疎外」の魔術が込められている。
アルファが煙を吸い込むと、魔力が肺を満たし、全身へ染み渡っていくのが分かった。
(陛下はいつも急だ。だが……)
国家に二つの権威が並び立つ事態は、避けなければならない。
それでは、粛清と暗殺と復讐にまみれた先代皇帝の時代へ逆戻りだ。
あの日々に安息などなかった。
民たちの目に絶望が浮かんでいたことを、アルファは今も忘れられない。
ようやく手に入れた平穏も、これほど大きな火種を放置すれば、簡単に崩れ去る。
そうはさせない。
ローゼスの理想を実現するため、アルファはキセルをくわえたまま、箱舟教団本部へ向かった。
ほどなく本部にたどり着いたアルファは、外壁を乗り越えて敷地内へ侵入した。
(……?)
侵入してすぐ、違和感を覚えた。
認識疎外の術を使っているとはいえ、あまりにも守りが手薄だった。
壁を越えても警報一つ鳴らない。
その警備の甘さに呆れながらも、アルファはかえって警戒を強めた。
建物の至るところに、明日の条約を呪う言葉が書き殴られている。
『アヒルと友になる帝国は沈む』
別の部屋には、到底完成しそうにない箱舟の設計図と、大量の木材や食料が集められていた。
そこにも、あまりに簡単に侵入できた。
(妙だな。まるで守る気がない)
この教団に、教祖とは別の「予言者」がいることを、アルファはすでに知っていた。
ローゼスから命令が下る以前から、教団が皇帝の脅威となり得るか調べていたからだ。
調査の結果、教祖は権力欲に取りつかれただけの愚物であり、むしろ正体不明の予言者の方が、教団内で強い信仰を集めていることが分かっていた。
だが、予言者は決して人前に姿を現さない。
手がかりは、わずかな証言と一枚の似顔絵だけだった。
だからこそ、アルファは自ら侵入する必要があった。
(やはり妙だ。……誘い込まれている?)
これほどの規模の教団なら、警備が厳重であって当然だ。
ましてや、教祖以上に信仰を集める予言者がいるなら、なおさらである。
それにもかかわらず、この教団全体が両腕を広げ、誰かが来るのを待ち構えているようだった。
至るところに抜け道があり、警備は基本的にずさんだ。
その一方で、突然、妙に警備の厳しい区画が現れる。
そこを避けて進むうち、アルファは地下へ、さらに地下へと導かれていた。
かび臭い階段を下りた先には、古びた牢屋がいくつも並んでいた。
(……ん?)
一番奥の牢屋に、人影があった。
アルファは警戒し、口にくわえていたキセルを外す。火が消えていることを確かめると、スラックスのポケットへ収めた。
身につけている限り、認識疎外の術は持続する。
(こいつは……)
牢屋へ近づくと、人影の正体が見えてきた。
今どき奴隷でも着ないような、ぼろ布同然のワンピースをまとった少女だった。
調査資料によれば、似顔絵の少女は十八歳。
だが、目の前の少女は小柄で、ひどく痩せている。十六歳ほどにしか見えなかった。
鉄格子に開いた小さな窓から、彼女は月を見上げていた。
腰を越えるほど長い髪は、月明かりを受けて銀色に輝いている。手入れなどされていないはずなのに、その髪は不思議なほど美しかった。
神秘的な後ろ姿に、アルファは思わず目を奪われる。
「…………」
やがて少女が振り返った。
こちらを見たようにも思えたが、瞳の焦点は合っていない。
その両目は、この国で魔王の象徴とされる、血のような赤だった。
「……やあ、こんばんは」
少女は妖しく笑い、アルファのいるあたりへ顔を向けた。
(認識疎外が効いていないのか?)
そんな疑問が脳裏をよぎる。
だが、少女はすぐにそれを否定した。
「ああ、安心するといい。君の姿は見えていないよ。ただ、“視えて”いたんだ。君が今夜ここに来ることは」
少女は、楽しそうに目を細めた。
「だから、警備の連中も遠ざけておいた。どうせ君には敵わないだろうからね」
あの異様なほど手薄な警備は、少女が仕組んだものだったらしい。
アルファは納得すると同時に、確信する。
――未来を視るという噂は、本当だった。
――ならば、ここで殺すべきだ。
――ローゼスの脅威となる前に。
アルファは腰の鞄から、一本のナイフを静かに抜いた。
少女との間には鉄格子がある。
だが、長年放置されて錆びついた鉄など、わずかな魔力を刃へ流し込めば切断できる。
アルファは生まれつき魔力が少ない。
その代わり、このナイフには、使用者の魔力を増幅する力があった。
「ぼくを殺そうか、悩んでいるね」
少女は穏やかな声で言った。
「でも大丈夫。ぼくは君を信じている」
アルファは答えなかった。
足音さえ殺して鉄格子へ近づき、ナイフに魔力を流し込む。
刃が鉄格子を走った。
音もなく切断された鉄が、いくつもの残骸となって床へ落ちる。
アルファは牢屋の中へ入り、ゆっくりと少女へ近づいた。
それでも、少女の笑顔は崩れない。
「ああ、そこにいたのか」
少女は、嬉しそうに笑った。
「さあ、ぼくをどうするつもりだい?」
ふふふ、と嗤うその姿からは、気味が悪いほどの余裕が感じられた。
――すべて、“視られて”いる。
その感覚に、アルファは初めて恐怖した。
だが、少女にしか見えない相手を殺すことにためらいがあったのも事実だ。
未来を視る力は、使い方次第ではローゼスの役に立つ。
同時に、扱いを誤れば国を滅ぼしかねない劇薬でもある。
不意に、少女が手を伸ばした。
背伸びをしてアルファの頬へ触れ、そのままゆっくりと顔を近づけてくる。
すぐに振り払うべきだった。
だが、まるで未来を視る赤い瞳に縛られたかのように、アルファの身体は動かなかった。
「逢いたかったよ。ぼくの聖騎士様」
地下牢の小窓を、一羽の白い鳥が横切った。




