#1 失くしたものを見つけるのは難しい
失くしたものを見つけるのは難しい。
大切なものは失って初めて気づくという喪失感は多くのことを教えてくれる。
大雑把に言うと現代までのオレたち人間の社会は大切なものを失い続けた末端にある。
オレという人間の個体の多くも同様で、得るものだけを手にし続けて今に至っているなどとは誰も考えてはいないだろうし、そのことからオレたちはより良いとされる道と方法を自分への学びとしながら前へと進んでいる。
だがしかし、その学びの先に何があるのかの正解をオレたちはどう学べばいいのかを知らない。
若い頃は親や学校や社会が示す成功のためのモデルが正解で夢の物語としてあり続けてくれた。
そのことには今も昔も変わらず感謝している。
ただ、この世界の不完全な理解に基づいた正解が根本的な視野を失わせていることがある。
そのことの意味を最初に教えてくれた象徴でもあったメガネが在るはずの場所にない。
いつもと変わらないはずの朝がどこか違うという感じにはすぐに気が付いた。
部屋のガラスケースに丁重に飾っていたはずのメガネがなくなっていたのだ。
過去の栄光の集合体でもあるガラスケースはバックドア式のもので基本的に久しく開け閉めはしていないことから、普段はさして気に掛けることもない誇りと埃にまみれたオブジェ群の単なる棚に過ぎない。
だけど、本来その中で長く飾られ続けてきたメガネはいつだってその存在感をオレに示しつけてきたこともあったことから、ん”?ん”ん”!?と二度見した。
そして、三度見してなお完全にその姿を消したに等しいことを悟った。
その後、やがて現れてきた喪失感はスマホや財布、家のカギをいつどこでどう失くしたのが見当もつかないときの、あの血の気が引いていくのといっしょに希望もどこか未知の彼方へと行ってしまったかのようなパニックを予感させる種の芽吹きをオレに教えていた…
オレの悪い癖は何かがなくなるとまず誰かに盗まれたと考えようとすることだった。
でも、大概っていうか、ほとんどが自分で置いた場所を忘れているだけで誰も何もしていないのだ。
一度職場で「財布がない」と騒いで、既存社員全員の持ち物チェックをしてもらったのに、実は自分がいつもと違う場所に財布を収納してたことを自分で気づいて、それがあまりに恥ずかしくて逃げるように帰ろうとしたら仲の良い社員が帰りの電車賃をくれて、”ごめんなさい”の意味を込めた「ありがとう」を告げて逃げるように帰ったことがあったのをいつも思い出す。
そのたび、それほど世間はオレの物に興味はないし、そんなに卑しい文化ではないことを何度も再確認してるのだけど、あるはずの物がなくなるたびにオレは自分の悪い癖が顔を出す傾向はあんまりかわってないから、まずはその醜い顔をした癖に自分を疑わせることで、今の社会関係における大切な立場を守り続けることができてきた自負が少なからず有る。
だけど、今回だけは違う。
絶対にオレのせいじゃない。
なぜなら、オレは触ってないからだ。
ていうか、オレはメガネをしないからオレがわざわざガラスケースを開けてメガネを取り出すなんてこと自体、昨日どころからもう何年もしていない…
そもそも、あのメガネはむやみに触れることすらできない代物として大切に目の付く場所に保管し続けてきた物であって、メガネに触れないオレがどこかへ持ち出したという可能性と前提がない以上、失くしたというより勝手になくなった…というのが一番オレの中でしっくりくる、が正直な感想だった。
だから、絶対にルパンじゃない。
少なくとも流石にいくらなんでもオレの部屋にはルパンでも辿り着かないはず。
ただ控え目に言って、あのメガネにはルパンが狙うことを想定するだけの唯一無二の値が付けられないくらいの価値があるのは確かなのだった。
もしも、見つけられたらだが…
いわゆる、現代が生み出したオーパーツだからだ。
もはやこの時代にそぐわない代物に与えられるオーパーツという呼称に違わないあまりに特別な機能を備えたメガネをオレは預かっていた。
そう考えると、やっぱりオレの知らない所でルパンクラス以上の別格のスペシャリストが暗躍していた可能性は捨て切れないのというのがやや不気味なところではあった。
なんにせよ不気味な存在は失われてなお、奇妙な雰囲気だけを漂わせて不可解な可能性を残して消えた。
カオス的な代物が消えて変な汗をかかざるを得ない中ではあったけど、たぶんオレの想像のどれも的を外していることをオレの自我が想起させようとしていた。
オレの魂は依然として一瞬前にドクンと冷えた血液の名残の戦慄を知覚し続けていた。
けれど、あのメガネの特殊性をすでに知っているオレの思考はただそこに置かれていただけのメガネがなぜ突如として消えるように喪失してしまったのかの可能性を無視できないでいた。
あの日、あの時、あの場所で起こったことから模索することで、今その瞬間の出来事にテンパりかけているオレの心と意識に必要なことを思い起こさせようとしていた。
約7年前の話だ。
あのメガネは大学時代にある女性の学友から引き継いだものだった。
彼女はお団子頭の似合う卵型の輪郭と丸い目を普段から爛々とさせた元気溌剌系の女子で、その性格は卵型というよりラグビーボールのようにいつかどこか別世界にイレギュラーしてもおかしくないくらい変わった子だった。
少女漫画のまぁそこそこ可愛い感じの女子に囲まれてる主人公の取り巻き役を演じられるくらいには普通に可愛い。
その彼女とは偶然にも学籍番号がオレの一つ後ろで、テストや必修などの席の決まった講義ではいつもいっしょだった。
それが縁でたびたびオレが振り返っている内にそれなりに仲良くしていた。
そんな”振り向けば彼女がいた”大学三回生の冬のことだ。
その日のラグビーボールはメガネを掛けていた。
野球のトレーニングと映画と坂本龍馬にばかり時間とエネルギーを注ぎ続けて臨んだ一月の後期テストの最中でのことだった。
マズい、三年の後期でこの準備不足はマジでヤバいかもしれん…と夢オチであってほしいランク上位候補案件状態の変な汗に蒼褪めた感じがどうでも良くなる三秒前の出来事はたぶん一生忘れることはないだろう。
ジュリア・ロバーツとかキャメロン・ディアスだとかが主演を務めてそうな青春ドラマの最初のハイライトにあるようなキラキラと共に彼女が大学講堂の緩やかなスロープをゆっくりと歩いてオレの方に向かってきていた。
すると彼女は珍しくメガネをしていることに気づくとめちゃくちゃスローになったのだ。
スローというよりほぼ時間停止に等しいくらいにゆっくりと動いている彼女は自分のメガネを摘まむようにして、オレの方を見て何かを言おうとしているようだった。
まるでたらこのように豊かな彼女の唇と口角の動きが遅すぎて、声になる前の動作であるその目がオレに向かって何か伝えようとしていることだけは明らかではあったが、その気の遠くなるようなモーションにいるオレには今何の音も聞こえていないことからまるで永遠にオレは彼女のことがわからないままこんな感じなのかと思うくらいには時間の流れがおかしい時間が長く感じられていた。
すると突然「どうしたの?まるでウチに時間を止められちゃったみたいな顔して」という完全無欠の自信に満ちた真っすぐな瞳をした彼女の言葉と共に時間の流れは正常化して、講堂の静かな喧噪は何事もなかったかのように、オレの試験に向けた焦燥感も急いで戻ってくるようにしてオレは彼女のメガネに見とれていたことを思い出した。
「なんだよそれ、まずオレがお前に見とれちゃったみたいな言い方やめよーか」
「キミ、あれだけウチのこと凝視しといてつまんない嘘つくね」
「いや、どんだけ自信過剰なんだよ、ていうか”見る”にもいろいろある中で”見とれる”のワードが強すぎて、”はい見とれてました”なんて同期の女子に言えるわけねーだろが」
「やっぱり見とれとったんかーい」
「ち、ちげーし、うわー家庭教師とかやってそー、とか思ってただけだし」
「ふーん、なんで?」
「なんでって、お前こそ、そのメガネどうしたんだよ、そんなのしてきたことなかったろ?」
「うわ、マジか…」と彼女は自分の口を左手でふさぐようにして丸い目を更に見開いて驚いていた。
「は?なに?」
「ちょ、ごめん…」と、まるでオレが彼女に告白して、オレが彼女を驚かせて、オレが彼女に振られたみたいなシュチエーションだけを残してメガネをした彼女はオレの前から逃げるようにして消えた。
消えた、と言ってもオレの後ろの席についているわけだが…
それにしても…”なんだー!今のはー!!”と頭の中でオレは叫んでいた。
オレは背中越しに後ろの席についている彼女の気配を感じながら今のが何だったのかの分析を始めた。
時間止められちゃった顔に対するリアクションに”ザ・ワールド”というあまりに有名な概念を引用しなかったのが不味かったのか、見とれちゃってた事実への苦しいウソというか言い逃れが気に入らなかったのか、オレが抱いている家庭教師という響きへのちょっとした卑猥な感じを察知されてキモがられたのか、あるいはメガネのことに触れたのがそもそもアカンかったのか…
まぁ、普通に考えてメガネだよな、とか要らんことを考えさせられている内に配られたテストは思った通り、どう答えても良いようなテーマを自分なりに論じることを指示してくるものだった。
1.ナポレオンがセントヘレナ島で幽閉されなかったとしたら世界の歴史はどうなっていたのか、またどうすればナポレオンはセントヘレナ島への幽閉を避けることがきたのかを論ぜよ
2.ユナイテッドキングダムとして海洋帝国となったイギリスがかつてのローマやモンゴルのような統一国家型の帝国を目指さなかったのかを述べつつ、もしも近代産業を先駆けていたイギリスが世界支配を掲げていたらどんな世界になっていたのかを論ぜよ
3.現代までのすべての国家の歴史には多くの英雄によって築かれてきましたが、もしも今の世界情勢で現れるべき英雄が求められるとしたらどんな人物であるべきなのかを述べよ、またその英雄たるべき業績とその功績が現代社会の未来をどのように導こうとしているのかを論ぜよ
4.現在の地球で生きている人間の今が遠い未来の人類にとってどんな存在でどんな価値を見出されているのかの時代将来の背景とそれを担っているであろう人間像を論ぜよ
5.西洋史は古代オリエントを始まりとしながらもそれ以前の文明があったとしたらどんなものであったのかを論ぜよ。
ん?と思う問いかけもあるが、いかにも近代西洋史のあの教授らしい出題だった。
彼は最初の授業で西洋史に関する歴史上の人物に関する著書の論評を原稿用紙五〇枚以上で提出せよという、本を読む、引用を用いる、論文化するという最も面倒にして厄介な課題をオレたちに求めてきたことがあった。
ただでさえ、野球の練習と映画や小説の研究で忙しくしている中で時間のかかる課題を課してくるとか鬼畜の所業としか思えなかったが、オレが尊敬する考古学者であるハインリヒ・シュリーマンの偉業についての感想文のようなものを提出したらA評価をくれたのだ。
他の学生が軒並みCとかDの烙印がいかにして面白くないかの講義が展開される中、どうやらオレのシュリーマン像と個人的な人間関係のエピソードを交えて字数を稼いで綴った文章が教授に刺さったらしく、「人生とは自由であるべきことがこの学生のシュリーマンへの理解に込められていて面白かった」という旨を評価してくれてオレは彼のことがとても好きになった。
好きと言っても、あくまで一般教養という枠の中での教授にしては、という意味だ。
食べ物の中で何が一番好き?とかいう幼稚園児みたいな話題を好む女子が未だにいるのホントやめてほしい。
野菜と肉とお菓子は大まかに言ったら全部食べ物だけど、ジャンルが全然違うんだからもうちょっと投げる球の質を考えて言葉にしようかみたいな返球したら逆に不機嫌になって、しゃべんのやめてどっか行っちゃうのとかホントわけわからんことを考慮すると、まだ一本筋の通った西洋史の教授の方がそこら辺でブリブリケツ振ってテレビ番組のアイドル並みの待遇をオレたち男子に期待する一般女子よりも可愛いのかもしれんみたいなことを考えている内にテストは終わった。
まぁ、想定通り、特別な知識がなくても大丈夫な感じだったし、あの教授の評価は独特で厳しいことで有名だけど、自分なりのロジックを示しさえすればD評価にはしないだろと安堵することができていると、次の問題の方からオレが考えるよりも前に追いかけてきてくれた。
「ねぇ、このあとまだ何かあるの?」とメガネの彼女は挑発的なオーラを隠そうとすることなく再び現れたのだった。




