第28話 空席の支配者
「……なあ」
圭が、遠慮がちに口を開いた。
戦闘の余韻がまだ残る中で、声を出すこと自体に慎重になっているようだった。
「まだ、そこにいるよな」
視線の先。
ガードレールにもたれかかり、交差点を眺めている男がいる。
先ほどまでの激しい戦闘が嘘だったかのように、静かな佇まい。
夕方の光を背に受け、影が長く伸びている。
その姿は、風景に溶け込みながらも、不思議なほど輪郭を失っていなかった。
男は、千聖たちの視線に気づいた。
ゆっくりと顔を上げる。
焦りも、敵意もない。
ただ、確かめるような目。
「昔、その少女に救われたんだ」
静かな声だった。
独白のようでもあり、報告のようでもある。
男は、千聖を見ている。
まっすぐに。
逃げ場を与えない視線。
千聖は、思わず息を呑んだ。
胸の奥が、かすかにざわつく。
知らないはずの相手。
だが、どこかで触れた記憶が、わずかに揺れている。
思い出せない。
しかし、無関係とも言い切れない。
そんな感覚。
男は、続ける。
「昔、ここで――」
足元の白線を見る。
横断歩道の、かすれた塗装。
「終わろうとしていた」
その言葉は、淡々としていた。
だが。
重みは、はっきりとあった。
「自分で命を絶とうとしていた」
圭が、反射的に声を上げる。
「……え?」
一瞬遅れて。
「それって……」
言葉が続かない。
海音も、表情を引き締めている。
軽口を挟む気配はない。
男は、肩をすくめる。
「詳しく話すと長くなる」
「だが、必要な部分だけ話そう」
口調は、簡潔だった。
感情を誇張しない。
だが、事実を削りもしない。
「俺は、観測者に創られた」
その一文で。
空気が変わった。
圭の眉が、はっきりと寄る。
「……創られた?」
「人体錬成」
男は、即答する。
説明というより、用語の提示。
「人間を生み出し」
「精神を乗っ取る技術だ」
海音が、小さく息を吸う。
「……最悪だね」
短い評価。
だが、感情は十分に込められていた。
男は、自分のこめかみを指で軽く叩く。
「だが、俺は乗っ取られなかった」
淡々と。
「理由は単純だ」
「生まれつき、能力を持っていた」
千聖の背筋が、ひやりと冷える。
「……どんな」
問いが、自然に出た。
男は答える。
ためらいなく。
「“神を監視る”能力」
静寂。
交差点の音が、急に遠く感じられた。
「神の行動を記録する」
「逸脱を検出する」
「異常を報告する」
一つずつ。
機械の仕様書のように。
「それが、俺の役割だった」
そして。
少しだけ笑う。
皮肉の混じった笑み。
「だが同時に」
「観測者にとっては、制御不能な失敗作でもあった」
言葉は、乾いていた。
「排除しようとした」
「何度も、何度も」
「だが、できなかった」
それだけで。
どれほど異常な存在かが、理解できた。
沈黙が落ちる。
男は、続ける。
「だから、世界に放り出された」
事実を告げる声。
「役割なし」
「居場所なし」
「監視対象でもない」
少しだけ間を置く。
「――空席としてな」
その言葉が。
妙に、重く残った。
圭が、拳を握る。
「……それで」
声が低くなる。
「昔、ここで」
男は、足元を見る。
白線。
横断歩道。
日常の象徴。
「終わろうとした」
短い文。
だが、確定した意思が含まれている。
「未来も」
「役割も」
「理由も」
「何もなかったから」
千聖の胸が、強く脈打つ。
鼓動が、耳の奥で響く。
「でも」
男は、顔を上げる。
千聖を見る。
まっすぐに。
「お前が言った」
声が、少しだけ柔らぐ。
わずかに。
本当に、わずかに。
人間らしくなる。
――あなたはここで終わっていい存在なんかじゃない。
言葉が、記憶の中で響く。
千聖の喉が鳴る。
「……言った、かも」
自信のない声。
だが。
男は、迷わない。
「言った」
断言。
「お前は、俺を必要だと言った」
「観測者からも」
「世界からも」
「不要だと切り離された俺を」
ゆっくり。
一語ずつ。
「終わっていい存在なんかじゃない」
「そう言った」
静寂。
夕方の風が、わずかに吹く。
「その一言で」
男は、空を見上げる。
雲が、ゆっくり流れている。
「俺は救われた」
誇張のない声。
だが、否定もできない重さ。
「正解でもない」
「理由でもない」
「理屈でもない」
そして。
「選択だった」
その言葉が。
まっすぐ千聖の胸に届いた。
選択。
さっき、自分が掴んだ感覚。
同じもの。
「だから今度は」
男は言う。
「俺が、観る側に回る」
静かな宣言。
「お前たちが」
「どんな物語を作るのか」
「終わらせはしない」
「だが」
少しだけ、口元が上がる。
「導きもしない」
監視者の論理。
だが、敵ではない。
観客でもない。
――証人。
その立ち位置が、はっきりした気がした。
千聖は、深く息を吸った。
肺の奥まで、空気を満たす。
「……ありがとう」
自然に出た言葉。
男は、肩をすくめる。
「借りは、返しただろ」
「ううん」
千聖は、首を振る。
はっきりと。
「これから、返す」
その言葉に。
男は、目を細めた。
「いい顔だ」
短い評価。
だが。
確かな承認。
「名前、聞いてもいい?」
「……零座だ」
「そう」
夕暮れが、交差点を染めていく。
空は、群青から橙へ。
影は長く伸び。
世界は静かに、次の時間へ移ろうとしている。
千聖は、その景色の中で。
はっきりと感じていた。
未来は、もう一本ではない。
正解は、誰かが決めるものでもない。
(……でも)
(だからこそ)
心の中で、言葉が形になる。
迷いはある。
不安もある。
だが。
それでも。
「私が、選ぶ」
小さく。
しかし、確実に。
「行こう」
千聖は言った。
「次の舞台へ」
海音が、笑う。
「いいね」
短い肯定。
圭が、頷く。
無言で。
だが、迷いなく。
男は、背を向ける。
歩き出す。
そして。
片手を軽く振る。
「鑑賞は続ける」
振り返らない。
「主役の物語ってやつをな」
三人は、歩き出す。
信号が変わる。
人波に紛れ。
交差点を渡る。
世界は、まだ不条理だ。
観測者は、完全に消えたわけではない。
揺らぎも、例外も、危険も。
これからも存在する。
それでも。
千聖は、前に立つ。
裏方ではない。
象徴でもない。
偶像でもない。
選び、迷い、責任を引き受ける存在として。
未成立のまま。
無数の可能性を抱えて。
話のキリが良いので、これより一時連載休止しようと思います。「未来が視える女神様」をご一読くださいまして、誠にありがとうございました




