第22話 理不尽
世界は、静かに歪んでいた。
音もなく、しかし確実に、何かがずれている。
目に見えない力が、現実そのものをわずかに押し曲げているかのようだった。
河川敷から続く交差点。
昼でも夜でもない、曖昧な時間帯の空気がそこに停滞している。
信号機は規則正しく動いているが、風はある一点で失速している。
進もうとしたはずの流れが、まるで見えない壁にぶつかったかのように、その場で途切れていた。
時間停止ではない。次の瞬間が、削除されている。
連続しているはずの時間の列が、途中から欠け落ちている。
千聖は足を止めた。
靴底がアスファルトに触れたまま、動こうとしない。
直感が、警鐘を鳴らしていた。
(……来てる)
未来が視えないのではない。未来そのものが成立していない。
存在するはずの「結果」が、最初から用意されていない。
原因だけが残り、結末が欠けている。
圭も、海音も、同じ違和感を覚えていた。
言葉にしなくても分かる。
三人の間に、共通の緊張が走っていた。
空間の中心に、影が落ちる。
太陽も照明もないのに、そこだけが暗く沈む。
人の形をしているが、人ではない。意思を持つ存在でもない。
そこに「誰か」が立っているのではない。
構造そのものが、そこに在る。
『――観測対象、確定』
無機質な声。
抑揚も、温度も、感情もない。
ただ結果だけを告げる、装置のような音だった。
『被験体三名』
『環境干渉下における反応を測定』
淡々とした宣告。
そこには敵意すら存在しない。
海音が、思わず吐き捨てる。
声には怒りが滲んでいた。
「……人を、物みたいに」
「私たち、モルモットになった覚えなんてないんだけど」
『定義通り』
その返答は、あまりにも簡潔だった。
否定も、説明もない。
ただ、そうであるという事実だけを突きつける。
瞬間、世界が閉じた。
上下が潰れ、奥行きが圧縮される。
視界の端が歪み、遠近感が崩壊する。
交差点は、逃げ場のない“実験箱”へと変わる。
透明な壁に囲まれたような、閉塞感。
千聖は即座に能力を起動した。
思考よりも早く、身体が反応する。
――時間停止。
世界が凍る。
音が止まり、粒子が静止し、空気が固まる。
時間そのものが、完全に封じられた。
だが。
それでも、観測者は動いていた。
止まったはずの世界の中で、
ただ一つだけ、平然と。
『時間干渉、確認』
『干渉対象外』
『時間干渉権保有、確認』
千聖の喉が、ひくりと鳴る。
無意識のうちに、呼吸が浅くなっていた。
(……効かない)
確信に近い恐怖が、胸の奥で膨らむ。
触手のような、歪みが生まれる。
空間がねじれ、細い線が無数に伸びる。
未来線が三人を切り裂くように走った。
まるで、結末そのものが刃物になったかのように。
圭が前に出る。
躊躇はあった。
だが、それでも足は止まらない。
「……否定」
一つ、歪みが消える。
存在していたはずの危険が、最初からなかったかのように消滅した。
だが直後、十の歪みが生成された。
数が増える。
質が上がる。
まるで対応そのものが、次の攻撃条件になったかのように。
『否定能力』
『再現性あり』
『有効範囲、限定的』
解析する声に、感情はない。
ただ観察し、記録し、更新するだけ。
海音が踏み込む。
舞台に立つ時と同じ、迷いのない動き。
覚悟が、その一歩に宿っていた。
――だが床が、消えた。
「っ……!」
足が空を切る。
支えるはずの地面が、存在そのものを失う。
「海音!」
千聖が叫ぶが、距離が歪んでいる。
伸ばした手は、届かない。
近いはずなのに、遠い。
空間が、嘘をついている。
圭の足に、色々な可能性の集合、
――未来線が絡みつく。
逃げ場を塞ぐように、幾重にも重なっていく。
否定しようとした瞬間、否定の対象が書き換えられる。
未来ではなく、圭自身の“位置”。
「……くそっ」
体勢が崩れる。
重力の方向すら、信用できない。
千聖は歯を食いしばった。
(未来視……)
一瞬、視ようとして、理解する。
視た瞬間に、排除される。
選んだ瞬間に、無効化される。
――どの未来も、排除される。
『結論』
『被験体、環境適応失敗』
観測者が、一歩近づいた気がした。
音も振動もない。
ただ、存在が近づいてくる。
圧ではない。
殺意でもない。
処理が近づいてくる感覚。
不要なデータが削除される直前の、冷たい予感。
世界が、削られ始める。
千聖の視界が欠ける。
色が薄れ、輪郭が崩れ、存在が削り取られていく。
音が遠のいていく。
自分の輪郭が、薄れていく。
(……やだ)
純粋な恐怖が湧いた。
理由も理屈もない。
ただ消えたくないという、本能的な拒絶。
圭が必死に否定を重ねる。
息を切らしながら、何度も、何度も。
だが。
否定が、否定される。
『否定能力』
『環境上書きにより、無効化』
完全な袋小路。
逃げ道はない。
選択肢もない。
終わり。
――誰もが、そう思ったその刹那。
観測者の処理が、止まった。
地面に床ができ、圭を攻撃するはずの未来線も消えた。
『……』
初めて生じる、演算の空白。
観測者でも固定できなかった、例外。
実験箱の外側。その“壁”の、さらに向こう。
カッカッと、硬い靴音がした。
この世界では、あり得ない音。
「……借りがある」
若い男の声。
淡々としている。
「彼女が、俺を終わらせなかった」
男は、観測者を見ていない。
ただ、交差点の白線を見ている。
「だから次は」
顔を上げ、観測者を見る。
「俺が“終わらせない”」
『未登録個体』
『観測不能』
「未登録?ふざけるな。」
「お前らが産み出したくせに」
男の漆黒の瞳孔が観測者を睨みつけ、ギロリと揺れる。
初めて、観測者の演算が明確に乱れる。
男は、ちらと千聖に視線を送った上で、観測者へ言葉を投げる。
「実験は、もう成立しない」
「いや、成立させない」
『……何故』
男が一歩、踏み出す。
「俺が結果と成るからだ」
それの一挙一動で、未来線が崩壊した。
因果も、干渉も、理由もない。
観測不能。
『……仮説修正』
『実験失敗』
冷酷な結論。
だが、男は静かに否定する。
「違う」
「失敗は」
淡々と。
「最初からだ」
「お前たちは、初めから間違っているんだよ」
世界が軋む。
実験箱に、亀裂が入る。
それでも、観測者は記録を残す。
『例外指定』
『再現不可』
観測者は続ける。
『……しかし、非常に興味深い』
『ーー戦闘プログラム、起動』
『戦闘、解析、及びデータ採取、開始。』
容赦無く時空の歪みが千聖たちに襲いかかる。
地面の底が抜ける。
ーーカツン。
男が、革靴を鳴らす。
それだけで、観測者の干渉が打ち消された。
「最高状態の彼らを解析しないと意味ないんじゃないのか?また例外だのなんだ言う羽目になるぞ」
男は観測者にそう告げ、観測者は納得したように攻撃の手を止めた。
「ほら、舞台は整えたから」
「好きなようにやってみるといい」
「俺は、君たちを”終わらせない”」




