第21話 ズレる場所
ある晴れた土曜の朝。
久しぶりに一日オフの海音は、ケースからバスクラリネットを取り出し、柔らかな布で、丁寧に表面を拭いた。
指先でそっとなぞるように、一本一本のキーを確認する。
「……久しぶりだね」
誰に聞かせるでもない、小さな声。
それでも、どこか照れくさそうに笑う。
キーはピンクゴールド。
ベルはインナーピンクゴールド。
海音の好みに合わせた、特注品だ。
舞台用に誂えたわけでも、仕事の必要に迫られたわけでもない。ただ、使い道の分からない金額を前にして、彼女は「これがいい」と思っただけだった。
「……完全に趣味だよね、これ」
そう言いながら、軽く肩をすくめる。
光を受けて、楽器は静かに輝く。
その輝きに、海音はどこか現実感の薄さを覚えた。
(最近、部活もろくに行けてないなぁ……)
頭をよぎるのは、中学校時代。
譜面台の並ぶ音楽室と、コンクール前の張りつめた空気。
あの頃は、世界がちゃんと音で繋がっていた気がする。
「みんな、今も吹いてるのかな」
「……コンクール、もう近い時期だよね」
少しだけ、胸の奥がざわつく。
けれど、それ以上考えるのはやめた。
少し考えてから、海音は手早く変装を済ませた。
眼鏡をかけ、髪は低い位置で一つにまとめて右肩にかける。
「よし」
「これで、たぶん大丈夫」
鏡の前で軽く頷く。
芸能人としての「潮谷田海音」を外し、一人の高校生に戻るための簡単な作業。
今日のコーデは白のペプラムブラウスに紺のAラインスカートだ。
落ち着いた配色で、目立たない。それでいて、少しだけ気分が上がる。
「……練習するだけだしね」
必要なもの一式を抱え、彼女は家を出た。
河川敷は、穏やかだった。
空は高く、風は緩やかで、ランニングをする人や犬の散歩をする人がちらほらと見える。
「いい天気」
「こういう日、好きだな」
独り言のように呟きながら、歩く。
海音は人目につかない場所を選び、ケースを開ける。
バスクラリネットを組み立て、マウスピースにリードを乗せる。
カチリ、と小さな音。
「……大丈夫、大丈夫」
「久しぶりでも、ちゃんと吹ける」
自分に言い聞かせるように、軽く息を整える。
深く息を吸い、吐く。
音が、流れ出す。
低く、柔らかく、それでいて芯のある音。
舞台でも、録音でもない。ただの練習音。
それなのに――
音が、周囲の空気に馴染みすぎていることに、海音は気づいた。
(……あれ?)
音を続けながら、わずかに眉を寄せる。
川のせせらぎと、風の音と、足音。
それらが、彼女の音楽に合わせて「整っている」。
合わせている、というより、寄り添ってきている。
「そんなわけ……ないよね」
思わず、音が揺れる。
違和感は微細だった。
音楽的な感覚がなければ、気づかないほどのズレ。
海音は一度、音を止めた。
静寂。
世界は、何事もなかったように続いている。
それでも、胸の奥に残る引っかかりは消えなかった。
「……気のせい?」
「ううん、でも……」
同じ頃。
千聖は、自宅の窓辺で本を読んでいた。
文字を追っているはずなのに、内容が頭に入ってこない。
ページをめくる手が、止まる。
(……静かすぎる)
耳を澄ませても、異常はない。
時間も、空間も、何も乱れていない。
それでも、彼女の中の感覚が、小さく警鐘を鳴らしていた。
――ズレている。
「……おかしいわね」
小さく呟く。
未来視を使うほどではない。
だが、使わなくても分かる。
世界の「継ぎ目」が、どこかで緩んでいる。
「こんな感覚、久しぶり」
「……嫌な予感しかしないわ」
千聖は立ち上がり、スマートフォンを手に取った。
画面には、圭からの未読メッセージが一件。
『今、外?』
短い文章。
だが、その短さが、逆に緊張を含んでいる。
「やっぱり、あなただけじゃないのね」
小さく息を吐き、返信する。
『ええ。あなたも?』
数秒。
すぐに既読がついた。
『なんか変だ』
『合流できる?』
千聖は、迷わず打ち込む。
『ええ。すぐ行くわ』
数分後。
圭は河川敷に近い道を歩きながら、足を止めた。
理由は分からない。
ただ、交差点の向こう側が、妙に目についた。
「……なんだ?」
小さく呟く。
信号は正常。
車も人も、いつも通り。
なのに――
そこだけ、現実感が薄い。
圭は眉をひそめる。
(……なんだ、これ)
視線を逸らそうとして、逸らせない。
「気持ち悪いな」
「夢でも見てるみたいだ」
否定を使うほどのものではない。
だが、放っておくには、嫌な感触だった。
「……千聖にも聞いてみるか」
ポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを立ち上げた。
三人が集まったのは、偶然だった。
だが、その偶然が重なりすぎていることを、全員が無意識に理解していた。
「……音、聞こえた」
最初に口を開いたのは千聖だった。
海音は、ゆっくり頷く。
「さっきまで吹いてたからね」
「練習してただけなんだけど」
「でもね、変だった」
「変?」
圭が問い返す。
海音は少しだけ言葉を選び、口を開いた。
「世界が、私の音楽に合わせて動いてる感じ」
「リズムを取ってる、みたいな」
「いつもはそんなことないのに」
「だから、片付けてここに来た」
千聖は視線を巡らせ、交差点の方を見る。
圭も同じ方向を見ていた。
「……やっぱり、ここか」
「俺も、さっきから気になってた」
そこには、説明できない“歪み”があった。
違和感、とも言えるだろう。
見えない。
触れられない。
だが、確かに存在している。
空気が、わずかに引き伸ばされている。
時間が、ほんの一拍、遅れている。
「……ここだ」
千聖が、静かに言った。
「間違いないわ」
「この先で、何かが崩れてる」
未来は見ない。
だが、これ以上近づけば、何かが起こる。
それでも。
海音は、変装を解き、一歩前に出た。
眼鏡を外し、髪を解く。
「行こう」
「このズレ、放っておいたら、もっと大きくなるよ」
「きっと、誰かが困る」
圭は、短く息を吐いた。
「……同意」
「ここで引き返す理由もないしな」
千聖は、わずかに微笑む。
「本当に」
「相変わらずね」
三人は、顔を見合わせる。
そして、同時に。
信号の変わる瞬間を縫うように、
ズレた交差点の中心へと踏み込んだ。
その瞬間。
世界から川のせせらぎも、犬の鳴き声も、世界を彩る色彩も失われた。
こんにちは。椎野陽葵です。「未来が視える女神様ですが、正解は選びません」を手に取っていただき、ありがとうございました!




