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【オーバーラップWEB小説大賞受賞】魔物領のはしっこで、飯屋はじめます  作者: もちのき


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ミリー

 ミリーは、ヴィンセント領の城にある自室の窓から、曇り空をじっと見つめていた。


 春も終わりに近いというのに、この領地の空はどこか重たい。王都にいる数少ない友人から届く絵葉書のような明るさはなく、薄い雲が空を覆い、その下に広がる景色もどこかくすんで見える。


 けれど、それは空のせいだけではないと、ミリーは知っていた。


 この土地そのものが、長いあいだそう呼ばれてきたのだ。


 ――魔物領。


 蔑みを込めて、あるいは同情を装って。


 他領の貴族たちは、この土地をそう呼ぶ。瘴気が濃く、魔物が多く、流通も細い。王都から遠く、豊かさから取り残された辺境。


 領民たちは決して怠けているわけではない。なのに、土は痩せ、食べ物は乏しく、働いても働いても暮らしは楽にならない。それどころか、過酷な環境にすり減った心は、さらに静かに蝕まれていくばかりだ。


 ミリーは、その現実が嫌いだった。


 嫌いで、悔しくて、どうにかしたいとずっと、ずっと、ずーっと思ってきた。


 机の上には、今朝の報告書が広げられている。村ごとの収穫量。塩や油、砂糖、小麦の流通量。冬を越えたあとの死者の数。


 領民の暮らしは、数字にすると余計に冷たく見えた。


 足りない。


 何もかもが。


 金も、人手も、食も、余裕も。


 それが分かっていながら、劇的に変える手立てを自分はまだ持っていない。その事実が、ミリーの胸をじくじくと焼いていた。


「お嬢様」


 背後から控えめな声がかかる。


 振り返ると、侍女のエマが銀の盆を持って立っていた。小さな焼き菓子と、薄い二番煎じの紅茶が載っている。


「少しだけでも、頭を休めてください」


「ありがとう」


 ミリーは椅子に腰を下ろし、焼き菓子を一つつまんだ。


 見た目はきれいだった。表面に砂糖が少しだけかかっていて、焼き色も整っている。口に入れれば、優しい甘さが広がる。


 けれど、その味でさえも、変わらないこの状況を思わせた。


「……最近、何もかも同じ味に思えるわ」


 思わず漏れた本音に、エマが小さく目を丸くした。


「それは、厨房が聞いたら泣きます」


「そうよね」


 ミリーは苦く笑った。


「厨房長は頑張ってくれているわ。王宮で働ける実力があるのに、こんな辺鄙な領地で。しかも栄養塊ではなく、少ない材料で美味しいものを作ってくれている。感謝してるの」


 そこで一度、言葉を切る。


「こんな状況なのは、私の力が及ばないから。だから、今のは八つ当たりだって分かってるんだけど……」


 ミリーは菓子を見下ろした。


「それでもね、もっと……食べたことのないものが食べたいのよ。知らない味とか、びっくりするものとか」


 言ってから、自分でも少し苦くなる。


 領民の中には、まともな食事すら足りていない者もいる。そんな中で、自分は知らない味が食べたいなどと言っている。


 けれど、それもまた本音だった。


 食べることは、本来もっと豊かなもののはずだ。ただ腹を満たすだけではなく、心まで少しだけ軽くするもののはずだと、ミリーは思っている。


 栄養塊が主流の貴族社会では、受け入れられにくい考えだろう。けれど、そんな高価な食材を手に入れられない領民が大勢いるヴィンセント領にいるからこそ、その思いは強くなる。


 貧しく、美味しいとは言えない食材や、薄い粥で日々を繋いでいる領民を思うと、余計につらかった。


 少しでも、簡単で美味しい調理法が見つかり、それが広まれば。領民にとって、生きるための小さな光になるかもしれない。


 ――ただの自己満足かもしれないけれど。


「本日は、商会の方がいらしているそうです」


 エマが話題を変えるように言った。


「商会?」


「はい。ライナー様と、その上司の方が。旦那様にご報告があるとか」


 ミリーはわずかに眉をひそめた。


 ライナーという名には聞き覚えがあった。領地の端の村や街道を回っている若い行商人で、最近は森猪の骨や牙の取引のことで、父とも顔を合わせることがあると聞いている。


「また素材の値の話かしら」


 昔は、王族に安く買い叩かれていた。いつも王族の連中はそうだ。自分たちの利益ばかりを優先し、危険は負わず、ヴィンセント領のことを馬鹿にするくせに、領民が危険な思いをして手に入れたものを安く買い叩こうとする。


「かもしれませんね」


 エマは曖昧に返した。


 ミリーは焼き菓子を皿に戻し、立ち上がった。何か目的があったわけではない。ただ、じっとしていると胸の中の苛立ちばかりが大きくなる気がした。


「少し廊下を歩いてくるわ」


「かしこまりました」


 部屋を出ると、石造りの廊下はひんやりとしていた。城の中は静かだ。磨かれた床、整えられた花、遠くから聞こえる使用人たちの足音。何もかもが秩序立っている。


 その整い方が、時々ミリーには息苦しい。


 曲がり角を一つ曲がったところで、父の執務室の前に差しかかった。扉は閉まっている。けれど、中から人の声が漏れていた。


 いつもなら、そのまま通り過ぎる。


 だが、その日は違った。


「……村の空気が、少し変わってきております」


 聞こえてきたのは、落ち着いた男の声だった。おそらく、ライナーの上司のものだろう。


 ミリーの足が止まる。


「顔色のよくなった者が増えたということか」


 これは父の声だ。


「そこまで大げさな変化ではございません。ただ、前より人の目に力が戻っていると申しますか。金がわずかでも回り始め、なかでも食の流れが変わってきております」


 食。


 その単語に、ミリーの胸がひくりと動いた。


「原因は?」


「森の端に住み着いた、ひとりの料理人です」


 料理人。


 ミリーは思わず扉の脇、厚い柱の陰へと身を寄せた。盗み聞きするつもりはなかった。ただ、その言葉を聞き流せなかった。


「森の料理人、などと呼ばれておりまして。村で料理を売り、時には魔物にまで飯を振る舞っているとか」


「魔物に?」


 父の声が低くなる。


「はい。もっとも、危険な距離感ではないようです。森の長とやらが一定の線を引いているとのことで」


 別の声が入る。こちらは軽いが、礼を崩しすぎない響き。ライナー本人だろう。


「村の方達も、最初は半信半疑だったようですが、今では、次は何を食わせてくれるんだと楽しみにしているようで」


 次は何を。


 その言葉に、ミリーは息を呑んだ。


 今この領地で、食事に対してそんな言葉が出る場所があるのか。


「森猪の骨や牙の値が見直され始めている件とも、無関係ではございません」


 上司の声が続く。


「骨でさえも余すことなく、その料理人がうまく使うそうで。そしてそれを村に安価で振る舞い、料理人が材料を買うことで、それだけでも村の中で金の循環が生まれている。しかも、最近では焼きパンや甘い菓子のようなものまで作っているそうで」


 甘い菓子。


 ミリーの指先が、ぎゅっと自分の袖をつかんだ。


「……甘いものですって?」


 ほとんど無意識に、声にならない息が漏れる。


「村全体で評判のようです」


 ライナーが言う。


 執務室の中が、わずかに静かになった。


 父が考えている沈黙だと、ミリーには分かった。


「その料理人は信用できるのか」


 ややあって、父が問う。


「現時点では、村に害は出しておりません。むしろ逆です」


「逆、ですか」


「ええ。村の方達は、前よりも明るい顔をしております。魔物領の端にしては、妙なくらいに」


 ライナーの声は、どこか楽しげですらあった。


「ただの善人かどうかまでは、私にも分かりません。ですが、放っておくには惜しい存在かと」


 惜しい。


 その言い方に、ミリーの胸の奥が熱くなる。


 何なのだろう、その男は。


 自分がずっとどうにかしたかった領地で、自分の知らないうちに、少しずつ空気を変えている。領民が、次に何を食べられるかを楽しみにするほどに。


 その事実に、安堵よりも先にこみ上げたのは、強い悔しさだった。


 どうして。


 どうして、自分ではできていないのに。


 自分だって、努力はしてるのに。


 どうして、外から来た人間が。


 どうして、自分はそれを今まで知らなかったのか。


 自分は領主の娘だ。この領地のことを、誰より案じなければならない立場だ。村のことも、領民のことも、食のことも、ずっと考えてきた。魔物領と蔑まれるこの土地を、どうにかしたいと思ってきた。


 なのに。


 結果を出しているのは自分ではない。


 そのことが、鋭く胸を刺した。


 同時に、警戒心も芽生える。


 本当に善意なのか。


 村を利用しているだけではないのか。


 魔物と人を近づけるような真似をして、あとから何かを奪うつもりではないのか。


 考えれば考えるほど、分からなくなる。


「当面は様子を見る」


 父の声がした。


「すぐに人を出すつもりはない。ただ、引き続き報告は受けたい」


「承知いたしました」


 ライナーたちの声が重なる。


 それ以上は聞いていられなかった。


 ミリーはそっと柱の陰を離れ、自室へ戻った。


 部屋に入るなり、扉を閉める。


「お嬢様?」


 エマが振り向いた。


 ミリーは数歩進んだところで立ち止まり、拳を握りしめた。


「……森の料理人、ですって」


 吐き出すように呟く。


 エマは何も知らない顔で首を傾げた。


「何かありましたか」


「村の空気が変わってきているそうよ」


 言葉にした途端、余計に胸が痛んだ。


「村で、料理を売る男がいるんですって。森で。魔物にまで飯を作っているって。甘い菓子や、焼きパンまで」


 エマが小さく目を見開く。


「まあ」


「感心している場合じゃないわ」


 きつい口調になる。けれど、怒っているのはエマにではない。


「そんな話、どうして私が今まで知らなかったの」


 責めるように言って、すぐに自分で嫌になる。エマに当たっても仕方がない。


 ミリーは額を押さえた。


「ごめんなさい」


「いえ」


 エマは静かに近づき、少し低い声で問うた。


「申し訳ございません。私の認識不足で、報告できておらず……気になるのですね」


「気になるに決まっているでしょう」


 ミリーは顔を上げた。


「村を少しでも良くしたいと思っていたのに、私は何も変えられていない。なのに、外から来た人間が村の雰囲気を良くしているなんて……」


 悔しさで、喉が詰まりそうになる。


「もし本当なら、喜ぶべきなのかもしれないわ。でも、そんな簡単に割り切れない」


 エマは何も言わない。ただ、ミリーが続きを言うのを待っている。


「その男が本当に領地のためになる相手なのか、私は知らない。善人かもしれないし、ただうまく取り入っているだけかもしれない。だったら、ちゃんと見なきゃいけないでしょう」


「旦那様にお伝えになりますか」


 その問いに、ミリーは首を振った。


「言ったら止められるわ。危ないから、正式に人を出すから、後日様子を見るから――どうせそうなる」


 そしてそれでは遅い。


 いや、遅いというより、本当の姿が見えなくなる。護衛や従者に囲まれた視察で見えるものなど、最初から限られている。


 ミリーが見たいのは、整えられた報告ではない。今の村の空気と、その料理人の顔だ。


「……行くのですか」


 エマの問いは、驚きよりも確認に近かった。


 ミリーは真っすぐ頷く。


「ええ」


「本気で?」


「本気よ」


 エマは目を閉じ、小さく息を吐いた。止めても無駄だと悟った顔だった。


「危ないと思ったら、すぐに戻るとお約束ください」


「約束するわ」


「ひとりで?」


「そのつもり」


 エマはさらに深くため息をついた。


「……では、私も連れて行ってください」


「そんなことをしたら、あなたも罰を受けるわ」


「行かなくても罰を受けるのは同じです。それなら、お嬢様の身を守れるところに。もともと私は、お嬢様のそんなところに惹かれて専属侍女を志願したのですから」


「……ありがとう」


 礼を言うと、エマは首を振った。


「お礼は、ちゃんと戻ってからにしてください」


 翌朝、まだ館の動きが鈍いうちに、ミリーは村娘風の服に着替えた。


 質素なスカートに、動きやすい上着。髪も目立たないようにまとめる。鏡に映る自分は、どう見ても生まれついての村娘には見えなかったが、少なくとも領主の娘そのままでもない。


 最低限の金を小さな袋に入れ、地図を確認する。


 心臓がうるさい。


 緊張しているのか、怒っているのか、自分でも分からない。


 けれど、立ち止まる理由にはならなかった。


 裏口を抜け、エマとともに屋敷の裏手の道へ出る。


 朝の空気は冷たく、館の外の世界は思っていたよりずっと生々しい。


 道は悪い。靴が土を噛み、裾には草の露がつく。風は乾いているのに、どこか冷たい匂いを含んでいた。瘴気の名残だろうか。


 ミリーは、父の地図で何度も見た村の名を思い浮かべながら、城から離れたところまで歩いた。


 そしてマジックバッグからテレポートの札を取り出し、強くエマの手を握る。


「行くわよ、エマ」


「はい、お嬢様」


 魔力が吸い込まれる感覚がし、目を開けると、昔見た瘴気にまみれた薄暗い空が広がっていた。


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