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箱庭に花  作者: 時沢京子
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第四話「色は匂へど」

 弥生の空は、どこか柔らかなものでした。

 初春も清々しいものではありましたが、私にはこの花咲く頃の暖かな春の方が好ましく感じられます。いずれ蒸し暑い夏にはなるものを、今はこんなにも穏やかで、無常を願うのも無理のないことのように思われました。

 先の如月末の大安、私と祥助様はそこで初めてお会いした、ということになりました。

 互いに予めお会いしていたことは、私と祥助様以外には伊集院家の小男だけでしたので、暗黙の了解のうちに危うきには近寄らざるべきと判断したためでした。

 祥助様はあの帰り道でお目にかかった時と同じように、規律正しい外国の着物をお召しになっていらっしゃいました。それは松江叔母様がお持ちになった写真から出て来たようにも思えるほどで、私は粗相を致すまいと泳ぐ目線を祥助様の首元に宛てたきりでした。

 祥助様は時折合う目線に、丁寧に微笑み返してくださいます。その度に何故こんなにも顔が熱く感じられるのか、私は自らの心持ちをひどく恨めしく思えてなりません。

 当日は正式な結婚の約束までには至らなかったのですが、私にも祥助様にもこのご縁を断る理由はなかったので、そのままお話を進めるということになりました。その時の松江叔母様の嬉しそうなこと、兄・蓮太郎の言っていたことが真であったのだと思い知るところとなったのです。

 しかしそれからの私の心は喜々としている一方で、大変な不安をも感じておりました。

 未だ祥助様にお会いするたびに鼓動は激しくなるばかりで、こんな様子ではいつ大きな粗相を犯すかも分かりません。

 その上、見合いの席での祥助様の御母堂様が、どこかこのご縁に乗り気ではないようにも思われて、私はあの席で既に何かお気に召さないことをしてしまったのではないかと、心の重くなる思いだったのです。

 私は小さくため息を付きました。

 この心の重さを計れるならば、さしずめ米一俵といったところでしょうか。私は傍らの梅の木さえ、見上げることができませんでした。

 

*********************************


「椿お嬢様」

 不意にヨネが私を呼び止めます。私は僅かに一呼吸おいて「はい」と振り返りました。

「門前に伊集院祥助様がお見えです」

「祥助様が…?」

 途端に私の胸がドキリと大きく鳴りました。

「如何致しましょう?旦那様はお仕事でまだお戻りになりませんし、総子様もちょうどお出掛けになっています」

 お二人だけで密会なさるのには賛成いたしかねます、と暗にヨネは申します。けれど…

「ヨネ、貴女がいてくれれば差し支えないでしょう。どうぞお通しして」

「畏まりました」

 一体いかがなさったのでしょう?祥助様が突然にお越しになるなんて。

 頭の中を悪い考えばかりが錯綜していきます。そのように抱えている不安ゆえか、お会いする前から私の呼吸は浅くなるばかりでした。

「こんにちは、椿さん」

 程なくして庭に祥助様がいらっしゃいました。私は恐る恐る振り向いて、会釈に合わせて目線を外すようにご挨拶申し上げました。

 祥助はまたゆったりとした普段着でいらして、それでもきちんと詰めた襟元がとても凛々しく映ります。勿論そのお顔も同じようであったのでしょうが、私にはその襟元を見るだけで精いっぱいだったのです。

「唐突にお訪ねしてしまって、重ね重ね申し訳ありません」

「い…いいえ、とんでもないことでございます…!」

 私はまた恥知らずにも頭を大きく振りそうになりましたが、祥助様の後方、少し離れた所にいるヨネが目に入り、それをぐっと堪えました。鼓動は聞こえるほど大きく鳴り響いていましたが、仮にも我が家の庭で不躾な対応はできません。私は両の手を胸元で固く握り合わせました。

「今日は…いかがなさいましたの?」

 私は一呼吸ついたあとに、小首を傾げて尋ねます。

「いえ…用事というほどでもなかったのですが、少し気掛かりでして」

「…とおっしゃいますと?」

「私の母のことで、貴女が気の毒になさっているのではないかと」

 祥助様は少し気落ちしたような表情で、一度目線を伏せました。

 御母堂様…間違いなく見合いの席でのことでしょう。今でも脳裏にありありと浮かんできてしまうのです。その微笑みはどこか作り物のようで、松江叔母様の振るお話にも一歩退いたようなご返答、時折私を見遣る目には心が凍る思いが致しました。

 私を見定めるような仕草に、御母堂様が祥助様を大切になさっているのはよく分かったのですが、そのために私を受け入れては下さらないように思えて、このご縁に僅かな影を見たのでした。

「いいえ、祥助様がお気になさるほどではありません」

 それでも私はどうしても強がって〝大丈夫です〟とは言い切れず、少しだけこの重い心内を含ませました。

 祥助様ならば、それをも分かってくださるとも思ったのです。

 本当は気に病んでおります…本当は不安を抱えております。

 それすらも言い出せぬような仲にはなりたくなかったのです。すると祥助様は「そうですか」と、弱々しい笑みをお浮かべになりました。そしてそれっきり御母堂様のことでは、互い口火を切りませんでした。

 私は祥助様がお気遣いくださっていたことが大変に嬉しく感じられましたし、御母堂様のことをこれ以上この場で申し上げることがはしたないと思ったのです。ただこの時ばかりは私の方が、より明るい笑みを祥助様に向けていたのでした。

 

「…梅はもう散ってしまったのですね」

 不意に祥助様は表情を戻して、私の背後の梅を見上げました。

 弥生に入って梅の木は、紅白ともに散ってしまいました。春になることの心残りといえば、この梅に他なりませんでした。暑い夏を堪えて冬の雪を忍び、そして再びイの一番に咲き誇る…それまでの辛抱とはいえ、常世の花を願ってやみません。

 祥助様の目も、それを思わせるように梅の木を見つめていらっしゃいます。

「普段は花を愛でたりなどはしないのですが、今年からはまた次の梅が咲くのが楽しみになりましてね」

「まぁ…何故ですの?」

 趣旨の異なる祥助様のお言葉の真意を、心中で探しながらそう尋ねますと、祥助様は数歩歩みいでて私の真横に並んでは、梅の木の幹にそっと触れました。

「貴女とお会いした時にはいつも、どこからか梅の香りがしていましたから、私にとって貴女を象徴するものに思えるのです。〝椿〟さんに梅の香というのも、おかしいのかもしれませんが」

 けれどそんな梅の香りを好きになったのだと言いたげに、祥助様は私を真っ直ぐに見つめるのでした。

 私はまた顔が熱くなるのが分かって、何も言えないままにただ祥助様を見つめ返しました。その切れ長の美しい瞳から、どうしても目を逸らすことができません。

 いえ、逸らしたくなかったのです。

 やっと合わせることのできたこの瞳を、このまま釘付けにしたいとすら思えたのでした。

 するとややあって頭上の梅の枝から、散り残っていた紅の花びらがヒラリと私の肩に舞い降りてきました。私は目の端でそれを捉えます。

「…色は匂えど、散りぬるを、我が世誰そ、常ならむ。だからこそ…」

 祥助様もその花びらに気が付いてそう呟くと、そっと手をお伸ばしになって、私の肩からひとひらの花びらを取りました。そして胸元で固く握られた私の手を緩めて解くと、その上に花びらを乗せて、私にそれを握らせるように両手で包みこみます。

「せめて末永く続くよう、守っていきたいと思います」

 そうして私に微笑みかけた強い目線に、祥助様の揺るぎない意志を感じました。

 すると不思議なことにそれを見受けた途端に、あの火のような心持ちが一瞬にして鎮まっていったのです。私は小さく息を吐きました。まるで息詰まっていた呼吸が動き出したかのように。そして祥助様を真っ直ぐ見つめたまま「はい」と頷きました。

 〝口約束は浮世の花〟だとヨネはよく申したものでした。

 形があるようでないもの、よしんばあったとしてもすぐに散ってしまう儚いものだと。

 けれど祥助様のお言葉には何をも信頼させて下さるお力があるように思われました。ただ私だけを見つめる暖かな手の温もりに、先程まで心にかかっていたご縁の影が晴れたように感じたのでございました。

 


**************************************

 

 それからさらに数日後、私が女学校から帰りますと、庭には冬の間中幹に巻かれていたむしろがあちらこちらに剥いでありました。藤宮の庭に関することは、全て七枝屋の統べるところでしたから、私は良太郎さんが再びお出でになっているのだとすぐに分かって、玄関へは向かわずに筵を辿るようにして庭を歩いて参りました。

 何故そんなにも良太郎さんにお会いしようと思ったのか、この時は考えもしませんでしたし、そうすることがごく自然なことであるようにも思われました。

 きっとそれは良太郎さんが、誰の心をも和ませてくださるからなのでしょう。女学校で気の置けない学友と仲良く話してはおりましたが、祥助様とのことがあってか、それもこの頃は張り詰めるような思いで、そんな私の心を解き放ってくださるのは良太郎さん唯一人なのだときっと分かっていたのです。

 足は自然と良太郎さんの元へと急ぎます。

「こんにちは、良太郎さん」

 私は松の冬支度を解いている良太郎さんを見つけて、逸る心でご挨拶申し上げました。良太郎は走り寄る私にいつものように屈託なく微笑んで、「こんにちは、椿お嬢さん」と返して下さいます。

「今日はお一人でいらしましたの?」

 近くに七枝屋の老統領の姿がないことに、辺りを見渡しながら尋ねます。

「へぇ、親方は苗木を仕入に行きましたんで。春にはこの庭に新しい花が増えますよ」

「まぁ、嬉しいわ」

 私が笑うと良太郎さんもまたにっこりと微笑みました。相変わらず無造作なざんぎり頭が風に揺れて、柔らかな陽射しに笑みが映えます。

 〝無邪気〟という言葉が幼子にしか当て嵌まらないという概念は、もはや虚言のように思われてなりません。誰がこの微笑みに邪気なるものを感じることがありましょうか。その柔和なお心と微笑みに、私の胸はまたとくんっと打つのでした。

「…じき桜の季節ですね」

 良太郎さんは近くの桜の木の枝先が、僅かに膨らんだ蕾で薄く紅色がかっているのを見て呟きました。

「この庭は本当に親方の言っていた通りでした」

「あら、なんとおっしゃっいましたの?」

 私がそう尋ねますと、良太郎さんはますます嬉しそうに微笑むのです。

「藤宮家の庭の花は、そりゃあ見事に咲くのだと。春になったらどこの庭園よりも見物だと言うのです。だけども僕は、他のどの花にも先んじて寒空の下に咲いた梅の花を見た時点で、庭の全てを知った思いでした。…もう散っちゃいましたけどね」

 そうしてまた〝ふふふ〟と笑う良太郎さん。私もそれにつられるように、思わず顔を綻ばせました。

 何とも心地よい時間…花を見上げた時と同じように、心の蟠りが姿を消していきます。

 けれど同時に先日の祥助様のお言葉が頭をよぎりました。

「梅の花は散ってしまったけれど、来年咲くのが楽しみになった。花が散るものならば末永くあるよう守りたい」…私にはそのお言葉が、祥助様の結婚へのご意志であるように感じられました。ですから私は祥助様に「はい」と頷いて、全てを委ねたいと思ったのです。

 心も、この生涯さえも。

 

 では良太郎さんは?

 日頃から草花に接している良太郎さんも、同じようにおっしゃるのでしょうか?

 私は意地悪にも良太郎さんのお心をも知りたくなって、尋ねてみることにしたのです。

「色は匂えど、散りぬるを…。この世に常世の花があったなら、さぞかし美しいのでしょうね。良太郎さんもこの梅がそうであったらと思いまして?」

 良太郎さんは私の言葉にまた一枚筵を剥ぎ取ってそれを地に置くと、「うーん…」と少し考え込むように梅の木を仰ぎ見ました。

「〝美しく 咲けども花の むじょうにも散るらむ〟…僕の父がそう言ってました。尤もそれは、早世した母のことを言ったんですけどね」

「…それでは…お父様は大変に悲しまれたのでしょうね」

 予期せぬ良太郎さんの返答に若干戸惑いつつも、私には良太郎さんのお父様がそう呟いたお姿が見えたような気が致しました。

 決して涙は見せず、しかしその丸めた背中に哀愁を漂わせ、一人位牌の前で酒を酌み交わしている…そんな様子が、まるで実際に見ていたかのように浮かびました。

 そう…それは私の父も同じだったのです。

 実母の亡くなった時の記憶と言えば、そんな父の姿が強く残っているのでした。私は当時のことを思い起こす度に、ひどく心が締め付けられたのです。いっそ父が私やヨネと同様に、涙を流していたのならどんなにか良かったか。幼いころの朧気な記憶の中の父の背中が、長く私の中で悲しさを表す象徴でした。

 けれど良太郎さんは私のその想像とは裏腹に、尚も微笑んで言葉を続けるのです。

「そう思うでしょう?でも父はそう詠んだ後、〝だからこそ大変に美しかった〟と言ったんです。母も懸命に生きていましたから、その分だけ死さえも美しく思わせたんでしょうね。この梅も他の花も同じですよ。人の一存で縛り付けちゃ可哀相です。花は何かに優ろうとするでもなく、人に見られるためでもなく、ただ花の気の向くままに懸命に、綺麗に咲いては散るんでさ」

「花の…気の赴くままに…?」

 私は良太郎さんのお言葉にそれ以上何も返すことができず、ただ唖然と見つめるばかりでした。しかし良太郎さんはといえば、そんな私ではなく梅の木に目線を合わせたまま微笑んでいらっしゃるのです。

 春風がその茶色味がかった奔放な髪を揺らします。

 

「色は匂えど、散りぬるを、我が世誰そ、常ならむ。それを哀れむ人もいますけど…」

 良太郎さんはそう呟きながら、ゆっくりと目線を私に合わせて言葉を続けました。

「常ならんからこそ、自由なんじゃないですか?僕はそんな花が大好きなんです」

 そうしてまたにっこりと微笑む良太郎さん。私はその笑みに大きく胸が高鳴ったのを感じました。それこそ祥助様とお会いしている時と同じほどに。

 けれど不思議なのは、その心が高鳴っているにも拘わらず、火のようにいきり立つことがなかったことでした。私の心はまるで静かな泉のようで、涌き水のごとく嬉しい気持ちがこんこんと湧き上がってくるのです。

「また綺麗に咲きますよ」

 良太郎さんはまるで我が子を見つめるように、もう一度梅の木を見上げました。そのお言葉はきっと、私が散り切った梅の花を嘆いていると思ってのことなのでしょう。

 けれど私はそんな良太郎さんの優しさに気がついても、御礼の言葉だに申し上げることができませんでした。

 

 皆誰しも花が変わらずあるように願うものだと、そう思っておりました。

 祥助様もそれを願いながら、〝せめて守りたい〟とおっしゃったことが大変に新鮮に感じられて、私の心に焼き付いていたのです。或はその言葉の裏の真意に、一人舞い上がっていたのかもしれません。

 けれど良太郎さんは散ることも花の自由だと、だからこそ美しいものがあるのだとおっしゃったのです。

 相反するお二人の見解のどちらが正しいのか、私にはまったく分かりませんでした。いえ、一方に正しさを見ようとしたことが、そもそもの間違いでもあったのでしょう。

 花の散るのを守りたいと言った祥助様と、それすらも許容する良太郎さん。

 対する私はと言えば、花の散ることを心のどこかで恐れておりました。そしていずれ散るものならば、花開く直前の頃が一番胸躍るものと。咲いた花を愛でる一方で、いつまでも花が咲かないままの方が、ずっとそんな心持でいられるのにと思っていたのです。或は花の一生に、自分を重ねていたのかもしれません。蕾の頃は咲くことを夢見ていられるのに、咲いてしまえば終わりだなんて考えて、現状から一歩踏み出すことを恐れていたのです。何も変わらない毎日を嘆いている一方で。

 けれど…

「来年の花の咲くのが楽しみになりましたわ」

 良太郎さんのお考えにふっと心が楽になるのを感じて、私は心の底から思ったことを思わず口にいたしました。来年の梅の花を見るときはきっと今年とは違っている…そう思うと、開花を心待ちにしないわけがなかったのです。

 良太郎は私の言葉に、それはそれは満足そうに笑みを浮かべて、ただ力強く頷いて下さったのでした。


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