第三話「植木職人の弟子」
それから数日後、私は庭に出て梅の木の下におりました。
梅はちょうど満開を向かえ、その一瞬一瞬が惜しく思えるほど美しいものでした。芳しい香が辺りを包み、時折花びらがひらひらと落ちて参ります。
けれど私はそんな梅の木の更に先、冬晴れの高い青空をどこともなく眺めておりました。
あれから私の心は祥助様のことでいっぱいでした。
祥助様はあの時おっしゃった相手というのが私だと、お気づきになっているのでしょうか?
もしそれとは知らず、今もお気に病んでいらっしゃるのではと思うと、大変に心苦しく感じるのでした。
「お嬢様、そろそろ華道の先生がお見えになります」
不意に背後にヨネがやってきて、私はやっとのことで空から目を逸らしました。
するとその目に映しておかなかったことが悔やまれるほどの梅が、改めて飛び込んできたのです。その美しさは、心の不安の何もかもを洗い流して忘れさせてしまうほど。この心苦しささえ、梅の花の美しさにとらわれてしまいます。
「そうね…じき部屋に戻るわ。…それよりこの梅を今日のお稽古に使えないかしら?ヨネ、貴女にあの枝をとれて?」
「それなら僕がとりましょう」
突然に聞き慣れない男性の声が飛び込んできて、私とヨネは驚いて声の方向を見遣りました。
そこには年の頃二十と思われる単身痩躯の青年が、にこにこと微笑みながら立っておりました。すこし色素の薄い髪の毛はただざんぎりにしただけのようで、あちこち好き勝手な方向を向いています。
「あの辺りの枝でよろしいですかい?」
「え…えぇ…」
私は彼のごく当たり前といった振る舞いに、ついどなたなのかを聞きそびれてしまいました。けれど彼は何も気にする様子はなく、手慣れた手つきで梯子をかけて登っていきます。
ふと彼の背中を見遣りますと、その着ている植木職人独特の羽織りの背中には、「七」という文字が書いてありました。それは藤宮家専属の植木屋〝七枝屋〟の屋号で、羽織そのものは幼いころから見慣れたものではあったのですが、この青年自体はまるで知らない方でした。
「このくらいでいかがです?」
「えぇ…結構ですわ」
そう返事を致しますと、七枝屋の青年は幾本か梅の枝を携えて、梯子から降りて参りました。そして最後の一段をポンッと飛び降りますと、無邪気な笑顔で私に枝を差し出すのです。
「はい」
「あ、ありがとう…ございます」
青年に花を渡されて、私の方が逆に戸惑ってしまいました。彼はただ満足そうに私に微笑みかけています。未だかつて、このように男性が純粋に微笑みになるのを見たことがあったでしょうか。
私は思わずこの青年を見つめ返すばかりです。
「…おーい、良!」
すると玄関先からこちらに向かってくる声が聞こえてきました。
聞き慣れた江戸っ子気質のしわがれ声の主は、紛れも無く七枝屋の老頭領でした。白髪はすっかり抜け落ちて、年々上背がなくなってきています。子供の頃には険しく見えたその顔だちも、今ではぎょろりとした大きな目を残して、すっかり優しいものになりました。大分歳を召されてはいるのですが、ヨネと同じくしゃんとしていらして、軽い足取りでこちらへ走って参ります。
「どうも、椿お嬢さん、女将さん。うちの若ぇのが粗相をいたしやせんでしたか?」
「いいえ、私のために梅の枝を取ってくださいましたわ。それより…」
〝この方はどなたです〟と尋ねようとして、私は一度言葉を止めました。折角善意でしてくださったのに、私が追及したことで〝まだ名乗っていないのか〟とこの方がお叱りを受けてはいけないと思ったのです。するとヨネがそれに気がついて言葉を続けます。
「頭領、お若い方を採りましたんで?」
「いやなに…恥ずかしい話、アタシも歳を取りましたんでね。今七枝屋の跡継ぎにと鍛えてんでさ。中々筋は悪くねぇんで…おい、良。お前ぇ椿お嬢さんに挨拶はしたのか?」
「あ、まだでした」
青年はそう言ってまた何も悪びれずに微笑みます。それを見て〝こいつぁ間の抜けてるのがいけねぇ〟と、頭領は苦言を漏らしました。
「初めまして、椿お嬢さん。僕は畠山良太郎と言います」
「あ…藤宮椿と申します」
そうして一種の癖のように深々と腰を折りますと、良太郎さんはぺこんっと愛嬌のあるお辞儀を返してくださいました。その一挙手一投足が、私を呆気にとらせます。しかしそれでも嫌味などは微塵も感じられません。
「なにぶんまだ鍛え始めたばかりなんでぇ、至らないことも多いかと思いますが、どうぞご贔屓にしてくんなせぇ、椿お嬢さん」
「いいえ、とんでもない。藤宮の庭から、また一人腕利きの植木職人が育っていくのかと思うと、とても誇らしいことですわ」
「ありがとうございます、お嬢さん」
私の言葉に、良太郎さんは〝へへへ〟と少し鼻の頭を掻くようにして微笑みました。その照れたような表情がまた私の目には新鮮で、柔和な笑顔に僅かにとくんっと胸が鳴ったのが分かりました。
「さ、お嬢様。まもなく先生がいらっしゃいます」
私はヨネに促されて彼女に梅の枝を渡しますと、軽く会釈をして名残惜しく思いつつも母屋へと歩き出しました。その間、良太郎さんは頭領に並んで私を見送っていてくださいました。
そして玄関に入る前にもう一度振り返りますと、良太郎さんはそんな私の目線に気がついて、満面の笑みをお浮かべになったのです。私は途端に動悸を覚えて、はっと胸に手を宛がいました。
その胸の小さな高鳴りは、そう、まるで梅の花のように淡く甘いものでございました。
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「よう生けてござりんす、椿さん」
私が手を止めて姿勢を正しますと、華道の池上先生は一言褒めてくださいました。
池上先生はヨネよりも年上の方でしたが、すらりとした美しい身のこなしは未だ健在で、白髪の混じるその御髪さえ芸術品のように思われます。
その立ち居振る舞いに、今までどれだけの男性が魅了されたことでしょう。
お若い頃、吉原にいらしたという池上先生は、お年を召してもなお若干の女郎言葉をお使いになります。
かつて御職・池芳大夫として吉原一と謳われた、その気品はいかなる花も敵わないほどです。元々華道は嗜んでいらしたのか、吉原をご隠居した後は、紆余曲折を経て華道の師範となり今に至ります。花も池上先生に生けられるのなら本望のように思われてなりません。
「されど…何か悩みでも?」
一呼吸ののち、突然に池上先生にそう言われて、私は花を見つめていた目を思わず先生に向けました。
悩み…今の私の心を、そんな綺麗な言葉で言いくるめて良いものなのでしょうか。
心では未だ祥助様を想い、その一方で脳裏には先ほどの良太郎さんの笑顔が浮かんでいる…そんな二つの心が私の中にはあるのです。そのような心持ちでは曇るものもあったのでしょう。
池上先生にはきっとそれがお分かりになったのです。
「…申し訳ございません、先生」
私は頭を垂れて、自分の不届きを詫びました。しかし池上先生はにっこりと微笑んで「ようござりんす」とおっしゃるのです。
「いかなる花も正直なもの。悩みを持ってはならぬということではありいせん。私はむしろ今日のお花は大変に美しいと思いますよ。今まで良くも悪くも綺麗に枠に嵌まっていたものが、今日のは少しそれを外れて椿さんらしく見えます」
「池上先生…」
「冬を越して花が咲くものならば、寒中に咲く花はより美しいものになりんしょう。この梅と同じでありんす」
先生はそっと残りの梅の枝を手に取りますと、質素な生け花をあっという間にこしらえました。
「次にはどのような花の咲くのか、楽しみが増えました」
そう言って上品に、けれどどこか悪戯な雰囲気を含めて池上先生は微笑みます。
恋多きと言われた頃に、同じような思いをなさることがあったのでしょうか。
しかしその真相の一端さえも私に掴ませないままに、「今日の所はこれにてお暇します」と、相変わらず優雅にお立ちになりました。
お見送りする門前までの長い道程は、いつもなら池上先生との会話を名残惜しくさせるものでしたが、今日ばかりはこの曖昧な心持ちに口を紡ぐばかりです。
池上先生は花魁時代の身の上をあまり話すことはありませんでしたが、右手のその古い傷が残る動かぬ小指に、私はただ命を賭けたものがあったのだと悟るのでした。
多くの男性との関係を持つ花魁は、その心の一途の証を細い小指に託すのだといいました。そしてその証を心に決めた方に渡すのだと。
切り落としきれなかった池上先生のその想いも、今の私と同じように曖昧だったのでございましょうか。けれどそれを尋ねるにはまだ私は浅はか過ぎるように思われて、いつになってもただ先生の小指を見つめるばかりでした。
「お寒うございますから、ここまでで結構でありんす」
池上先生は門を一歩踏みいでて、小さな会釈と共にそう私におっしゃいました。
「はい、池上先生。お気を付けてお帰り下さい」
私は深々と頭を下げて、池上先生が角を曲がって見えなくなるまで門前に立っておりました。
池上先生の仰ったとおり、如月の冷たい風が緩急を伴って吹いて身ぶるいさえも感じます。庭からは未だ七枝屋のお二人が作業をしているのか、軽快なパチッパチッと剪定の音が聞こえてきました。
もう日も隠れる頃ですから、今日の所は十分ですよと申し上げましょうか。
「藤宮…椿様…?」
「はい…?」
私は不意に背後から呼ばれ、何の気もなしに振り返りました。
そして直後にその声が聞き覚えのある低く心地よいものだということに気付き、またその精悍なお顔立ちに大きく胸が高鳴ったのでした。
「い、伊集院…祥助様…」
あの帰り道で、そして松江叔母様のお持ちになった写真で拝見した方。
途端に私の胸は早鐘のように激しく打ち始め、真っ赤な顔で俯いてしまいました。
「驚きました。まさか貴女だったとは」
やはり祥助様は、ご結婚の相手が〝藤宮椿〟とは聞き及んでいても、よもや私であったとはご存知ではなかったのです。
「も…申し訳ありません…」
「何故謝るのです?」
消え入りそうな私の言葉に、祥助様は小首を傾げて尋ねます。とてもお顔を拝見できる状態ではありませんでしたが、耳に聞こえてくるのはとても落ち着きのある優しいお声でした。
「祥助様があの帰り道の後も、きっとお気に病んでいらっしゃるだろうと…。私はその後すぐに、叔母に貴方とのご縁を聞きました。けれど貴方一人が、ずっとお気の毒にされているのではないかと思うと…」
すぐにでも結婚のお相手が私で、祥助様のご心配が無用のものであるとお伝えしたかったのです。
けれどどうしてそれが出来たでしょう。
お名前とお顔がわかったところで、お住まいがどちらかも知れないのに。そしてそれに託けて庭で呆けていたことに、ひどく罪悪感を覚えていたのです。
「やはり貴女はお優しい」
祥助様はそんな私ににっこりと微笑みかけてくださいます。
「お気づきではなかったでしょうが、あの日私の尋ねたことに、貴女がすべてお答えにならなかったことが、私にとっても救いでもあったのです」
「…え?」
「顔も名前も知らなかったのだとしても、結婚が女性にとって無償の幸せと言われたならば、私にはとても荷の重いことでございました。或いははっきりそうだと仰られても、あの場では仕方のないこととは承知していたのです。…まだそれとは知らぬうちでしたから。けれど、貴女はそうはなさらなかったでしょう?」
私はよく真意を飲み込めぬままに、小さくうなずきました。
「幸せの一端を相手に預けてくださる方と思ったのです。共にそうなるようにと、歩んでくださる方なのだろうと」
祥助様は顔を綻ばせながら、いい思い出を心に描いている時と同じ表情で仰いました。
あぁ、そんな滅相もない。
ただあの時はお馴染みの優柔不断にのまれて、言葉を詰まらせてしまっただけだというのに、まさかそのようにお思いになってくださっていたとは、到底思いもしなかったのです。
私はますます俯きました。
折角祥助様がお褒めになってくださっているのに、自分がそれにふさわしい人間だとは思えず、気恥ずかしい心持ちがしたのです。
しかしそれを受けてか、祥助様はなおも言葉を続けます。
「ですから、どうか〝藤宮椿〟という方が貴女のような方であればと願っておりました。実の所、今日は失礼を承知で結婚相手のお姿を垣間見られればと思っていたのです。そうして再び貴女にお会いできて、この上なく嬉しく思います」
だからお気になさることは何もないのですよ、と祥助様は未だ顔を上げられないでいる私を諭してくださいました。
相変わらず立ち居振る舞いの美しい長身に、今日はお勤めの日ではないのでしょうか、先日に比べれば日常的な外国の外套をお召しになっています。そのお姿が自らの白い吐息で曇りがかってしまうのが大変に惜しく思われて、私はゆっくりと顔を上げました。
祥助様はただ優しく私を見つめていてくださいました。
「もし、枝が落ちまする」
僅かにミシミシと軋むような音を伴って、あくまで落ち着いた声が頭上から聞こえてきました。そして間髪を入れずに祥助様が私の手を引いたかと思うと、直後に今の今まで立っていた辺りにバサリと松の枝が落ちて参りました。
「大丈夫ですか?」
「は…はい…」
私は枝が落ちて来たことよりも、あまりに近くに祥助様を感じていることに戸惑うばかりです。冬の寒空の下だというのに、体は火照って汗ばむ心地がします。
私は何とかそれを紛らわそうと、枝の落ちて来た元を見上げました。するとそこには松にしがみつくようにしながら、きょとんとした面持ちの良太郎さんがいらっしゃいました。
「お怪我はありやせんか?椿お嬢さん、旦那」
「あぁ…だが気をつけて給え」
そう言って祥助様は私の手をお離しになると、落ちた枝に手を伸ばしました。
「旦那、それに触らんでください。病気にかかって虫のたかる枝です。今僕が取りに降りますゆえ」
良太郎さんはずりずりと枝を慎重に後退しながら言葉を続けます。色素の薄い柔らかい癖っ毛の青年が、庭の枝の上を慎重に移動するさまは猫そのもののように思われました。
私は良太郎さんが病気の松の枝を見つけて攀じ登り、懸命に手をのばして枝を切ったのかと思うととても微笑ましく感じられて、先程まで火の付きそうだったことも忘れてクスリと小さく笑ってしまいました。
「どうも、すみません。お嬢さん」
程なくして門から良太郎さんがやってきて、ざんぎりの頭を掻きながら枝を取りに参りました。古い端切れに枝を巻いて、罰の悪そうに苦笑しています。その頬が少し赤みを帯びて見受けられるのは、ただ単に空気が冷えているからだけではないのでしょう。若干照れた表情が心を和ませます。
「ご苦労様、良太郎さん。まだ頭領も作業なさっておいでなのかしら?もう日暮れですから、また後日になさっては?」
すると良太郎さんはキョロキョロと夕暮れ迫る空を見回します。
「…そうですね。親方にも言ってみますんで」
「えぇ、遅くまでありがとうございます」
良太郎さんは嬉しそうに微笑むと、再び門から庭へ戻っていきました。
「今のはどなたです?」
その姿が庭の中に消えるのを待って、祥助様は私にお尋ねになりました。まったく性質の異なる良太郎さんをどうご覧になったのか分かりませんが、祥助様はどこか呆気にとられたような雰囲気でございました。
「専属の庭師がお連れになったお弟子さんですの。お会いするのは今日が初めてでしたが…」
「なかなか愛嬌のある男ですね」
「えぇ、とても」
私はそう言い切って祥助様に向き直りました。そしてそのお顔をしかと拝見した瞬間に、あの火の付きそうな心持ちを思い返して、見る間に赤面していきました。良太郎さんが私の心を和ませてくださったので、つい祥助様への心構えも解いてしまっていたのです。
あぁ…なんと恥ずかしい。
まるでヨネに対するように返事を返してしまうなんて。
「私といるのは緊張なさいますか?」
祥助様は少しだけ寂しそうな面持ちで仰いました。私は「いいえ、そんなことは…!」と否定をしたのですが、再び不躾に首を振るものですから、祥助様のお言葉を肯定しているのと全く変わりませんでした。
私は震えだしそうな唇を噛み締めましたが、それだけでこの緊張を抑えられようはずもありません。
祥助様のように立派な方を前にして、尚且ついずれそんな方の伴侶になるのかと思うと、目の前が眩むような思いなのです。それがただ緊張にだけに繋がっているのではなく、その傍らにちゃんと嬉しい気持ちもあるのだということを、態度の一つだに表すことができないなんて。
私は自分が真に情けなく、じわじわと涙が滲むのを堪えることもままなりませんでした。
「…今日は忍んで参りましたから…」
ややあって祥助様は不意に言葉を代えて、もう一度私の手をそっと取りました。
「次は正式に会いに訪ねます。大安の日和…仲人様のおっしゃる通りに。本日は驚かせてしまい、大変に申し訳ありませんでした」
そう言って私に目線を合わせて微笑みかけて、祥助様は颯爽と藤宮の門前を後になさいました。
私はそんな祥助様のお心遣いに御礼を申し上げるどころか、お見送りの言葉すら口にすることができず、ただ遠ざかっていく背中を見ているしかなかったのでした。




