第二章「伊集院の息子」
その日も同じように、私は女学院からの帰り道を歩いておりました。
この頃は日なたにいればポカポカと暖かく、俄かに春の気配さえ感じられます。しかし季節は未だ如月の半ば、道行は今暫く手放させそうにはありません。今この時の春めいた日差し以外には、変わったことなど何一つないようにすら感じられます。それというのも先日お裁縫の時間に〝みしん〟を拝見してからというもの、それ以上に目新しいものに出会うことがなかったためでした。
毎日同じ、平坦な日々…私はどこか虚いだ気持ちを抱えながら、ぼんやりと歩いておりました。
女の一生が殿方に嫁ぎ、家事・子育てに勤しむもので、それ以上でもそれ以下でもないことはよく存じてはいたのです。様々なお稽古も、どの家に嫁いでも恥ずかしくないよう身につけるものに他なりません。日常に潤いを求めるものとは、また違う次元のものなのです。父やヨネが私に言って聞かせたように、私はちゃんとそれをわかっておりました。
…だからそれでも良かったのです。
規律正しく平穏に過ごすことが何よりならそれで構いませんから、せめてこの胸高鳴ること一つ、望ませては頂けないものでしょうか?
「きゃっ…」
そんな心持ちで歩いていた私は、曲がり角に差し掛かって出合い頭にどなたかにぶつかってしまいました。反動でどさりと音を立てて、手にしていた書物が地に落ちます。
私はその落ちた書物に、あまりにもぼんやりとしていた自分を顧みて、思わず赤面致しました。上の空で公道を歩くなど言語道断、 いつどこでどなたの目に触れているかも分からないのに…とヨネの言葉がよぎります。
「あ…も、申し訳…」
「いえ…」
慌てて屈んだ私よりも早く、すっと相手の方の手が延びてきて落ちた本を拾いあげました。
「私がぼんやりとしていたためです。大変失礼致しました」
私はそう言われて差し出された本よりも、思わずその方のお顔をじっと凝視してしまいました。
すらりとした長身に、流れるように分けた短い黒髪。切れ長の瞳が細見のお顔にとてもよく似合いで、鼻筋はすっと通り、見とれるほどに整ったお顔立ちをしておいでです。お召しになっているのは外国の着物で、普段着というよりも何かの正装のようにも思われました。
「お怪我はありませんか?」
「あ、はい。大丈夫です…。」
私は消え入るような声で呟きながら、やっとのことで本を受け取ります。そしてそれを抱えるようにしながらもじもじと、顔を上げることすらかないませんでした。ただでさえとても素敵な殿方で、しかもそんな方にぶつかってしまったのかと思うと、ひたすらに気恥ずかしい気持ちでいっぱいだったのです。
けれどその方はそんな私を疎むことなく、低く心地よく響く声で「女学校からのお帰りですか」とお尋ねになりました。
「は、はい…」
「ではこれも何かの縁でしょうから、貴女の家までお送りしましょう」
「い…いいえ!いえ…結構でございます…!」
私は驚きと恥ずかしさのあまり、大変に不躾な言葉を返してしまいました。激しく首を横に振ったので、三編みがまるで犬の尾のように揺れ動きます。継母やヨネが見聞きでもしたなら、何と言って私に苦言を呈することでしょう。真っ赤になった顔面に、額にはじわりと汗が滲むようです。
しかしそれでもその方は、微笑みながらおっしゃるのです。
「…ではそこの角まで。それで差し支えありませんか?」
私は顔を上げて、その方の指す方向を見遣りました。
とあるお屋敷の長い垣根を沿っていく道、それは私の家へと続く道に間違いありませんでした。しかしいつもと違い、その道がひどく長く見えたのです。見知らぬ男性に道すがら同行を求められるという、ある種の試練ともいえるのでしょう。
けれど私はあえて「はい」と承諾致しました。先程あれほど失礼な返答をしておきながら、今ここでこのお誘いを断っては、藤宮の娘として大変に無礼だと考えたのです。
「良かった。ではそこまでお供しましょう」
その方はニコリと微笑むと、手で私を促してゆっくりと歩き出しました。私は尚も顔を上げられず、ぎこちなく歩を進めます。
「女学校ではどのようなお勉強をなさるのですか?」
その方は私の緊張を緩和させるようにと、相変わらず落ち着いた声で尋ねます。
「唄やお裁縫や…文学などを。日によって学ぶものは異なります」
「それは楽しそうですね。一組には何人ほど?」
「じゅ…十五名前後ですわ」
私は質問に答えながらも、内心早鐘のように動悸がしておりました。沿うように長い垣根のどこかから、誰かに見られてしまったらと思うと気が気ではありません。
勿論横を歩くこの方は、私には勿体ないくらい素敵な男性ではございます。
しかしそうであればあるほど、私の口は紡がれ、足取りは覚束なくなり、ますます約束の角が遠くに感じられるのでした。
「…女性にとって…」
そんな私との暫しの沈黙を置いてから、ややあってその方は静かに口火を切りました。
「女性にとって、結婚とはいかなるものでございましょう?」
「…え?」
あまりに唐突な問いに、私はつい小首を傾げました。一体今この方が何をおっしゃったのか、一度考え直さなければならないほどだったのです。
しかしその方は流れるように目線を私に合わせて、その答えを促します。私はそれを受けて一度呼吸を落ち着けると、初めてその方をきちんと見て申し上げました。
「結婚は…女の幸せと申します」
そうでなくてはならないと、ヨネはいつも口にしたものです。実母にもきっと、そう言い聞かせていたことなのでしょう。
「ではそれが親同士の決めたもので、互いに顔も名前も知らないものであったなら…?」
その方は立ち止まって、今度はしかと私に向き直りました。私も足を止めてその方を見上げたまま、二の句を心中で探します。少しだけ悲哀を滲ませたその綺麗な一重の瞳に、私はこの方の真意を汲んだのです。そしてご自身のことよりも、同じ境遇で嫁いでくる相手の方を何よりも想っていらっしゃるのだと。
私は何と言って言葉を返すべきか、ひどく迷いました。
もし私の立場なら、何の胸の高鳴りもなく突然結婚することを、少なからず嘆いたことでしょう。けれどこんなにも深く配慮してくださる方ならば、その結婚もまた幸せなのではないかと思ったのです。
その間も、その方の目線は私にじっと注がれておりました。私の言葉を待ってくださっているのは分かっても、この方が今望んでいるのがどのような答えなのかが、私にはどうしても分かりませんでした。その悲哀を拭って差し上げたくとも、気休めがより一層傷を深くすることもありましょう。
私の心には、何一つふさわしい言葉が浮かんでは来ませんでした。いっそ泣いてしまいたいと思えるほどに、非力な自分を感じざるを得なかったのです。
「坊ちゃま!」
するとその時、どこからか小男が一人、こちらに駆けて参りました。痩せて頭の禿げ上がった背の低い男でしたが、その身なりや振る舞いにはどこか上品なものがありました。
「こちらにおいででしたか、坊ちゃま。急がねば省に遅れまするぞ」
「あぁ、分かっているよ。だがいい加減、その呼び名は止してくれないか?」
その方は悲哀を一瞬で消し去って、小男に苦笑いを向けました。少し恥ずかしそうに、けれど小男にそう言いつけるのが若干気後れするような、そんな口調でした。
「幾つにおなりでも、坊ちゃまは坊ちゃまにございまする」
そう深々と頭を下げた小男に、その方は〝敵わないな〟とおっしゃいました。きっとこの方々は、私とヨネのようなご関係なのでしょう。私はそれを思うと、先程まで泣き出しそうだったことも忘れて、小さくくすりと笑ってしまいました。
「やっと笑ってくださいましたね」
その方は私の表情を見遣って、とても嬉しそうにおっしゃいました。私は自分の顔が耳まで赤くなるほど、熱くなるのを感じました。
「坊ちゃま、この方は…?」
「道すがらお会いした方だよ。先程は唐突に大変失礼いたしました」
「い、いいえ…!そんな…」
私はまた無作法に大きく手を振って、直後にその事をひどく後悔しました。いつもなら場を繕うことなどたやすくできるものを、なぜか失態ばかりを繰り返してしまいます。
「ご縁がありましたら、また」
そう囁きかけるようにおっしゃると、その方は急かす小男を従えて車に乗り込んで行きました。
私はその背中を見送りながら、しばらくその場に立ち尽くして、顔の火照りが冷めるのを待たなければなりませんでした。
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あの方は一体どなただったのでしょう。
私はとぼとぼと帰路を歩きつつ、あの方の名前すらお聞きしなかったことを気に病んでおりました。顔の火照りも大分治まり、痛くなるほどの動悸も成りを潜めています。
あの時の息苦しさは今まで感じたことはなく、平常とは程遠いものではありましたが、今となってはどこか満たされた気分でもありました。今までに感じたことのない心持ち、あれほど痛いものであったにも関わらず、何故かもう一度起こることを望まずにはいられません。
「ご縁がありましたらまた」…その折りにはお名前を伺えるでしょうか?
けれどその時にはきっと、一蓮の伴侶がいらっしゃることでしょう。この淡く曖昧な胸の痛みはこれきりにするべきなのだと思うと、私はますます頭を垂れるばかりでした。
そんな心持のまま家に帰ると、玄関に緑の鼻緒の草履があるのを見つけて、私は松江叔母様がいらしているのだとすぐに分かりました。
松江叔母様は父のお姉様に当たる方で、私が椿の赤い色の着物をよく着るように、松江叔母様もそのお名前にあやかって深緑の着物を好んでお召しになっていたのです。元旦でも盆でもなく叔母様がお見えになるなんて、大変に珍しいと思いつつ、私はご挨拶申し上げねばと客間へ真っ直ぐ向かいました。
途中やってきたヨネに本と道行を託し、松江叔母様特有のきっぷのいい笑い声の響く障子の前で「失礼致します」とお声をかけました。
「あら椿さん、お帰りなさいまし」
「はい、ただいま帰りました、松江叔母様。その後お変わりなきよう拝見致します」
そう定例的なご挨拶を申し上げると、松江叔母様は「そうね、シワが一本増えたくらいよ」と、また高らかにお笑いになりました。
父の後ろに控えるように座っている継母にはそれが耳に障るようで、微笑みは口元だけに留まっているように見受けられます。尤もおおらかな松江叔母様のこと、私は彼女が継母に辛く当たる場面を一度たりとも目にしたことはなかったので、元々物静かな継母の性格に合わないことが不機嫌の理由なのだろうと考えておりました。
「ではどうぞごゆっくり」
私はそう言って早々に退室しようと致しました。
大人の会話に長く居座るなど、はしたないことこの上ありません。けれど今日に限っては父はそんな私に、部屋に留まるようにとおっしゃいました。
「ちょうど貴女の話をしていたのよ、椿さん」
松江叔母様のお言葉に私は小首を傾げましたが、言われるままに室内に入り込んで障子を音もなく閉めました。松江叔母様はそんな私に、いつも以上に楽しげに微笑むばかりです。
「椿さんもちょうど百合江さんが嫁いできた年頃になりましたね。ますます目元の似てきたこと」
「え、えぇ…」
私は部屋の対極に位置している継母の眉根が動いたことに、内心臆病な動悸を覚えました。継母は母・百合江の名を耳にすることを、平素大変に嫌がっていたのです。父は勿論のこと、私もそれを知ってから母の名は極力口には致しませんでした。
ただ一人ヨネだけが、文字通り母の名残だったのです。
けれどそれにも気付かず、松江叔母様はお話を進めます。
「蘭太郎さんもそろそろ嫁御を貰う頃だし、椿さん、貴女ももう適齢期でしょう?だから貴女に良い話がないかと探していたのよ」
「私に…ですか?」
「えぇ、そうしたら聞いて頂戴。とても素晴らしい縁談を頂いたの。ちょうど貴女にぴったりだと思うのよ」
そう言って松江叔母様は、益々にっこりと満足そうに微笑みます。
生来の世話好きである松江叔母様は、半ば一方的にそうおっしゃると、いそいそと傍らに置いたご自分の荷物を探り始めました。
私はそれを目の端で捉えながら、同時に帰り道のあの方を思い出しました。
奇しくも見知らぬ女性との婚約を思わせた方…あの方が口にした「親の決めた互いを知らない者同士の結婚も幸せか」というお言葉がよぎります。そう問われていなければ今このように、戸惑うわけがなかったのです。
常日頃に何か一つ胸の高鳴ることを…、その望みを果たすのに結婚話はうってつけだったのですから。
私は思わず松江叔母様に申し上げます。
「け、けれど…顔も名前も知らぬ者同士、ご縁がありますでしょうか…?」
今ならあの方のお気持ちがよく分かります。いえ、あの方にお会いしたからこそ分かるのでしょう。
そのような結婚もまた、幸せになれるものなのかと。
「まぁ、椿さんったら。お互いのことはこれから知り合えば良いのよ。それに私に縁談が振られたこと 自体がご縁そのものだと、私はそう思いましてよ」
「そうだな、椿。お会いする前から気弱な事を申しては、先方に失礼だろう」
「…は、はい」
松江叔母様と父にそう言われて、私はただ頷くしかありませんでした。
あぁ…まさか私にもこのようなことがあろうとは。一刻前には予想だにしておりませんでしたのに。
名前もお聞きできないままに別れたあの方が、私に何かをもたらしたのでしょうか。いえ、あの時即答出来なかった時点で、既にこうなるよう向かっていたのかもしれません。
ほんの少し前だというのに、あの時の私がひどく浅はかに思えてなりませんでした。
「まぁ…椿さんがそうお思いになるのも、致し方のないこと。けれど安心して頂戴。相手の方はとても素晴らしいお家柄で、このようなものをお預かりできたの」
松江叔母様はそう言って、荷物の中から探り当てた真四角の風呂敷包みを解きました。中からは桐の箱、そしてさらにその中に恭しく納められていた一枚の写真を取り出しました。
「ほら、これが相手の方よ」
差し出された写真を手にした瞬間、私はあっと息を呑みました。
細見の顔立ち、流れるような単髪、すらりとした長身は、つい先程連れだって歩いたあの方そのものだったのです。
「お名前は伊集院祥助様。御祖父様はあの鳥羽・伏見の戦いで闘神と畏れられて、御父上も日清戦争で武勲をお挙げになっているのよ。祥助様ご自身はまだ戦いに参じたことはないとご謙遜なさるのだけど、親子三代、陸軍省にお勤めになっていて、祥助様はその中でもとりわけ優秀なのですって。大正の世にあっても、お血筋は武家そのものでいらっしゃるのね。あら、椿さん。どうかなさった?」
写真を見つめたまま、松江叔母様のお話を半分にしか聞いていない様子に、私は虚をつかれました。
よもや先頃偶然にもお会いしたと言えるはずがありません。私はただ平静を装って、「何でもございません」とお答えするのが精一杯でした。
「近々お会いしてはどうかしら?こんなお話滅多にないもの。そうねぇ…次の大安は何日でしたっけ?」
そう嬉しそうにしている松江叔母様のお声は、私の耳に全ては届きませんでした。あのひどく傷む動悸に、体全体までもが震えだしてしまいそうです。
どうしてそれをとどめることができましょう。
写真の中の精悍なお顔立ちと、あの方がおっしゃっていた相手が実は私だったのだと思うと、私は再び顔の熱くなるのを覚えるしかなかったのです。




