21:禁じられた真名
「間に合ったか」
完全なる無表情でヴァーツラフは言うが、その声からはわずかに焦燥が入り混じっていた
「ヌイさま!ご無事ですか」
ミレナの声が聞こえる。ヴァーツラフの後ろで祈りを捧げていたらしく、姿が見えなかった。心配する声と共に、彼女はぬいの前に駆け寄った。
「ヌイさ……えっ、勇者さま?あの……わたくし」
ミレナの表情が一気に暗くなる。
「さっさと、下ろせ。堕神が二倍になるとさらに不愉快だ」
余程嫌なのか、低い声で言い放った。
「もう大丈夫なので、下ろしてください」
冷静にそう言うと、トゥーは素直に従った。
「ヌイさま?もしかして、けがをされているんですか?」
ミレナはぬいの言葉に引っ掛かりを覚えたのか、一転心配そうに手をつかみ、体を確認する。
「ううん、体はなんともない……んだけど」
ぬいは言いづらくなり、後半の方を小さくつぶやく。
「失念しておりました。誰にでも見られたくないものはあります、過去映しはさぞお辛かったでしょうに」
「ううん。わたしはすぐに終わったから。それよりも……」
ぬいはノルに顔を向ける。怪我だけでなく、過去映しも行われたからだ。
「教皇さま、お手を煩わせ申し訳ございません」
彼はなんてことない表情で、すばやくその場に跪いた。
「ノルも運が悪かったよな。いや、よかったのか」
「当初の予定では、重犯罪者一人を捕縛、または浄化するだけでしたからね」
「あいつら間抜けに見せかけて、結構な知能犯だったからな。俺も後を追うの苦労してたんだ……っと、そういや気絶させて放置したままだ。ちょっと回収して、突き出してくる」
トゥーはひらひらと手を振ると、今度は用心のためか剣を抜く。その長剣は身に着けている神官服とのちぐはぐさを醸し出していた。
それを掲げ、転移とつぶやくとトゥーの姿は掻き消えた。
「そなたにも伝えておこう。神の秘め事はその者の精神を崩壊させる。異邦者だろうと、定着していようと堕神へと引き戻す可能性がある」
ヴァーツラフはノルの方を向くと、そう告げた。ミレナも同意するように頷いている。
「堕神たちがそうなった暁には僕が対処をする。そういうことでしょうか?」
ノルはちらりとぬいのことを見た。
「否」
「まあ、なんてひどい物言いですか。勇者さまやヌイさまの台座はとっくに存在しませんよ」
その発言から、もう元の場所へ帰れないことが察せられた。
ぬいに寂しい気持ちは全くない、それどころかはっきり事実が分かって、すっきりした気持ちである。
「あなたの役目はあくまでここへたどり着くまで。その後にすべきことはありません。ですが今回の件から、言っておいたほうがいいと思いました」
ミレナが冷たい声で言う。
「しかるべき時まで、異邦者トゥーの素顔を異邦者ぬいにさらしてはならぬ」
だから彼は、この世界で見慣れぬ狐面をつけていたのだ。
トゥーの方を選んだ理由は、おそらくあんな邪魔なものを装着しても行動に支障がないからだろう。ぬいの場合は街中を歩けるかも怪しい。
「そして、二人の真名を明かそうとしてはならぬ」
偽物が名を告げようとしたとき、奥底に眠った記憶がよみがえる感覚があった。あれは危険のしるしだったのだろう。
「これは現在見守っておられる神からの厳命だ。しかと心に受け止めよ」
「はっ、承知いたしました。教皇さま」
教皇の口から神という単語が出た瞬間、ただ事ではないことを理解したのかノルは片膝を付き、胸元辺りに手を当てる。
「あのさ、ヴァーツラフ。もしかして、その神って言うの。わたしの大事な人だったりする?」
ぬいはふと気づいたことがある。ずっと思い出せない、誰か。ヴァーツラフにお告げをしたその存在。
ノルが舌打ちするのが聞こえ、それを聞いたミレナが彼を睨んでいる。きっと、軽々しく神のことを語るからであろう。
「回答はできぬ」
「それって、はいと言っているのと同意意義だと思う」
ヴァーツラフはうそをつくことがない。だからこそ、そうであると信じられた。
「……明部なら問題なかろう。現在の神はそなたの弟である。幸いあれと、そうお告げを受けた」
「弟……わたしの」
ぬいがそうつぶやくと、ある光景が脳裏によぎった。
ーー少女には弟が居た。
年を取るごとに普通になっていく彼女に対し、弟はまごうことなき天才で秀才でもあった。
ただ幼少時は少女を下回っていたため、目立たなかっただけである。
通常であれば、姉弟間は仲が悪くなっていたところだろう。
だが、幼少時どれだけ両親や周りにもてはやされようとも、放っておかれる弟を少女は無視しなかった。
影に隠れようとする弟を引っ張り、常に共に助け合った。
そして成長後立場が逆転したとき、弟はもちろん少女のことを助けた。
お互いに固執せず、そっと背中を支え合う。二人はそんな関係であった。
「本当にいいの?ーーをこの家に残していくなんて」
「いいんだ、姉さん。僕は表面上はうまくやっているから心配しなくていい」
「ありがとう」
「会えなくなっても、ただ幸せに。本来の姉さんらしく自由に生きてくれればそれでいいんだ」
そう言った弟は少女に対し、満面の笑みを浮かべた。
「ヌイさま!」
ミレナが慌てた様子で駆け寄ると、ハンカチを差し出した。
ぬいは無意識に泣いていた。指摘されようやく気付く。片目を拭いても、また零れ落ちる。
「わたし……弟が居たんだ。ずっと、無事と幸せを祈ってくれた」
一見表情に大きな変化はないように見える、だが涙が次から次へとあふれ出て、止まることはない。
「ありがとう、ヴァーツラフ。言ってくれて」
お礼を言うぬいに対し、相変わらずの無表情で反応はない。だが、ミレナとノルはどこか複雑そうな顔をしていた。




