朽ちゆく御手 9
「いいな。やはり便利だ」
エルの手腕をすればキロメートルだろうとマイルだろうと無いも同然。
最高の手抜きであり、怠け者である人間の御用達だ。機械や魔法とはこうでなくでは。
これならタクシーやらバスやらといった無駄な金も払わずに済む。
「タクシー代が浮いたとか思っていませんか?」
「思ったら悪いのか?」
「悪いです。改めてください」
「時間があったらやってみる」
「期待しないで待っています」
さて、最後は徒歩で歩いて、エルがチャイムを鳴らそうとする。
が、押し込む前に離す。チャイムを押す必要はなかった。主人に知らせるという役目を果たす必要がなかった。
窓にはすでにクロード卿が居て、俺達に気付いて手招きしていた。呼ぶ必要もなかったのだ。
しかし不思議な話だ。当然連絡はしていない。そもそも来訪自体、たった今決めたことだ。
「エル、お前の動きを察知されているぞ」
「エフィム様。貴方の動きも読まれていたようですね」
エルも俺も互いをちらと見て、内心を理解する。
この老人の手のひらから逃れられるには、少し骨が折れそうだ。
「どうしますか?」
「意図を理解しているなら話が早い。話が早いのは面倒がなくていい。行くぞ」
「それは良い考えです。嫌な事や悪い事を全て無視する、今のストレス社会には必須の思考能力でしょう」
エルが門を押せば、俺達の来訪を知っていたように鍵が開いていた。
そのまま室内に入り、彼が居た窓辺へと行けば、これまた俺達の来訪を知っていたように紅茶の準備が整っている。
素晴らしいブランチだ。理想的と言っていい。
しっかりと膨らみ、真ん中が割れたスコーンと、ルビーの様に深い色を示したジャム、嬉しいことにクロテッドクリームもある
牛乳を煮詰めてから放置し表層に湧き上がった脂肪分を取るという手間のかかる製法は、その入手を難しいものにしていると聞く。
そして、そんな素晴らしい軽食を準備した主人は既に椅子に座っていて、昨日と似たようなラフな格好でニコニコと笑っている。
「やあ、エフィム君。キイチゴのジャムはお好きかね」
「ええ。キイチゴもスコーンも好きですよ」
「それは良かった。では……小難しい話の前に食事としよう。実は朝食を食べて居なくてね。君達も是非食べてくれ」
「ご相伴に預かります」
クロード卿の真正面に座り、用意されたスコーンを味わう。
エルの視線が気になるが、平気だろう。スコーンは美味しく、紅茶は香り高い。
キイチゴのジャムもベリーの酸味と香りを上手に閉じ込めた逸品だ。
贅沢な食事だ。今朝の焼き過ぎたフランスパンの記憶が書き換えられそうだ。
「して……何処まで調査は進んだかな」
「ある程度の推論は立てられましたよ。後はそれを実証し、それに合わせた呪い払いをするだけです」
「呪い払いか……。私は不安なのだ。完璧に払えるかね」
「何とかなりますよ」
「何とかじゃ困るね。二次被害が出ては困る」
「二次被害?」
その文言に、飲もうとしていたカップが止まる。
先ほど仕上がった推論に、新たな情報が追加され、突然変異を起こしたようだ。
そもそも呪いには二次も三次もない。対象が不幸になればそれで終わりだ。
対象が次々に変わる呪いなど、それはもう災厄。あるいは邪神や悪魔とも呼ばれるかもしれない。
つまり次から次へと標的を変える存在は、俺の処理する分野ではない。
そしてこれはどう考えても呪いだ。それが導き出される結論は……居や彼自身に直接聞いた方が早く確実か。
「貴方は、自信に降りかかった呪いが、災厄となると?」
「そうではない。いや、これは君にきちんと理解してもらった方が早いか」
そう言うと、クロード卿は紅茶を飲んで、ハンカチで口元を拭う。
手を拭き、テーブルのスコーンの屑も丁寧にふき取ると、じっとこちらを見る。
よほど言いにくい話らしい。辺りを伺って、細く息を吐いて、口を開く
「実は……」
「師匠ッ」
ああ、思わず舌打ちしたことなら謝る気はない。飛び込んできた乱入者を見て、その頭を叩いたらきっと軽妙な音が鳴るだろうと思ったのも撤回しない。
いい所で邪魔されれば、それだけ人は不愉快になるという事をスピネルは理解すべきだった。
わざと置いて行ったのだが、随分と早いお付きだ。約束に遅れるのは悪い事だが、場合によっては約束よりも早く来ることもかなり迷惑な行為だと知らないのだろうか。
「スピネル、今日は休みと言った気がしたんだが、言い忘れていたかな?」
「いえ。ですがエフィムさんが新たな方針を立てたという事でここに来たので、お手伝いしに来ました」
「……そうか。エフィム君、お邪魔だったら直ぐに言ってくれ」
「邪魔だ」
「エフィムさん!?」
予想外の答えだったのか、彼女はひどく驚いているが、邪魔に決まっているだろう。
この知的好奇心の塊は肝心な情報を入れ忘れているな。
が、どうせどんな手を使ってでも参加しようとするだろう。これはそういう奴だ。
「邪魔だが、存在を許してやろう」
「何か、神様気取りが目の前に居ます」
「少なくともお前よりは社会的に偉いぞ。資本主義は金を持っている奴が持っていない奴の人権を握る社会だからな」
「そんな子供の見た目で殺伐としたこと言わないでください」
「中身は大人だからな」
「……使い分けがズルいです」
「こういう利点を利用しないと、やっていられないんだよ」
さて、横やりの対処は終わった。クロード卿の話を再度聞こう。
「それで、何でしたっけ」
「ああ、実は……。私も君に解呪の依頼をしようと思ってな」
「依頼を」
「そう。それなりに協力もしよう。家探しでも何でもしていいし、謝礼もお支払いする」
「……そうですか」
二次災害の話はどうした等とは思わない。呪いに関して知っていることは何かも聞かない。
彼の対応で、クロード卿にとって話すことが不都合になったと容易に推察できるからだ。そして不都合な環境になった原因は、恐らくスピネルの来訪。
彼女に知られたくない事、それが呪いの根幹。
それさえ分かれば、何とかなるだろう。
さて、協力を取り付けたのなら、色々と見て回っても良いだろう。
「先ずは貴方の実験室を見ても?」
「ああ、構わんよ。私は研究をしているから、気になったことは何でも聞いてくれ」
主の気前良い返事に、やっと事柄が進む気配がした。