パットの切望 2
パットはフローベルと共にいつものようにガムの元を尋ねた。
パットには眼前の景色がすべて現実に見えていた。しかし、手で触れることのできるフローベルもパットの瞼を焼く日の光さえ紛れもない偽物だ。パットは夢を見ていた。ずっと見たいと思っていた夢を見ていた。その夢が叶ったのは端末のおかげだった。パットは荷物を一つにまとめようと、上の空で私物を鞄に詰め込んでいた。フローベルはてきぱきと支度し、すでに準備を整え終えベッドに腰を下ろし、落ち着きのない様子で端末を睨んでいた。おそらくガムから送信されたアンドロイドの情報に目を通しているのだ。まだ仕留めなければならない標的となっているアンドロイドは存在する。昨日のうちに、すべてを片付けてはいない為、フローベルの任務は続行中だった。私は彼のサポートとして傍らに立っているつもりだが、彼が私の力を借りようとする事態にはほとんどならないだろう。彼は私に対しさほどプライドが高いわけではないし、アンドロイド相手に遅れを取ることもないと思うのだ。フローベルの体調が万全であることが前提だが、フローベルは何の手応えもなく、与えられた仕事を全うするだろう。たとえ体調が悪くとも、それを表に出さない性分の彼の体調を推し量ることは難しい。パットは荷物を鞄に押し込みチャックを閉め、フローベルに言った。「気分はどう? 昨日はよく眠れたの?」パットは手持ちの栄養剤をフローベルに手渡したい衝動に駆られたが、フローベルが受け取りたがらないことをパットは知っていたので、口がわなわなと震えてしまった。フローベルは極力薬を飲もうとしない。薬を恐れていた。違うと言いたかった。薬は飲み過ぎると危険なだけで、多少飲むことは健康を保つ為に必要なのだ。フローベルは端末に焦点を合わせたまま言った。「よく眠れたから大丈夫だ」君の栄養剤を少しくれないか、と続きの言葉を言って欲しかった。きっとフローベルの体から完全に疲れはとれていないはずだ。いきなり私と一緒の部屋に入れられ、眠ることができたと言うなら、私は複雑な心境にならざるを得ない。フローベルはパットの準備が整ったのを見ると、立ち上がり玄関に向かった。「パットは大丈夫か?」フローベルはネクタイを弄りながら、角に隠れたパットに向かって少し大きめの声をかけた。パットは鬱々とした厭な空気を吸い込み、短く吐息すると返事をし、壁に手を置いてから重い腰を上げた。「うん」パットの言葉が陰鬱な音を含んでいたことにフローベルは気づいたが、何も言わなかった。わざわざ指摘することは面倒で躊躇われたのだ。パットはわざとらしく壁に手をつきながらフローベルの元まで疲労の溜まった頭を揺らしながら歩き、フローベルが扉を開いたところで新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。外は静かだった。廊下の窓から霧の立ちこめる街が見えた。パットとフローベルはエレベーターの方に向かった。パットはどうしても下の階に行くボタンを押したかった。廊下の窓から見えた景色が広がる外の世界に行きたかった。しかし、ここは既に会社の中なのだ。一歩も外に出ることなく、私たちは上階のガムに顔を見せなければならなかった。
パットとフローベルは無言の中、フローベルはすっかり顔を引き締め、唇を引き結び緊張の面持ちだった。パットはフローベルの上司であるのに、彼よりもとても臆病な顔つきだった。アンドロイドを二人殺したとなれば、次はもしかしたらアメーバ退治を頼まれるのではないか。人員不足はどこにでもある問題だ。しかし、アメーバは相手にしたくないものだ。パットは楽なアンドロイドの処理のみをフローベルと共に遂行したいと思っていた。いつか頼まれることになるのは分かっているが、パットはできるだけ避けて通りたい道がアメーバであると思っている。アメーバがエイリアンだと言っている連中が妬ましい。アメーバがエイリアンであるなどと、確証もない話を信じ続けたかったが、実際は違う。ギルバートが考案し、実施させた最低の技術だ。価値のない人間をアメーバに改造し、価値ある存在に変える。アメーバには人間の敵役という重大な価値が与えられ、アンドロイドに生きがいを奪われた失業者たちにアメーバ退治を頼み、擬似的な職を与えることができた。すべてギルバートのやったことだ。誰も彼もがまるでアンドロイドのように言うことを聞いた。もはやこの地球上に人間はいなくなったのではないかとパットは思った。
階上にたどり着くと、いつものようにエレベーターが電子音を立てた。こいつも毎度毎度同じことの繰り返しに飽き足りはしないのだろうか。パットは背後を振り返り、エレベーターの鏡に映る自分の老け顔を見て驚いた。どうやら私には本当に疲労が溜まっているらしい。パットは眉間を軽く指で揉むと、考え事をやめた。ガムの所長室の扉をフローベルが開け放つと、相変わらずのガムが待ち構えていたようににこやかな笑みを浮かべ、ゆったりとフローベルとパットに近づいてきた。「早速で悪いが、一つ君たちに頼まなければならない用件がある。…挨拶はいい」パットが口を開き掛けたところでガムは何も言わせまいと、のべつ幕なし言った。「ある一体のアンドロイドがアメーバと接触を持っているという情報が入ってきている。男のアンドロイドだ。非常に逃げ足の速い男でな。反撃こそしてこないもののなかなか手間取っているらしい。まあ反撃など絶対にできないのだが、しかし相手にした際は気をつけたまえ。アメーバと接点がある以上何かしらを仕掛けてくるかもしれない。何らかの手段で我々に危害を加えかねない。だから優秀だと見越して君たちに彼の即刻排除を頼みたいのだ。今日中が望ましい」フローベルが呆けたように口を挟んだ。「今日中ですか? そもそも私たちはアンドロイド担当者。アメーバを相手にしたことなど一度もありません。優秀だという評価は有り難いですが、それはすべてアンドロイドだからこそですよね?」フローベルはチラチラとパットの方に視線を送り、なぜこうなるのかという説明を求めてきたが、パットすら事情を聞かされていなかった。おそらく先ほど入ってきた上からの指令か、アメーバを担当している会社が一つ潰れでもしたのだろうかとパットは思案を巡らせた。「アメーバを管理している会社からさきほど一報があったのだ。人手が足りないらしい。アンドロイドを受注する金もなく、最小の人の手を借りたいと言ってきた。だからこの我が社の中で最も若々しく気合いの入った能力ある部下を寄越すというわけだ。これ以上これ以下の選択はない。私がそう判断した。向こうにはもう連絡はついている。諦めてさっさと行くのだ。存分に活躍してくるんだな。我が社の信頼の為にも」ガムは意地の悪い笑みを浮かべ、フローベルの背中を押すと、コーヒーポットに近づき、優雅にコーヒーを飲みリラックスし始めた。急かすようなガムの態度を見ては、もう抱えた疑問を彼にぶつける気力もなくなった。パットがフローベルに先に進むよう促すと、苦虫をかみつぶしたような表情をしてパットに視線を投げかけた。所在なさげな彼の態度にパットは何かを言おうと口をパクパクさせたが、結局いい言葉が思い浮かばなかった。アンドロイドの次はアメーバを始末しろと言われ二人とも混乱していたのだ。最後には人間を始末しろと言いそうなガムの顔を一瞥し、パットはそそくさと所長室をあとにした。




