パットの切望 3
アメーバの存在を知ることを許された唯一の機関はミシュコルツにあると知り、パットとフローベルはバスでエゲル城駅まで移動した。移動の途中、エゲル市街を一望できるという丘の上に堂々と居を構えるエゲル城の高く白い城壁が見えた。今も朽ち果てることのない頑丈な城壁の中にはオスマン帝国との間で起こった歴史的なできごとが数多く展示され、しかしこれからあの城壁の中で再び歴史あるできごとが起こることはないのだろうと思うと、悲しくはあった。歴史は風化するかもしれないが、この世は泡沫であり、永遠は存在しない故に美しさという儚きものを永続させるために人類は歴史を繰り返してしまうのかもしれない。エゲル城が日の光によって白く映えた光景と城主であったドボー・イシュトバーンがハンガリー軍を率い、街を守った歴史があの城を美しく魅せていた。歴史もまた重要な要素である。
窓辺に座ったパットはフローベルの本を捲る音に耳をすませて、フローベルの文字を追う目を見て言った。「もうすぐエゲル城駅に着くわ」パットは向かい側の窓から見えるミナレットを見た。四十メートルはある尖塔で、エゲルを象徴する建物と言っていいだろう。バス移動でエゲル城駅に向かったことのないパットにとって窓からの景色は新鮮なものだった。ほとんど会社の中でしか行動していなかったし、外に出ることもほとんどなかった。街を歩く人々も観光客が多いだろう。彼らが人間であるかはまた別の話だが、アンドロイドも芸術に心を惹かれることがあるのだろうか。フローベルは本に目を落としながら言った。「…メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読んでいたんだけど、そこに書かれていた言葉が気になった。『哀れなるかな、人間よ。人間は野獣よりも鋭敏な感受性があることを、なぜ誇るのでしょう? なまじそのようなものがあるだけに、人は満たされることを知らぬのです。人間が餓えと渇きと肉欲しか覚えのないようにできていれば、われわれはほとんど自由だと言ってもいいでしょう。ところが、人間は吹く風にも、ふとしたことばやそうしたことばの伝えてくる情景にも、心を激しく揺さぶられてしまうのです。』人は時たま自身を快楽を満たすことしか脳のない獣だと思うときがあるが、人には理性がある。詩を読んで、心が揺れ、それに応じて人の感情は変化する。しかし、人間であれど理性を失えば、いくら詩を聞かせてやろうとも聞く耳を持たない。これは最近ずっと気になっていた。衝動を抑え、理性を保ったまま行動したその意志に人間としての本質が見えてくる気がするんだ。パットはどう? 欲求の赴くまま行動したとき、それが自分本来の姿だと誤認することがあるんじゃないかな」フローベルは夢想に浸っているのか、虚ろな目でパットの瞳を覗き、言った。パットは小さな声で頷いた。「…そうかもしれないわね。私、以前衝動買いをしたあとから本当に必要だったかなって冷静になって考えてみて、実際いらなかったと後悔したことがある。でも、そのときの私は衝動で物を買ったものだから、私が私として本来欲していたものを買ったんだと思うの」フローベルはパットの若干怯えた目を見て、我に返ったように身を引いた。
急にどうしてそんなことを? とパットの目は語っていた。「ごめん。少し本の世界に没頭しすぎたみたいだ。もう降りるときだ。席を外しておこう」フローベルはそう言うと、鉄の支柱を支えに立ち上がり、窓の外の景色に目をやった。パットは何か勘違いされたことに気づき、フローベルに申し訳なさを感じた。フローベルに対し怯えた訳ではなく、自分に対し怯えたのだ。
パットはフローベルが小脇に抱えた本の内容が気になった。フローベルに頼むと、彼はあっさりと貸してくれた。パットは窓に映る自分の頭を見て、前髪を手ぐしで整えると、猫背になって本を開いた。しかしそこにあったのは彼女の言葉ではない。『休むとき、夢の力が眠りを毒し 目覚めれば、徒然の思いひとつが昼を穢す』。末尾にP・B・シェリー『無常』と記してあった。私は果たして目覚めているのだろうか。それとも休んでいるのだろうか。しかしどちらにおいても私は私自身を毒しているのだ。考えてはいけないことを考え、疑ってはならないことを疑い始めている自覚がある。そのうち、止めなければならないと思っているのだが。
バスから降車するフローベルの背中を追い、パットはエゲル城駅前の地に降り立った。外気は冷たく、冬の到来を感じさせる風が吹いていた。パットは顔を顰め、身震いした。この震えが恐怖から来るものではないと、パットは思いたかった。アメーバに相対する恐怖はアンドロイドに対して抱く感情よりも遙かにおぞましいものだ。得たいのしれない存在でありつつ、奴らは理不尽な暴力を振るうことができる。パットの不安を煽るように風はなびき、エゲル駅が大きな建物であるように感じられた。




