フリックの劣等感
フリックはフローベルが危険人物だと勘付いた。すぐさま彼と距離をとり、逃走ルートを確保しようにも隠れ家は気づかれる恐れがあると考えたフリックは、新たな隠れ家にセキロク病院を選んだ。そこに仲間のリッカードたちを呼ぼうとするが・・・。
フリックは共同体仲間のリッカードに一報を入れた。
「やあ。元気かい? こっちはよろしくやってるよ。そうそう、そう言えばペストの国家警察が動き出したって、ニュースで報じてるの知ってるか?」リッカードは息も継がせぬ勢いで開口一番に言った。こいつ本当に人の話を聞く気ないな。こっちから連絡したのに、そんなことお構いなしにのべつ幕なし喋り始める。
「知らない。それよりも警察じゃない類いの人間に私たちのこと感づかれてるっぽい。もうそろそろ隠れ家を変えた方がよさそう」
フリックはヴァール(王宮の丘)の城壁の外にあるセキロク病院の入り口を見つけると、安堵の息を漏らした。よかった。この廃病院は使われていないようだ。扉から中を覗くと、所々にヘドロのような塊が付着し、不衛生極まっていた。しかし、今は危急存亡と言っても良い状態だ。多少のことには目をつぶるしかない。正直、今の居場所を捨てるのは惜しいのだ。何よりも集まって行動するより、バラバラに散って生活をしていたほうが潜みやすい。さらにここは廃病院だ。風呂もなければ、安眠できるふかふかのベッドもないようだし、最悪の環境だ。
「警察じゃない類いの人間って、どんな連中だ?」とリッカード。
「分からない。ただ気をつけて。もしかしたらグロリアがすでに始末されているかもしれない。彼は尋常じゃない雰囲気をまとっていて、つまりね。一言で言うと、異常だった」フリックは彼フローベルを思い浮かべた。黒く短い髪を神経質そうに弄び、気味の悪い目つきを前方に投げかけていた。おそらく年は十七、八といったところだろう。あんな奴が人間というのか。誰とも関わりたくないと言いたげだった。フローベルと二度と会わないことを祈るばかりだ。もしかすれば、あいつこそがアンドロイドで私たちこそが人間じゃないのか。そうであればどんなにいいことか。私がこの手であいつを殺めてしまっても罪にはならないわけだ。
フリックは病院の扉を開き、中に入った。耳に当てた端末からリッカードの声が聞こえた。
「もしかしてそいつフローベルという名前じゃないか」フリックはその言葉に聞き覚えがあった。
「そう。知り合いなの?」リッカードは何が可笑しいのか鼻で薄く笑った。
「実は数日前に会っているんだよ。彼はそれを覚えていないだろうけど。記憶を消したからね」
フリックは彼の記憶を消したと言ったことに不安を覚えた。何か知られたくない事実を知られてしまったのだろう。そしてやむなくフローベルの記憶を操作することになった。それが仇にならなければいいが。
フリックは病院内のタイルをパキパキと音を鳴らしながら、奥へと進んでいった。猫の子一匹いない。ここでならすぐ彼らに見つかることもないだろう。日の光が差し込まず、辺りは暗い。ひどい腐臭で鼻がひん曲がるが、フローベルに始末されることに比べれば対して、我慢できるものだ。フリックは肩に掛った赤茶色の髪先を梳くように何度も撫でた。手と髪をこすると匂いが立ち、安心する。
「良い隠れ家を見つけたよ。すぐにみんなを連れてセキロク病院に来てくれない?」入院患者が入る個室もあるだろうし、待合室のクッション椅子もひどい色をしているがまだ使えるものばかりだ。当分は困らないだろう。フリックは額の汗を拭い、嫌に暑いなと独りごちた。
リッカードが渋々といった口調で言った。
「わかった。すぐにそちらに向かおう。少し時間がかかるかもしれないが、待っていてくれ」
フリックは彼の返事を聞き終えると、通話を切った。水が滴る音が院内に響いた。水道管が傷ついて、水が漏れているのだろう。他にも探せば欠陥はありそうで、フリックは億劫な気分になりかけた。しかし、いちいち気にしてもいられない。いつまでこの廃病院で身を隠せるか分からない。ただずっと廃病院で暮していると、自分までもが病院と共に腐ってしまいそうだ。
フリックは時折襲ってくる身震いに体を痙攣させながら、院内の上階につながる階段を探そうと思った。腐った塊に嫌悪感を感じる。虫が這っているのを見ると、不快感が彼女を襲った。防虫材の建築物しか存在しなくなった街中に、未だ虫の這う病院があるなんて。フリックは歯ぎしりした。虫は嫌いなのだ。
フリックがエレベーターの動作を確認し、乗り込むと、耳に引っかけておいた端末のコール音が鳴った。
「もしもし、リッカードだ。ヴァールに入った。念のため、フローベルがいないか、確認してくれないか? 僕の監視モードの調子がどうも悪くてね、うまく透視できないんだ」リッカードは呆れた口調で言った。
「あら、女の子の服でも透視しすぎたんじゃないの? この浮気者野郎! バラしちゃうわよ」そもそも私たちアンドロイドは透視システムを組み込まれていない。だが、遙か上空を飛んでいる衛星に搭載された監視システムに家屋やビルの壁や屋根を透視可能な装置が組み込まれているのだ。故に、そこにアクセスすれば「視える」というわけだ。フリックは透視機能のロックを解除したとき、リッカードが怯えた声音をだした。「浮気なんかしてないさ」
「それに女の子の服を透視したところで裸だ。裸なんてバーチャルで存分に見れるし、ほら、僕は裸よりも着衣のほうがモえるんだよね」後半の声がやや端末から遠くなったのはおそらくフリックではなく、側にいる仲間に言っているようだ。「気持ち悪くて最低ね、何の話してるの」と女性の声。この声はレイだ。フリックはエレベーターから降り、二階にある個室を順繰りに見ていこうか、と思った。
「それよりどうなんだ? フローベルの居場所、彼はどこにいる?」リッカードはすぐ真摯な声音に戻って言った。フリックはヴァール(王宮の丘)方面を見上げ、彼らの所在を確認した。彼らはギルバート教会からずいぶんと離れていた。国立ダンス劇場の黄色い洋館の側道に見覚えがある人影が立っているのが見えた。左からレイとリッカードの二人だけだった。再会してから積もる話がありそうだ。
フリックが視線をグンと左に傾け、三位一体広場を見ると、フローベルがセーチェニ図書館方面に歩いているのが見えた。まずい。このままだと、あと数分で彼らは鉢合わせするだろう。すぐに来るように呼んだほうがいい。
「いますぐ来て。フローベルがそっちに向かってる。あと数分でたどり着くと思う」焦る気持ちが喉元でつっかえる。フリックは早口で伝えた。リッカードは瞬間に返事をした。
「了解した。すぐそちらに向かおう。待っていてくれ。フリック」リッカードは躊躇いがちに通話ボタンの上で指を泳がせたあと、通話を切った。
フリックは通話が切れたのを確認し、耳に取り付けた携帯端末を取り外した。それをポケットにしまい込もうとしたのだが、すべって手から落ちてしまった。すべって。手汗がひどかった。フリックは側頭部を手で押さえつけた。ふらふらする。立ち眩みだ。フリックは以前言われた酷い扱いを思い出した。「このすべため! 何度言ったら分かるんだ! お前は本当に碌でなしのオンボロ中古だ。使い物にならん」いつだってミスは人間にあるんだ。システムも機械もミスを起こすことなんてない。いつだってそうだった。機械(私たち)に間違いがあるなら、それはいつだって人間の操作ミスだった。あいつは必ずこの手で殺してやる。ガムと名乗ったあの禿げ面の中年オヤジが私を見るときの、あの玩具を見るような目玉が憎い。
フリックの体はオーバーヒートを起こし、全体の熱が急上昇していた。幸い病院の個室にいたフリックはその場に四つん這いになるとベッドに駆け寄り、シーツを掴もうと空中を掻いた。フリックはシーツを引っ張り巻き込むように地面に落とした。体が溶けるように熱い。汗が大きな水滴となって雨のように床に滴り落ちていた。シーツをかき寄せ、体を拭くとねっとりした不快感は一時的に散っていった。
ガムは異常なコレクターだ。だからこそアンドロイド管理会社を設立するに値する人間になったのだろう。きっと彼の自室には溢れるほどのアンドロイドがいるに違いない。もしかすれば、お気に入りの一人だけを抱いて寝ているのだ。フリックは自分の赤茶色の髪を撫でるように手に収めた。私が私でいるために私の髪は頭皮についているのだ。失うのが怖いといつも考える。何よりも失いたくないものだ。
フリックはリッカードらが来ているかを確認しようと、上体を寝かせて透視モードに移行させた。景色は歪んだレンズを覗いたように色が混ざり、物体の輪郭が壊れていた。ぐわんぐわんと奇妙な音が耳奥で鳴り響き、熱が猛威を振るっている、とフリックは指を耳穴に突っ込んだ。壁の向こうに人影が見えた。フローベルだ。
フリックは端末を拾い上げ、耳に取り付けた。リッカードに知らせようと、電話帳に入力処置を行ったとき端末から音声が流れた。朦朧とする意識の中、音が途切れ途切れに入ってきた。
「人体に有害な外的侵入を…しました。致死性の自律促進型システムはまもなく…。分子運動を停止中…検知へのアクセスルートを解析した…高度な知的…関与している。機械はエントロピーを形成し…」
フリックは燃えるように熱くなった体を床に横たえたまま動くことができなくなった。四肢がだらりと力を失ったように崩れ、フリックは思った。力が入らない。もう私もここまでか。こんな腐った場所はまっぴらごめんだったのに、もはや古くさくなった体にはお似合いなのかもしれない。ギルバートがこの世は不条理だとよく言っていた。ギルバートは元は人間だったのだ。彼女は妬ましいほど美しい容姿をしていたのに、それをあっさりと捨ててしまいアメーバとなった。おそらく自分がいくら整形しようとギルバートの美しさは手に入らない。それは彼女自身を表していたのに、彼女はそれを自ら捨てたのだ。フリックは自分が高校生のときの日々を思い出していた。彼女の言ったことが一言一句頭から離れないのだ。
「おはよう。ギルバート」教室に入ると、グロリアとギルバートがドアのすぐ脇に立っていた。グロリアは「おはよう」と挨拶を返すとフリックを悲壮な目で眺めたあと、目を伏せた。フリックが彼女らの視線の向かう床に目をやると、銀髪の切れ端が散っていた。誰かにやられたんだ。フリックはつと教室の窓側、掃除用具入れがある片隅に目をやった。見覚えのある三人の女子生徒がいた。
「あいつら…」とフリックが怒りの矛先を彼女らに向けると、グロリアがそれを制するように言った。
「やめてよ。あの子たちこれ以上するつもりはないだろうし、行っても刺激するだけだよ」フリックはグロリアの心なさに驚いた。ギルバートが静かに笑いながら続けて言った。
「私も大丈夫だから。フリックみたいに髪にはこだわってないし、私が気をつけなかったのが元凶だから」
ギルバートは嘘を言っていないようだった。フリックは躊躇い、教室の片隅に向けていた刺すような視線をギルバートに向けた。喉元まででかかった悪意を何とか飲み下し、言った。
「何があったの?」とフリック。それにグロリアが答えた。「ちょっと先生と話してただけみたい。あいつエリートで才色兼備だから人気あるんだろうな。あんな熱狂的なファンまでいるんだから」
「狂ってるよ、そんなことで傷つけようとするなんて」フリックは顔を歪め、「やっぱり…」と付け足した。しかし、ギルバートは首を振った。
「どうして? 私には分からない。悪いのはあいつら! それで決まりでしょう?」フリックは目元に涙が溜まるのを感じた。だめだ、涙なんか見せたくない。フリックがきつく唇を噛むと、ギルバートは腰を屈めてフリックの息づかいが感じられる距離まで詰めて言った。
「私たちは思春期を生きているの。感じやすくて、特にフリックは短絡的な思考に至りやすい。もっと考えて。とてもじゃないけど、私には私を傷つけたあの人たちが人間には見えない。人の話が通じるとは思えないわ」ギルバートが顔を離し、姿勢を元に戻したとき昼休みのベルが鳴った…。
これが私の中に刻み込まれた記憶なのだろう、とフリックは思った。共に転がった端末から未だ音声は流れ続け、ついに止まった。「故に対抗手段はありません」




