【カルテ002】患者:ミノタウロス(引きこもり)
新宿ダンジョンの第十八階層。
本来であれば、ここは複雑に入り組んだ『石造りの迷宮エリア』であり、日夜多くの探索者たちがマッピングに励みながら攻略を進める場所だ。
しかし現在、迷宮の入り口付近のセーフエリアには、数十人もの探索者たちが足止めを食らい、苛立ちの声を上げていた。
「おい、どうなってんだよ! もう三日だぞ!?」
「ボスが通せんぼしてて、先に進めねえんだよ! あんなの聞いてないぞ!」
彼らの視線の先、迷宮へのただ一つの入り口である巨大なアーチ状の門。その薄暗い門の奥に、本来なら階層の最深部で待ち構えているはずのボスモンスターが陣取っていた。
牛の頭に隆々とした筋肉を持つ巨人の体。手には身の丈ほどもある巨大なバトルアックスを握りしめている。第十八階層の主、ミノタウロスだ。
だが、その様子はひどく異様だった。
「モォォォ……ッ! こっちくんなぁぁ……ッ!!」
ミノタウロスは巨大な戦斧をめちゃくちゃに振り回しながら、門の奥の薄暗い影にうずくまっている。その巨体はガタガタと震え、探索者たちが少しでも近づこうものなら、目を固く閉じたまま半狂乱になって斧を振り下ろすのだ。
「ダメだ、近づけねえ! あんなデタラメなフルスイング、タンクでも即死だぞ!」
「魔法で遠距離から狙え!」
「バカ、あいつ魔法耐性が異常に高いんだよ! 物理で削るしかないのに、あの引きこもり状態じゃどうにもならねえ!」
強引に突破しようにも、通路が狭すぎて数の暴力が通用しない。かといって放置すれば、下層へのルートが完全に塞がれてしまう。
探索者たちが頭を抱え、半ば攻略を諦めかけていたその時だった。
「──お待たせしました。少し道を開けていただけますか?」
ざわめく探索者たちの間を縫って一人の青年が歩み出てきた。真っ白な白衣に身を包み、片手には銀縁のバインダー。その後ろには、トコトコと短い足でついてくる、赤いトカゲ……いやよく見れば、小さなレッドドラゴンを連れている。
Sランク探索者にして精神科医。新城京介である。
「お、おいアンタ! 医者がこんな最前線に何しに来た!?」
「気を付けろ! あの化け物マジでヤバいぞ! 完全に狂ってる!」
警告する探索者たちに対し、新城は優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。彼は狂っているわけではありません。少しだけ、外の世界が怖くなってしまっただけですから」
新城はバインダーを小脇に抱えると、怯える探索者たちを背に、ミノタウロスが立てこもる薄暗いアーチへと一人で歩みを進めた。
足元のミニドラゴン──新城のクリニックで療養中の『レッド』も、心配そうにキュる?と鳴きながら後をついてくる。
「シューッ! シュゴォォォッ!!」
新城が近づく足音を聞きつけ、暗がりの中でミノタウロスの鼻息が荒くなった。巨大な戦斧が、風を切り裂くような轟音とともに闇雲に振り下ろされる。
ガンッ!!
しかしその一撃は、新城の目の前に展開された半透明の魔法障壁『防音・防壁』によって容易く弾かれた。
「ひぃぃっ!? こっち見んな! あっちいけぇぇ!!」
翻訳魔法を通さずとも伝わってくるほどの悲痛な叫び。ミノタウロスは弾かれた斧を抱きかかえるようにして、さらに壁の隅へと巨体を丸めた。両手で頭を抱え、自分の耳を塞いでいる。
新城は障壁越しにその様子を静かに観察した。
「極度の光への忌避反応。広い空間へ出ることを極端に恐れ、狭く暗い場所に執着している。それに、他者の視線に対する過剰な防衛反応……」
新城はペンを走らせながら小さく頷いた。
「診断は明確ですね。『広場恐怖症』と、それに伴う『社交不安障害《対人恐怖症》』の併発だ」
迷宮という開けた空間。いつどこから冒険者が現れるか分からない環境。倒しても倒しても自分の命を狙う見知らぬ人間たちが、ギラギラとした敵意の目を向けてやってくる。
知能の高いミノタウロスにとって、それは終わりのない公開処刑のようなものだったのだろう。結果として彼は、迷宮の広大なエリアを放棄し、一番狭くて暗い「入り口のアーチ」という閉鎖空間に引きこもってしまったのだ。
「怖いですよね、外の世界は。あなたを傷つけるものばかりに見える」
新城は翻訳魔法を起動し、ミノタウロスの脳内に直接穏やかな声を届けた。
ビクッとミノタウロスの巨体が跳ねる。
「広い場所に出ると、どこから見られているか分からない。見知らぬ人が自分を品定めして武器を向けてくる。だからここから一歩も出たくなかったんですよね」
「……ウゥゥ……モォォ……」
ミノタウロスの喉から、威嚇ではなく、すがりつくような泣き声が漏れた。戦斧を抱きしめる力が強まる。それは彼にとって、唯一の精神安定剤《お守り》なのだ。
「無理に外に出なくていいんですよ。ただ、ずっと暗いところにいると心まで冷え切ってしまいます」
新城はゆっくりと魔法障壁を解除した。一切の防御を解き、丸腰のままミノタウロスの目の前まで歩み寄る。
背後で見ていた探索者たちが「バカッ、死ぬ気か!」と悲鳴を上げたが、新城は振り返らない。
「あなたはもう迷宮の主として十分に戦いました。これからはもっと狭くて静かで、誰にも脅かされない場所で休んでいいんです」
新城は白衣のポケットから一本の小さなガラス瓶を取り出した。中には淡いオレンジ色に発光するシロップが入っている。
「さあ、お薬の時間です。これを飲めば、胸のつっかえが取れて、少しだけ深呼吸ができるようになりますよ」
それは錬金術で精製された特効薬、『超即効性・錬金抗不安薬(ベンゾジアゼピン系アルケミーブレンド)』だ。過剰に反応している脳の扁桃体の興奮を鎮め、恐怖と不安を取り除く効果がある。
ミノタウロスは震えながらも、新城の穏やかな瞳と敵意の一切ない声に安心したのか、ゆっくりと顔を上げた。そして、恐る恐る差し出されたシロップを舐め取った。
ポワァァァァン……。
直後、ミノタウロスの巨体を温かなオレンジ色の光が包み込んだ。こわばっていた筋肉の緊張が解け、荒ぶっていた魔素がスーッと落ち着いていく。
「モォ……」
光が収まった後、そこに八メートルの巨人の姿はなかった。代わりにいたのは、体高一メートルほどの、モコモコとした長い毛並みを持つ小さな子牛だった。スコットランドのハイランドキャトルのような、前髪で目が隠れるほどの凄まじいモフモフ感だ。
極度のストレスから解放され、防衛のために肥大化していた肉体が本来の姿に戻ったのである。
子牛はきょとんとした後、トテトテと新城の足元に歩み寄り、その白衣に顔を擦り付けた。前髪の隙間から見えるつぶらな瞳には、もう人間への恐怖は映っていない。
「うん、よく頑張りましたね。とても良い子だ」
新城はしゃがみ込み、モフモフの頭を優しく撫でた。隣では、先輩患者であるミニドラゴンのレッドがキュると鳴いて、子牛の鼻先をペロリと舐めて歓迎している。
「よしよし。うちのクリニックの奥に、君が安心できる暗くて狭い専用の小部屋作ってあげましょうね」
新城はバインダーを開き、新しいカルテにペンを走らせた。
『患者番号002:ミノタウロス/主訴:外出困難、対人恐怖、極度の不安発作/処置:共感的な対話による安心感の付与、および錬金抗不安薬の投与/経過:良好。今後は当院の閉鎖的で安心できる環境にて、ゆっくりと社会復帰を目指す』
「さて、今日の往診はここまで。帰って温かいミルクでも飲みましょうか」
唖然として立ち尽くす数十人の探索者たちをよそに、新城は足元にレッドドラゴンとモフモフの子牛を従え、のんびりとした足取りでダンジョンを後にするのだった。
こうして第十八階層のボスは、討伐ではなく通院という形で無力化され、迷宮のルートは無事に開通したのである。




