【カルテ001】患者:レッドドラゴン(うつ病)
新宿副都心。かつて高層ビル群が立ち並んでいたその場所は、今や巨大なクレーターとなり、奈落へと続くダンジョンの入り口となっていた。
迷宮化現象が世界中を襲ってから十数年。人類は未知のエネルギー『魔素』と、凶悪なモンスターの脅威に晒されながらも、シーカーと呼ばれる覚醒者たちの力によって、なんとか社会の均衡を保っていた。
血の匂いと焦げた肉の臭いが立ち込めるダンジョン第十七階層。薄暗い洞窟の奥から、地鳴りのような咆哮が響き渡る。
「くそっ! 前衛、盾を構えろ! またブレスが来るぞ!!」
ボロボロになった鎧を纏うAランク探索者の男が、血を吐くような声で叫んだ。彼らの視線の先には、絶望の象徴が鎮座している。
全長十メートルを超える巨躯。全身を覆う深紅の鱗。第十七階層のボスとして君臨する業火の飛竜・レッドドラゴンだ。
だが、その様子はどこかおかしかった。
通常、ドラゴンは誇り高く、理路整然と獲物を追い詰める。しかし目の前の竜は、ただただ周囲の岩壁に頭を打ち付け、空気を焼き尽くすほどの無差別な炎を吐き散らしている。まるで、「見えない何か」に怯え、パニックに陥っているかのように。
「ダメだ、撤退しろ! あんなデタラメな攻撃、まともに受けたら灰になっちまう!!」
歴戦の探索者たちが絶望に顔を歪め、逃げ道を確保しようとしたその時だった。
「お疲れ様です。あとは僕が引き継ぎますよ」
場違いなほどに穏やかで、落ち着いた声が洞窟内に響いた。
探索者たちが振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。年は二十代半ば。剣も杖も持たず、着ているのは防御力ゼロに等しい真っ白な白衣。片手には銀縁のバインダーと、黒い万年筆を握っている。
「なっ……お前、誰だ!? ここは一般人が来る場所じゃ──」
「新城です。一応、Sランクのライセンスは持っていますのでご安心を」
新城と名乗った青年は、白衣のポケットからチラリと黄金に輝く認識票を見せた。
「Sランク」世界に数十人しか存在しない国家最高戦力。
しかし、男の風貌からは圧倒的なオーラも、闘争心も微塵も感じられない。
「それより、急いで地上に戻って応急処置を。皆さんのアドレナリンが切れる前に」
新城は怪我人たちを優しく促すと、ゆったりとした足取りで、暴れ狂うレッドドラゴンの待つ広間へと歩みを進めた。
「おい、待て! 武器も持たずにどうする気だ!?」
「武器ならありますよ」
新城は白衣のポケットをポンポンと叩いた。
「最新の医療と、適切な処方薬がね」
ゴオオォォォォォォッ!!
新城が広間に足を踏み入れた瞬間、レッドドラゴンが彼を視認し、威嚇の咆哮とともに巨大な火球を放った。迫り来る死の熱線。しかし新城は避ける素振りすら見せない。
「パーテーション」
新城が指を鳴らすと、彼の目の前に半透明の魔法障壁が展開された。火球は障壁に激突して四散し、新城の白衣の裾をわずかに揺らすだけで消滅する。
「うん、やはりそうだ。威嚇にばかりエネルギーを使って、照準が全く合っていない」
新城はバインダーにペンを走らせながら、ドラゴンの様子を冷静に観察した。物理で殴り倒す? 魔法で消し飛ばす? そんな野蛮なことは彼の専門外だ。彼の職業は『精神科医』である。
「鱗の艶が極端に落ちている。グルーミングをする気力すら湧かない状態か。……それに、さっきから翼を丸めて、急所である腹部を隠すような姿勢を取っている。攻撃的というより、極度の防衛本能の暴走ですね」
新城はバインダーを閉じると大きく息を吸い込んだ。そして、魔力を声帯に集め、『翻訳の魔法』を乗せて語りかける。
「辛かったでしょう。ずっと一人で抱え込んでいたんですね」
その言葉は、物理的な音ではなく直接ドラゴンの脳内に優しく響いた。ピタリとドラゴンの動きが止まる。巨大な爬虫類の瞳が、戸惑ったように新城を見下ろした。
「グルル……?」
「毎日毎日、見知らぬ人間たちが武器を持ってあなたの部屋に押し入ってくる。倒しても倒しても、また次の日には新しい人間が来る。ここはダンジョンのボス部屋。休まる暇なんて一日たりともなかったはずだ」
新城はゆっくりと、敵意がないことを示すように両手を広げながら近づいていく。
「魔素の濃度が高いこの階層で、絶え間ないストレスに晒され続ければ、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れるのは当然です。セロトニンが枯渇し、常に交感神経が優位になって、不安で不安で仕方なかった。だから近づくものすべてを燃やすしかなかったんですよね?」
「ガァァ……ッ、アァァ……」
ドラゴンの喉の奥から、先ほどの怒りに満ちた咆哮とは違う、ひび割れたような悲鳴が漏れた。その巨大な瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
そう、モンスターたちも生き物だ。特に高位のモンスターほど知能が高く、それゆえに心を病む。
彼らはただ凶悪なわけではない。濃密な魔素による脳への悪影響と、ダンジョンという閉鎖空間での過酷な労働環境《防衛》によって精神に異常をきたし、防衛本能が暴走してしまった哀れな患者なのだ。
このレッドドラゴンの診断名は『重度のうつ病、およびパニック発作を伴う適応障害』
「もう大丈夫ですよ。あなたは十分にボスの役割を果たしました。これ以上、頑張らなくていいんです」
新城はドラゴンの巨大な鼻先にそっと手を触れた。驚くべきことに、あれほど暴れ狂っていた竜は、新城の手のひらにすり寄るように目を閉じ、子猫のような喉を鳴らした。
「さあ、お薬の時間です。少し苦いかもしれませんが、すぐに楽になりますよ」
新城は白衣のポケットから、ソフトボールほどもある巨大な試験管を取り出した。中には錬金術の粋を集めて精製されたピンク色の液体が波打っている。新城の特製『超高濃度セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)ドラゴン用ブレンド』だ。
ドラゴンが大人しく口を開けると、新城はその薬液を流し込んだ。
直後、ドラゴンの身体を淡い光が包み込んだ。過剰に分泌されていたストレスホルモンが薬効と魔力によって中和され、暴走していた魔素の波長が穏やかなものへと書き換えられていく。
「キュルル……」
光が収まると、そこに十メートルの巨竜の姿はなかった。代わりにちょこんと座っていたのは、大型犬ほどのサイズまで縮んだ、つぶらな瞳の赤いトカゲ……いや、ミニサイズのレッドドラゴンだった。
過剰なストレスと魔素の暴走が収まったことで、本来の無害な姿へと戻ったのだ。ミニドラゴンは新城の足元にトコトコと歩み寄ると、その白衣の裾をきゅっと掴み、安心しきったように丸くなって寝息を立て始めた。
「うん、よく効きましたね。しばらくは抗うつ薬の服用と十分な休養が必要です。うちのクリニックの庭、少し手狭だけど君なら飼えるかな」
新城は眠るドラゴンの頭を撫でながら、バインダーに新しいカルテを挟み込んだ。
『患者番号001:レッドドラゴン/主訴:不眠、気分の落ち込み、過剰な防衛行動《無差別ブレス》/処置:カウンセリングによる心理的負荷の軽減、および錬金抗うつ薬の投与/経過:良好。今後は当院にて保護観察、および社会復帰に向けたリハビリを行う』
「さて、今日の診療はこれでおしまい。帰ってカルテの整理をしないと」
新城は足元で眠るドラゴンをひょいと抱き上げると、まるで散歩から帰るような軽い足取りで、ダンジョンの出口へと向かって歩き出した。
剣戟も魔法の爆発も必要ない。「対話と医療」それこそが、Sランク探索者・新城京介の最強の攻略法なのだ。
明日もまた、彼のクリニック(ダンジョン)には、心を病んだ迷えるモンスターたちが救いを求めてやってくるのだろう。




