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第3話 魔の創造

異世界二日目の朝。


鳥の声で目が覚めた。

聞いたことのない、ころころと転がるような甲高い鳴き声だった。


アクロスはゆっくりとまぶたを開けた。


焚き火はとっくに白い灰になり、大木の根元に薄く朝靄がかかっている。

二つの太陽が東から並んで昇り、森の縁に斜めの光が差し込んでいた。


体を起こし、大きく伸びをした。

腰も、肩も、膝も、何ひとつ軋まない。

二日目になっても、この体の軽さは驚くほど新鮮だった。

もう四十三のおっさんの体じゃない。


「……今日も生きてんな、俺」


ぽつりと呟いて、ふっと笑う。


小川まで歩いて顔を洗い、水に映る新しい顔を眺める。


昨日から生えている、自分の角に触れてみる。にんまりと笑顔。

ちょっと怖いけど今日もかっこいい。


今の主食。赤紫の実を二つ齧る。

相変わらず甘くてうまい。


三口目で、早くも一個目が終わる。

もぐもぐと口を動かしながら、斜めに差し込む光を見上げた。


白い太陽が東の木々の上に顔を出し、少し遅れて金色の太陽が追いかけてくる。

二段階で夜が明ける世界。

木漏れ日が地面にいくつもの白い斑を描いていた。


「さて、と」


果実の種を草むらに投げ、掌をぱんと叩く。


「今日は、やることがあるぞ」


昨夜、焚き火を魔法で灯した。

あの小さな黒紫の種火は、間違いなくこの世界で初めて自分の力で起こした魔法だった。


昨日は五感で世界を感じた日。

そして今日は魔法を存分に堪能する日にしよう。


スキルの★3。それでどこまで何ができるのか。それを知らなきゃ何も始まらない。


---


まず取りかかるべきなのは、変身魔法だ。

自分の顔を見た時から思った。


青みがかった肌。額の角。オッドアイ。腕の魔紋。


どこからどう見ても魔族だ。自分的には最高なんだが、このままでは問題もある。


ファルティシアの言葉が耳に残っている。


「人間たちは魔族を恐れ、蔑み、排斥する」


いずれは町へ行こうと思っている。町へ行けば当然、人間と関わる。

そのためには、人間に化ける手段が必ず必要になる。


「魔の創造のスキルで……変身魔法を作ってみる。いけるか?」


目を閉じ、胸の奥から感じる自分の力に、問いかけるように意識を沈めた。

昨夜の焚き火の時と同じ。胸の中心に三つの力が脈打っている。


そのうちの一つ、魔の創造に意識を向ける。


頭の中に問いかけが浮かんだ。自問自答するように。

どんな力を創るのか? どんな効果を生む? どのような理屈で?


なるほど。魔の創造は――設計だ。

仕様を決める。要件を詰める。スペックを組む。


まるで設計書の空欄を埋めるような感覚になる。

製造業の製品仕様書、現場の制作図面。あれに似ている。

イメージを言語化し、図面として落とし込む作業。


外見を人間に変える。肌の色、耳の形、瞳の色、角、魔紋。魔族の特徴全部を隠す。

服も変える。目立たない旅人の格好。

元の自分——佐伯航をベースにした、普通の人間のおっさん。


設計がじわりじわりと固まっていく感触がある。

だが途中で何か言葉にできない引っかかりを感じた。


コップ一杯の水を飲みたいのに半分も入っていない。そんな感覚。

もっと注ぎたいがもう水はでてこない。もどかしい気持ち。

自分の望む本来のイメージには力が足りず、完璧な変身はきっと無理だと実感として理解する。


それでも——カチリ、と何か歯車が噛み合うような感覚を覚えた。


今だ。自然とアクロスは声に出した。


変身シフト


薄い光が全身を包み、体が何か薄いカーテンのようなものに覆われる感覚がある。


アクロスは近くを流れる小川に駆け寄る。


そして水面で自分の姿を確認してみる。


映ったのは——あの顔だ。佐伯航、四十三歳。ただのおっさん。

肌はちゃんと人間の色。魔紋は消え、耳は丸く、瞳は両目とも焦げ茶。

やや長めの黒髪に白いものが混じり、加齢による皺を感じ始めたあの顔。


服も濃い茶色の麻シャツに灰色のズボン、革のベストに変わっている。


「いやこれ…休みの日に釣りに行く時の俺じゃん…」


なんだかまた前の世界に戻った気がした。


だが目を凝らしてよく見ると、耳の先端がほんの少しだけ尖っている。

完全には丸くならないようだ。


そして瞳もよく見れば、焦げ茶の奥にうっすらと琥珀と紅が透けている。

角も——触ってみると…ない。消えている。ここは成功か。


「さすがに角が隠れなかったらどうしようもないもんな。頑張ったほうだと思う」


一回解除してみる。

ふわんと体が光に包まれ、すぐにイケてる魔族姿に戻れた。


そして再変身。ふわんとまた光が体が覆い、釣りに出かけるおっさんの姿になる。


切り替えはかなりスムーズだが、維持するのに魔力を使っているのだろう。

ぼーっと歩いている時くらいのなんとも言えない疲労感がある。

これが長時間になると消耗を感じるかもしれない。


「練習すれば上手くなっていくのかな。とりあえずはこれで十分か」


変身を解いて自分の額に手をやる。角が戻っている。さわさわと撫でる。

角を触る癖がつき始めてる。魔族は皆そうなのかなとアクロスは思った。


---


「よし。次は攻撃魔法だ。

楽しみだな…我が魔法、一体どれほどのものか…くくく」


いざ魔法を使うとなるとテンションが上がって変なスイッチが入ったようだ。


昨夜はライターの火ほどの小さな炎しか出さなかった。

今日は本気で試す。


滝の近くの少し開けた場所まで移動し、正面の太い木に手を出して、狙いを定める。


右手に意識を集中する。そしてイメージする。

ファイアーボールだ。最初の攻撃魔法と言えばやっぱこれだろ。


昨夜の感覚を思い出しながら、もっと大きく、もっと強く。イメージを強くする。


掌に黒紫の炎がぼわんと現れる。大きさは拳大ほど。

昨夜の種火とは段違いの熱量。顔に熱気が当たる。普通に熱い。

だが手は何故か熱くない。

炎が出ている右手は魔力で守られているということだろうか。


もっと出力を上げてみる。

バスケットボール大まで膨らんだところで、黒紫の炎に異変が起こる。

炎の輪郭がぶれ、大きくなったり小さくなったり。

さっきまで熱くなかった手や指先がじりっと熱く、焼けそうになる。


「あちち……このサイズくらいまでが自分でコントロールできる限界ってことか」


テニスボールほどにサイズを絞り直して、正面の木にポイっと軽く投げてみた。


「くらえっ、ファイアーボール」


アクロスは少し恥ずかしそうにぼそっと呟いた。


ボォン。


思ったよりも轟音。アクロスはびくっと体が縮こまった。


木の幹が焦げ、その表面が炭化してしゅうしゅうと煙が立っている。


「おぉ……これは怖いな。なんて危険な魔法だ…

いやいや。攻撃魔法だもんな…これでいいのか」


心臓がドキドキしている。でも慣れないとな。


自分で撃った魔法に自分がびびってるのはさすがにカッコ悪い。


現場監督時代、溶接の火花が飛ぶのを毎日見ていた。

あれも最初はちょっと怖かったけど慣れれば何とも思わない。


そうなれるのかな。溶接の火花なんかより全然危ないけど。


---


「よし、次だ。どんどんいこう」


次は左手に氷の槍をイメージしてみる。

右手からは炎、左手からは氷。何かで読んだかっこいい魔法。


アクロスはそんな魔法の使い方をしてみたいと思った。

とりあえず次は左手をやってみる。


イメージする。鋭い氷の槍。ツンツンにとがった危険な投擲物。

左手からひんやりとした冷たい風を感じる。

そしてパキパキ…と音を立てながら氷が鋭く形成されていく。


二十センチほどの大きさにはなるが、三十センチを超えてくると

先端からぼろぼろと氷の槍が崩れていく。密度が保てないようだ。


「とりあえずここまでか…とりゃっ」


二メートル程離れた木に向けてやり投げのように放り投げてみる。


とすっ。


ちゃんと木には刺さったが、深さは三センチ程度。


「これでもダメージは与えれそうだけど。氷をしっかり固めるのが難しいな」


そして次は風の刃。しっかりイメージして右手で薙いだ。

空気がしゅううと音を立て、刃になって進んでいくのを感じる。


すぱん。


茂みの枝を数本切り落とした。


五メートル程か。結構飛ばせるな。静かで便利。

だが太い幹は切れないようだし、七メートルほどで霧散するのがわかった。


今度は土魔法。これはファンタジーものでは防御にも使えて建造物の建設にも使えるやつだ。


地面から壁がせり上がるイメージ。

両手でぐっと押し上げるように魔法をイメージする。


ずごご。


膝の高さまでは簡単だが、腰を超えると速度が落ちて、ぼろぼろと壁が崩れる。

壁というよりは土嚢のようだ。


「うーん。もう少し練習しなきゃな。今でも敵の足止めくらいはできるか…」


最後に雷。指先から雷が放たれるイメージ。撃ってみる。


ばちっ。


これではもうただの静電気。


「いたずらにしか使えなさそう…。課題がいっぱいだな…」


---


「ふぅ、魔法って結構疲れるな…。集中力と精神力が大事なんだろうな」


岩に腰を下ろして小休止する。


「これは★3がどうとかじゃないな。

まだまだ俺自身が魔法に対する知識も理解も足りてないんだろうな」


それがわかっただけでも今日の成果だ。一歩ずつ少しずつ。

地道にやっていくか。


「戦いになっても力任せでなんとかするってのは今は無理だろうな。

頭を使ってやっていくしかないか」


顎に手を当てて考えてみた。


「……いや、それもそんな得意じゃないんだけどな」


自嘲気味に笑った。でもまあ、仕方ない。これが今の自分の実力だ。


---


それからもう二つ、試してみた。


身体強化の魔法。

これもファンタジーもの定番の魔法。

敵をパンチで一撃。そして殴られてもにやりと一言。効かねえよ。

そんなイメージの魔法だ。


魔力を体中に循環させるイメージ。血液に乗せるように、筋繊維に染み込ませるように。しっかりと魔力を全身を巡らせる。


じわり、と体が温かくなってきた。

五感で感じる情報に変化が出てきた。


視界がクリアになる。遠くまで見える。音がより鮮明に聞こえる。

風が木の葉を揺らす動きが見え、一メートル先の落ち葉の中で虫が這う音が聞こえた。


「これは、使えるな。すごいぞ…

普通の人間との殴り合いくらいなら余裕で勝てそうだ」


少し力を入れて足元の岩を拳で殴ってみる。


どすん。


普通なら拳が砕けるが痛くない。そして…ぱきぱき、と岩にヒビが入った。


「めちゃくちゃいいじゃん。ちゃんと強化できてる。

そんな最初から超人にはなれないのわかってる。けど普通の人間の膂力は十分超えてる」


走ってみると、昨日の全力疾走より確実に速い。木の根を跳び越え、枝を避け、狭い隙間をすり抜ける動きが自然にできる。


いいと思う。でも強そうな魔物や怪物に通用するかはちょっと微妙なところだ。


もう一つは探知魔法。

魔力を波紋のように放射して、周囲の生命反応を感じ取る。

とても便利。これも定番。


目を閉じて意識を広げた。


「……見え――いや、感じるな」


半径百メートル。ぼんやりとだが、生命反応が頭の中に浮かぶ。

小動物が七、八匹。鳥が多数。大型の獣が一頭、八十メートルほど東にいる。


「百メートルか。近距離の索敵なら使える」


背後から何かが近づいたら気づける。食料になりそうな獣も探せる。

これは常時意識して使えるようにしておきたいな。


「……折角見つけたんだ。あの大型の獣、狩って食えるかな」


ぐぅう、と腹が鳴った。二日間果物しか食べてない。

肉が食いたいな。


肉を食べるには狩りをしなければいけない。

だが狩りなんてしたことはない。一人より、仲間がいたほうがいいよな。


その瞬間、アクロスの頭にあるアイデアが浮かんだ。


---


滝壺の前の平たい岩に座って、水を飲みながら考えた。


魔の創造。


このスキルは魔法だけじゃない。魔物も創れる。


ファルティシアは「★3では中級の魔法と小型の魔物が限界」と言っていた。

知性ある魔人は作れない。というかいきなり魔人なんか出てきたら怖すぎる。


だが動物レベルの魔獣なら——


「……相棒的な、存在がいた方が心強いよな」


ぽつりと呟いて、自分の膝を眺める。


昨日一日、草原と森を気ままに歩いた。

すごく楽しかった。正直、心が洗われた。


だが同時に、誰かに話しかけたくなる瞬間が、何度もあった。

あの三耳の兎もどきを撫でていた時も。

滝の前で夕日を眺めていた時も。


「……やっぱり話し相手が、欲しいんだろうな」


素直に認めた。


四十三年間、周りに人がいる生活をしてきた男だ。

急にぼっちの異世界に放り込まれれば、そりゃ寂しくもなるだろう。


「やってみるか…魔の創造。生命を、創る」


早速、イメージを固めていく作業に入る。

胸の奥。自問自答をする。生命を創る。これはとんでもない話だ。


責任を持って―――――真剣に考えよう。


相棒といえば…やっぱり犬?——いや、こういう世界なら狼だ。

その方がかっこいい。


頭に浮かんだのは子供の頃から好きだった、北欧神話。何故か。

あらゆるネーミングがいちいちカッコいいからだ。

北欧神話に出てくる狼。マーナガルム。うん。すでにカッコいい。


月を追う魔狼。闇を駆ける獣。


もちろん本物のマーナガルムのような巨大な怪物は今の俺では作れないだろう。

だから子狼。マーナガルムの末裔のような、小さいが潜在力を秘めた幼い魔獣。


黒い毛皮。紫の瞳。俺と一緒に成長する存在。

偵察ができて、鼻が利いて、忠実で、賢い。そして人懐こい。

俺が育つように、こいつも育つ。


魔獣を創るのに「人懐こい」はないだろうと思ったが、可愛い方がいいに決まってる。カッコよさと可愛さ。どっちも大事だ。


イメージが固まっていく。


地面に手をついた。

魔の創造に、意識を注ぐ。

黒紫の光が、指先から地面へと広がっていった。


炎や氷の時とは違う。穏やかだが深い、確かなエネルギーの流れ。

胸の奥から何かが引き出されていくのを感じる。

変身魔法や攻撃魔法とは比べものにならない量の魔力が注がれている。


頭が少し、ぼんやりしてきた。立ち眩みのような感覚。

やはり生命を創るというのはかなり魔力を消費するようだ。


黒紫の光が影をつくり、それがゆっくり、形を成していく。


四本の足。胴体。頭。尻尾。見てわかるほどに整ってきた。


そして、影が——実体になった。


---


体高はアクロスの膝の半分ほど。ちょうど、子犬サイズ。

だが犬ではなくちゃんと黒い狼だ。


毛皮は漆黒で、月光を吸い込むような深い黒。ところどころに暗い紫の差し毛が混じっている。


耳は大きく、頭に対してアンバランスなほど立派。将来、この耳に頭と体が追いつくのだ。


鼻面は短めで、まだ幼さが残る。だが顎のラインには将来太く鋭くなる骨格の予兆がある。


前足が大きい。体に見合わない太い前足は、この狼がまだ成長の途上にあることを示していた。


そして——瞳。

暗闇の奥で静かに燃える松明のような、深い紫。


そこには、知性の光が確かに宿っていた。


犬のような無邪気さと、獣のような鋭さが同居する目。


尻尾は長く、先端だけが紫がかった銀色。不思議な色合いだった。


黒い子狼は、アクロスを見上げた。


鼻がひくひく動く。耳がぴくりと前を向く。

そして尻尾が——くるん、と一回転した。


「…………」


アクロスの顔が、ぐずっと崩れた。


可愛い。


可愛すぎる。


紫の大きな瞳でこちらを見上げている。

黒い毛皮がふさふさで、大きすぎる耳がぴくぴく動いていて、太い前足でよたよたと立っている。


「お前……めちゃくちゃ可愛いな」


思わず、手を伸ばした。


冷たい鼻先が、掌に押しつけられる。

すんすんと匂いを嗅ぎ――それから、ぺろり、と舐めてきた。

小さな熱い舌の感触。


ゆっくりと、抱き上げてみた。


軽い。そして温かい。

小さな心臓の鼓動が、両手のひらに伝わってくる。


とくん、とくん、とくん。


ちゃんと、生きている。


「……」


その瞬間、アクロスの胸に落ちてきた重さは、さっきまでの火球や氷槍の実験とは、まるで違うものだった。


自分の力で、命を創った。


魔法の実験とは比べ物にならない重さが、腕の中から胸に落ちた。


子狼がアクロスの胸元に顔を押しつけ、くぅん、と小さく鳴いた。


その声を聞いた瞬間、不意に——


拓海が生まれた日のことを思い出した。


看護師に促されて抱き上げた、あの信じられないほど軽い重さ。

しわくちゃの顔。小さな小さな手。


あの時も、こんなふうに心臓の音が伝わってきた。


「…………」


今は異世界で、腕の中にいるのは人間の赤ん坊じゃなくて黒い子狼だ。

状況は全然違う。


でも、命を腕に抱いた時の震えは、同じだった。


俺から生まれた命。それは間違いない。


子狼はきょとんとアクロスを見上げて、また尻尾を振った。


紫の瞳には、責めの色はない。怯えもない。


ただ、この人が自分の世界の全部だと確信しているような、まっすぐな信頼だけがそこにある。感じ取れる。


「……なあ」


少しかすれた声で、アクロスは言った。


「ちゃんと、お前のこと、大事にするからな。約束だ」


子狼は、また一声、くぅん、と返した。


「……名前、ちゃんとつけないとな」


呟いて、少し考えた。


黒い毛皮。紫の瞳。マーナガルムの末裔。


「……クロ」


我ながら安直すぎる。自分でもわかっている。


だが、最初に舌に乗ったのが、その音だった。自然と出た。


他の名前は、どれも浮かんでこない。


アクロスがクロ、と呼ぶと、子狼の尻尾がぶんぶんと回転した。


名前をもらったのが嬉しいのか、主人に抱かれているのが嬉しいのか。

たぶん、どっちもなのだろう。


「よし、クロ。お前は俺の最初の仲間だ」


くぅん、ともう一度鳴いた。


地面に下ろすと、よたよたと歩き回り、足元の草の匂いを嗅ぎ、六枚羽の蝶もどきを追いかけ、転び、起き上がり、また転んだ。


「……お前、歩くの下手すぎるだろ」


つい吹き出してしまう。


だがそれもまた子狼の愛嬌だ。

この体で生まれて、まだ数分しか経っていない。

これから走れるようになり、森を駆け、獲物を追えるようになる。


「休憩したら、少し散歩に行こうか。クロ」


わふぅっ、と元気よくひと声。生まれたばかりで歩くのもよたよたしているのに。

それでも歩きたそうにしている。


俺はクロを生み出して少し疲れたな。

クロと小川の水を飲み、果実を食べて、休憩したら一緒に歩こうか。


---


おっさんと子狼の、最初の散歩が始まった。


クロの成長速度は異常と言わざるを得なかった。


歩き始めて五分でまっすぐ歩けるようになり、十分で小走り、三十分後にはアクロスの歩く速度に追いついた。


「成長速度えぐすぎるだろ、お前」


わふ。得意げに尻尾を振っている。

大きすぎる耳が走るたびにぱたぱた揺れるのが可愛い。


魔獣の成長曲線は普通の動物とはだいぶ違うらしいな。


早く大きくなってくれた方が助かるけどな。


もう一度、探知を展開する。

東に大型の獣はまだいた。距離はおよそ八十メートル。


「クロ、東に何かでかい獣がいる。行ってみよう。……静かにな」


クロが耳をぴんと立て、鼻をひくつかせた。

匂いを拾ったらしい。紫の瞳が鋭くなる。

さっきまでの子犬の顔が、一瞬だけ獣の顔になった。


身体強化で五感を研ぎ澄ませながら、音を殺して森を進む。

クロは体が小さい分、草の中を音もなく移動できる。ちゃんと偵察もできそうだ。


八十メートルが五十になり、三十になった。


茂みの向こうに、鹿に似た獣がいた。

体高は腰ほど。薄茶色の毛皮に白い斑点。枝分かれした角が三対ある。


普通の鹿よりごつく、肩の筋肉が盛り上がっている。

草を食んでいる。こちらには気づいていない。


「でけえな……食えるかな」


赤紫の実はうまいが、体が肉を求めている。

若返った体はカロリーを欲しがっていた。


しゃがみ込んで、クロの耳元で囁いた。


「クロ。俺が合図したら、あいつの反対側から飛び出して吠えろ。こっちに追い込む」


通じるのか? 声で伝えるしかない。まだ連携なんて一度もしていない。


だがクロが小さく唸った。了解、というように聞こえた。


「……賢いな、クロ。よし、回れ」


クロが音もなく茂みに潜り、大きく弧を描いて鹿の反対側へ回り込んでいく。

小さな体が下草に紛れ、黒い毛皮が影に溶けた。


探知でクロの位置を追う。回り込み完了。


アクロスは身体強化を入れ直し、息を整える。


鹿の向こう側、十メートル。


右手に火球を作る。拳大の黒紫の炎。


「——クロ、行け!」


わんっ!!


子狼とは思えない鋭い吠え声が森に響いた。


鹿が跳ね上がった。六本の角を振り回し、反射的にクロと反対方向——アクロスの方へ駆け出す。


来た。太い蹄が地面を蹴り、筋肉の塊が突進してくる。

正面からは受け止められない。


横に跳んだ。身体強化が効いている。

鹿の突進を紙一重でかわし、すれ違いざまに右手の火球を後脚の付け根に叩きつけた。


ボォン、と炎が弾ける。

鹿が悲鳴を上げ、バランスを崩して転がった。ばたばたと暴れる。

まだ起き上がろうとしている。


左手に氷の槍を形成。二十センチ。精度は低いが、この距離なら外さない。


倒れた鹿の首元に、氷槍を突き立てた。


びくり、と一度、鹿の体が跳ねた。

それきり、動かなくなった。


「……」


息が、止まっていた。


アクロスはゆっくりと氷槍から手を離した。

氷は鹿の血を薄く染めて、すぐに溶け始めた。


温かいものが、冷たくなっていく。

その感触が、氷槍を握っていた右手のひらに、やけにはっきりと残っている。


魔法で木を焼いたのと、命を奪ったのは、まるで違う。


わかっていたつもりだった。覚悟もしていたつもりだった。

でも、実際に自分の手で生き物の温度を奪ってみると――

思っていたよりも、ずっと、重かった。


「……すまんな」


静かに言った。


クロが茂みから出てきて、鹿の傍で静かに座った。

紫の瞳がアクロスを見上げている。


「……いただきます、だな」


---


解体は苦労した。


包丁もナイフもない。風の刃で皮を裂き、氷の刃で肉を切り分ける。

内臓を避け、食べられそうな腿肉と背肉を取り出す。

手は血まみれになった。


だが不思議と嫌悪感はなかった。

現場で泥だらけになった日々を思い出す。体を使う仕事に清潔さを求めても仕方がない。


「風と氷の刃を道具として使うのは、戦闘より向いてるかもな」


クロに生肉を分けてやると、夢中で食いついた。子狼の本能が目覚めている。


「食えるだけ食え。育ち盛りだからな」


滝壺の前に戻り、焚き火を起こす。

枝を削って串を作り、肉を刺して焼いた。


脂が滴り、炎がじゅっと音を立てる。

香ばしい匂いが立ちのぼる。


塩はない。


だが――昨日の赤紫の実のそばに、橙色の柑橘のような果実が生っていたのを思い出した。


アクロスは走って実を取りに行く。もう既によだれが口の中にいっぱいだ。


柑橘系の匂い。絞ると酸味の中にほんのり塩気がある。


実を肉に垂らして焼く。


ひと口。


「……っ!!」


目が見開いた。


「……やばっ! うっっま……」


異世界初の肉。赤紫の実とは比べものにならない満足感が全身に行き渡る。

タンパク質と脂質を摂取した瞬間の、根源的な幸福感。


脳がありがとうと叫んでいる。


クロも焼いた肉をもらい、もぐもぐ食べている。

食べるのに夢中で尻尾の振りが止まらない。


「一緒に獲った、俺達の初めての獲物だな」


アクロスはクロの頭をしっかりと撫でた。


わふ。肉を咥えたままのクロも嬉しそうに返事をした。


---


午後。腹が満たされ、体に力が戻った。


やりたいことはまだある。


午前中の鹿狩りで思った。

クロとの連携はうまくいった。だがあれは声で指示を出していた。

声を出さずに意思疎通できれば、もっと使える。


よし、創ってみよう。


自分とクロとを繋ぐ回線のようなシンプルな設計をイメージ。


クロとの間に、薄い魔力の糸を張るイメージ。

声ではなく意識で繋がる回線。

探知の応用で設計はすぐに固まった。

今度はカチリではなく、するりと回路が通った感覚。


すぐに完成した。


意識をクロに向けて、放つ。

糸のような回線がクロの頭と自分の頭に繋がる。

指示を出してみる。


(右へ走れ)


クロが右に走った。


「おっ…」


(止まれ)


クロがちゃんと止まった。振り返り、アクロスを見て尻尾を振る。


(よし、戻ってこい)


駆け戻ってきて、アクロスの足元にちょこんと座った。


「これはすごい。声無しでのクロとの意思疎通。めちゃくちゃ便利だ」


その後も色々試した。どうやら伝えられるのは今は単純な指示だけのようだ。

「右」「左」「止まれ」「来い」「追え」「逃げろ」。単語レベル。


複雑な戦術を伝えるのは、まだ難しそうだ。

★3だからか。それともクロがまだ幼いからか。


「テレパシーってよりは、犬笛の上位互換くらいか。でも十分だ」


残りの午後はクロと森を歩きながら、無声連携の精度を上げていった。


アクロスが探知で獲物や障害物を感知し、クロに無声で指示を飛ばす。

クロが先行偵察し、危険を見つけたら戻って知らせる。


何度かやるうちに、指示を出す前にクロが先読みするようになった。

アクロスの視線の先を見て、意図を汲み取って動く。

犬の本能と、魔獣の知性が噛み合い始めている。


「お前、どんどん賢くなるな」


くぅん。


「……俺も負けてられないな」


歩きながら、探知の範囲を少しでも広げようと意識を張り続けた。

百メートルが限界だったのが、夕方には百二十メートルほどまで伸びた気がする。


気のせいかもしれない。

だが朝より少しだけ遠くの音が聞こえる。少しだけ広く感じ取れるのは確かだと思う。


魔法も使い込めばちゃんと成長するのだろう。


ファルティシアが言っていた。

「あなたの行動、努力、経験に応じて力が応えていく」と。


「頑張ろう。地道な努力は嫌いじゃない」


---


夕暮れ。


大木の根元に焚き火を起こし、昼に残しておいた鹿肉を焼いた。

橙の果汁ソースに赤紫の実がデザート。水は小川から。


二食連続で肉が食えるだけで、昨日とは全く違う充実感がある。

人間は肉を食うと元気になれる。


クロがアクロスの膝の上に丸くなった。

朝はよたよた歩いていた子狼が、夕方にはアクロスの全力走についてこれるようになっている。半日で。


小さな体から心臓の鼓動が伝わる。

温かい。毛皮が柔らかい。大きすぎる耳がぴくぴく動いている。

なにか夢を見ているのかもしれない。


三つの月が昇る。


青白い大きな月と、赤みがかった小さな月が二つ。

昨日と同じ空のはずなのに、隣にクロがいるだけで全く違って見えた。


膝の上でクロが寝返りを打った。

くぅ、と小さな寝息。


ふと、思い出すように独り言が漏れた。


「あの滝……やっぱ気になるよな」


昨日見つけた滝。


ゲームやマンガのフィールドに滝があれば、その裏には必ずと言っていいほど何かがある。

隠し部屋。隠しアイテム。敵がいることもある。


昨日はのんびりしすぎて確認しなかったが——もし洞窟状になっていたら。


「滝の裏の……秘密基地……」


口にした瞬間、胸が高鳴った。

小学生の頃、裏山の雑木林に板と段ボールで作った、あの秘密基地。

友達三人で「合言葉を言わないと入れない」ルールを作って、結局三日で飽きたやつ。


あれの、おっさん本気版。


「へへ……いいな」


思わず、笑った。

明日、覗いてみよう。

あの滝の裏を。


そしてアクロスは目を閉じる。


心地よい疲労感だ。


心が落ち着く焚き火のパチパチという音、子狼の寝息、そしてかすかに聞こえる滝の水音。


今日一日で、できることがずいぶん増えた。

変身も覚えた。魔法も使えた。相棒もできた。狩りもした。肉も食えた。


膝の上の子狼の頭を優しく撫でながら、

異世界二日目の夜が、静かに更けていく。


一人と一匹は少しずつ、この世界の歩き方を覚え始めていた。

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