珈琲だけでは済まないらしい
現金の入った封筒を、旅行鞄に放り込む。銀行口座に預けている資金もあるので、これでしばらくは凌げるだろう。だが問題は、特に展望が無いという点であった。
「レイン」
村上の呼び掛けに、私は顔を上げる。
「何か聞きたいことでもあるのか?」
「あの後、沢渡井澄とは出会えたか」
村上は、彼をもう井澄とは呼ばないことにしたらしい。ちく、と疼く胸の内を私は無視した。
「ああ。星火の部隊はあの地下通路でまかれたが、私は井澄――いや、よそう、井澄と相対した。結果として、何を以てしても彼を止める事は出来なかったよ。全く不甲斐ない話だ」
「そうかとしか言いようが無いな。しかし、レイン・エンフィールドをもってしても、井澄はどうにかならなかったか。日輪の所在も不明だし、困ったな」
「日輪......橘八千草か。二人ともあの島にはもういないのだろうな」
一人の少女の名と姿を思い出した。恐ろしい発火能力を秘めたその少女を排除する為に、私は四ツ葉へ渡ったのだ。井澄とは懇意にしていたようだから、運命を共有していると見るべきだろう。
「生きていればね。報告によれば、最後に日輪を確認したのは、星火の部隊と交戦した時点だ。あの戦闘の最終局面だな。複数で取り囲まれては、流石のあの少女も抗えなかったらしい。炎を逃れるべく坑道に逃げこんだまでは追えたが、そこまでだった」
「所在は分からないということか。あれだけの人数を投入しても、上手くいかないものだな。村上、そこには井澄はいたのか」
「一人では無かったとだけ聞いている。焔と焔がぶつかり合い、視界が歪んだ戦場だ。誰がいたのかまでは、はっきりとは分からない」
村上が言うことは、そもそも真実なのだろうか。私はまずそこから疑った。統合協会の役職者たる村上には、正直に話していいことと悪いことがある。つまり現在の私は、橘八千草と沢渡井澄の生死と所在をまるで確認出来ないということだ。そして、掴む手掛かりも存在しない。
「あの男なら、きっと日輪の、いや、橘八千草の元へ辿り着いただろうよ。私と別れた時、そんな眼をしていたからな」
だから、私がこう考えても、別に支障は無いだろう。何処かで生きていて欲しい。不意にその願いが、強く弾けた。
用は済んだ訳だが、村上に引き留められた。もはや部外者となった私に何の話がと思ったが、別に断る理由も無い。窓の外を見ると、ぽつぽつと雨が降り始めている。
「積もる話もあるし、座ったらどうだい。珈琲でも淹れるよ。砂糖と牛乳は要らなかったね」
「気が利く男は嫌いじゃないが、お前が親切だと裏がありそうだな」
「はは、疑い深いね」
客人用の革の椅子に腰掛け、私は珈琲のカップを受け取った。黒く沈殿した飲み物は香ばしい香りを放ち、私の嗅覚を刺激する。
「いい豆だ。珈琲挽機なんか持っていたか?」
「最近購入した。他に趣味らしい趣味も無いからね。豆を挽いていると、いい気晴らしになるよ」
「それだけ聞いていると、お前が善人に思えてくるから怖いよ。とても鬼々壊々なんて物騒な二つ名の持ち主とは思えない」
「それを言えば、君とて金髪碧眼の淑女に十分見えるがね。錬金術師として金属を操るよりは、舞踏会にでも出ていそうだ」
「表面的な印象がいかにあてにならないかという、いい見本だな」
話している内に、舌も滑らかになる。元来友人の少ない私だが、けして会話が嫌いな訳では無い。多分、村上もそれは同じだろう。言語魔術の使い手なのだ、会話を操ってこそである。
「ところでレイン。君はこの先どうするんだい」
「決めてないな。日本にいても別にやることも無いし、独逸にでも渡ろうか。あの国なら、錬金術の使い処もあるだろう」
「そうか。それもいいかもしれないな」
髪に手をやりながら、村上は口を閉じた。急に部屋に降りた沈黙、私の珈琲を啜る音と窓の外の雨だけが聞こえる。こくり、とカップ半分の珈琲を飲んだ後、私は村上と視線を合わせる。
「用件がある、といった顔だな」
「鋭いね、レイン」
素直に肯定はせず、けれどもそれ以上に否定もせず。村上英次は窓際の壁に背中を預けた。
「お前がそういう顔をする時は、大抵何か仕組んでいるからな。内容までは読めないにせよ、何かあるという事だけは察知出来るよ」
「お見事、その通りだよ」
一拍、互いに置いた。私は再び珈琲に口をつける。既に冷めかけていた。それは私の中の熱も同じかもしれない。
「殺しか」
「そうなる可能性は高い。ただ、君はもう統合協会の職員ではない。条件次第では断っていいよ」
「断るはずがないという顔で、お前はそういう台詞を吐くからな。そこだけは昔から嫌いだったよ」
「性分でね。見逃してくれ」
そう答えながら、村上は珈琲挽機に豆を放り込んだ。長い話になりそうだった。
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雨は少しばかり降りを強くしたようだ。湿気で髪が跳ねる事を憂鬱に思いつつ、私はため息をついた。
「まさか、星火の部隊から危険分子が出るとは」
「全体から見れば小数派ではある。だが、当然無視出来るような戦力でもない」
「だろうな。炎を操る異能者が牙を剥くんだ。軽視出来る訳もない」
村上の説明は、私にとって少々衝撃的であった。星火、それは遠い昔には妖狐の眷族であった。俗世に馴染んだ今は、炎を操る異能の術者による組織だ。あの橘八千草のように、視界を瞬間燃焼させるような能力は無い。だが、彼らは狐火を生み出し行使する。火炎による遠距離範囲攻撃は、味方にとっては頼もしい。当然、敵に回せば恐ろしい。
「四ツ葉へ差し向けた星火の内、何人かは戦闘の内に失われた。当然そうした危険は承知で、彼らも統合協会からの依頼は受けていたさ。だが、その損失理由に対し、反発を露にした者達がいた」
「現場に置ける私の指示が不味かった為、要らぬ損失を招いた。奴等はそう言いたいのか」
村上はさっきまでの話をまとめ、私はそれに応じる。納得が半分を占め、納得不可が残り半分を占める。逆恨みだろうとも思うのだが、私の心に疼く物が無いでも無い。
「そうだね。もっとも、それは単に格好の理由を、彼らが見つけただけの話だと思う。星火も元々一枚岩ではなく、派閥があったのだろう。四ツ葉の件をきっかけに、少数の過激派が声を上げはじめた......その辺りが真相だろうな」
「私という標的があった方が、過激派共には都合がいい。そういうことか?」
「確信は無いが、限りなく真相に近い推測と考えていいと思う」
事の発端は、四ヶ月前。つまり、あの四ツ葉終焉の戦闘の直後であったらしい。星火の中でも腕利きの十数名を派遣したにも関わらず、対象たる橘八千草の死亡は未確認。しかもその半数は、彼女や他の島民との戦いで命を落としたという始末だった。この結果が、残った星火の者達に衝撃と不満を生んだ。
「現場指揮官であったレイン・エンフィールドの責を問うのが筋。だが、その張本人は統合協会を退職という事実に、振り上げた拳を下ろす先を失った。その結果、今に至るというのが表向きの話さ」
「思わぬところがないでもないよ。だが、現実は星火内の内輪揉めに利用された形か。面白くないね」
「だろうね。だが、意外に事は重くなってきた。その過激派共は、既に星火を離反している。行動を別にして、帝都の隅で文字通り火種となっている始末だ」
「その言い方だと、既に一般人に被害が出ているのか?」
「直接的にじゃないがね。大森の運河沿いの物流倉庫が一件、先月燃やされた。代々木の森でも、不審な篝火が目撃されている。新橋や神楽坂でも、瓦斯灯の爆発事故が相次いでいる。証拠はあがっていないが、奴等の仕業だと思う」
「示威行為か」
警察に任せれば、とも思う。統合協会は表立って、民衆の治安を守る責任は無い。だが、村上の懸念も分かる。その連中が見つかれば、遅かれ早かれ警察は統合協会にも目を向ける。国家権力と対立しても、良いことは何一つ無い。
ならば、秘密裏に不始末は片付けるべきか。そう、それくらいは村上なら考えてきたはずだ。だが、この日に至るまで手を出していない理由は何か。
「星火の穏健派は、この件には具体的な手は打っているのか」
「いや。苦々しく思ってはいるようだが、元同胞という意識もあるんだろうな。首領である星火燎原に迫っても、今一つ歯切れが悪い」
「身から出た錆の癖にか、だらしのない」
「ああ、酷い話さ。一般人に手を出せば必ず手を下すから、まずは説得させてほしいと逃げる。つまり話し合いが上手くいかなければ、暴徒と化した過激派が――」
「――帝都を炎に包む可能性もあると。そうなってからでは遅いだろうに」
私は単なる一人の人間であるし、正義感が強い方でも無い。だが、過激派の連中は、自分達の力不足や痛みを全て私のせいにするという。勘に触る。更には、やるせない。
そして炎使いには些か因縁があることも、私の気持ちをささくれさせた。
「武器の準備と報酬次第だが、受けよう。星火が相手ではかなりの武装が必要になるが、構わないな?」
「助かるよ。何分、こちらも人手が足りなくてね。君の助けになる物は、出来る限り準備しよう。持つべき者は友とはよく言ったものだね」
「ふん、内心では統合協会の人手を使わずに済んだことを、喜んでいるのだろうに」
「そうだな。それに星火の穏健派に恩を売り付けられることもだよ」
「......食えない男だ、貴様は」
微笑を浮かべた村上の顔は、どこかあの玉木往涯に似てきた気がする。雨を確かめるふりをして、私は視線を彼から外した。




