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ぐだぐだの今日を止めて

「――手帖に残る亘理井澄(わたりせいと)は、たしかにあなたを尊敬し、家族のように、愛していました」



 私は何度この言葉を反芻しただろうか。そしてその度に思う。あの日々の記憶にどっぷりと浸かったまま、現在の彼を直視してこなかった己の愚を。けれども、最後の最後で彼は私の言葉を殺さなかった。



 いや、何かただ一言だけ、私の言葉を殺したとは言っていたが......それが何なのかは、分からない。記憶に齟齬が無いので、恐らく文脈に支障を与えない単なる一語なのだろう。言葉が殺された以上、私には思い出す術が無い。現状、特に不便も無いため、その事実を受け止めれば十分だった。






 あの最後の対峙から、私は何もしていない。日が昇り、沈み、夜が来る。その繰り返しに、じっと浸っていただけだ。けれども近頃四ツ葉の解体が進み、徐々にこの島に身を潜めるのも辛くなってきている。そろそろ潮時だろうかとも思う。統合協会梟首機関を辞した今、私を縛る物は何も無い。無収入ではあるものの、生活は何とかなっている。食糧を恵んでくれる親切な住民のお陰だ。



 "だが、いつまでもこのままでは"



 やる気は全く出ないが、多少の危機感はある。自堕落を自覚しつつ煙草を吹かし、追憶を封じ込める。昔は喫わなかったが、この島に来てから煙草を手放せなくなった。細い紫煙が流れた先は屋外だ。細い銀色の糸が、天と地を繋いでいる。感じた湿気が、雨だと教えてくれた。梅雨入りか。カレンダアすら見ていなかったから無自覚であったが、時は確かに流れているようだ。



 腰かけていたベッドから立ち上がり、壁にかけていた服を眺めた。あの日、彼と対峙した時に着ていた黒い上下のパンツスウツだ。彼が放った鋼糸にやられた背中は、既に補修されている。そろそろこれに身を包む時だろうか。着物を見よう見まねで羽織ってはいるものの、やはり馴染んでいるとは言い難い。



 亘理井澄(わたりせいと)は......いや、沢渡井澄(さわたりいすみ)は、今のこの私を見たとしたら、どんな顔をするだろうか。この想像は自虐を呼び、私の胸に突き刺さった。梅雨の湿気で腐り果てるより早く、怠惰と無気力に溺れている。その自覚はある。



 やる気は無い。だが、このままここで朽ち果てるのも嫌だ。今ならば、まだ間に合うのではないか。完全に堕落しきる前に、足掻いてみるべきじゃないのか。



 雨を見ながらの自問、答えは己の中ですぐに響いた。「そうだよな」と呟きながら、着物を脱ぎ捨てる。久しぶりに袖を通したパンツスウツは、ぴたりと体に馴染んだ。幸運にも体型は変わっていないらしい。私も女の端くれだ。無様に体型を崩していなかったことに、ほっと胸を撫で下ろした。






 この島を去ると決めてからは、行動は早かった。元々荷物は少ない。愛銃であるピイスメイカーと、最低限の着替えくらいだ。梟首機関の職員の証たる記章は、既に返却している。そして特に既知の人間は、この島には――ああ、いなくもないのか。



「世話になった。この島を出ることにした」



 私が声をかけたのは、一組の老夫婦だ。緑風に属していたらしいこの二人は、四ツ葉では珍しい程の御人好しだった。行き倒れかけていた私に、食糧を恵んでくれたのだから。



「出て行きなさるのかい。寂しゅうなるけど、あんたみたいな若い方が腐っとるのも問題だからのう」



「壊れた屋根直してもらって、ほんとに助かったのよ。赤火と青水の抗争で家は壊されるし、職人達も逃げてしまったからねえ。ありがとうね、レインちゃん」



「いえ、それほどのことは」



 言葉少なに頭を下げながら、私は内心恥ずかしかった。今年二十八歳になる女に、ちゃん付けは無いだろうに。けれど、二人の優しさが嬉しかったのも事実だ。



 旦那の話によると、島と本土を結ぶ定期船は毎日運航しているらしい。船賃もさほどでもなく、私の心許ない手持ちでもどうにでもなる。ずっと外界に注意していなかったからか、こんな基本的な情報すら頭に入っていなかった。しっかりしなくては。



「ところで行くあてはあるのかね?」



「そうよ、女の子一人では、帝都もちょっと物騒なこともあるしねえ」



「とりあえず、前の職場に顔を出します。残してきた物もありますから」



 そうなんだ。退職前は何かと忙しく、未回収の給与が残っている。凡そ二ヶ月分の金額は、けして少なくは無い。とりあえずそれを貰いに行かねばならない。



 となると必然、あいつに顔を合わせねばならない訳だが。黒髪を後方になでつけ、飄々とした顔で詭弁を吐くあの男は、今も統合協会で辣腕を振るっているだろう。村上英治。かって共闘したあの男を、まずは訪ねる他は無い。




******




 いざ本土に着くと、あまりの人の多さに辟易した。いや、正しくは群衆が生み出す熱量にだろうか。四ツ葉も面積を考えると、けして人が少ない訳じゃない。だが、あの島の人間は、皆どこか薄暗い影を背負っているように思える。



 "私にそれを言う資格があるかは、疑問符だがな"



 品川に着いた後、短い休息を取った。文明開花の恩恵を受け、帝都東京の雰囲気は明るい。まだ和服姿の者が多いが、中には洋装の者もいる。山高帽を被っているのは、華族気取りのお大尽だろうか。服に着られた感じが強く、私は内心笑ってしまう。



 だが、これが恐らく健全なのだろう。例え失笑の対象ではあっても、あの男は満足げな顔をしている。しかめっ面をして日々を生きるよりは、笑っている方がいい。



 "笑顔、か。そういえば、ついぞ心の底からは笑っていないな"



 井澄(いすみ)に最後に会う前からも、そうだったと思う。職責に追われる内に、私は職責と同化していた。梟首機関は、統合協会の中でも対外的な戦闘部隊だ。血で血を洗う抗争の中、笑顔など作る暇も無かった。そんな余裕は無かった。



「ちょいとそこ行く異人の姉さん、よかったら一つどうだい。今をときめく岩谷商会の天狗煙草、姉さんみたいな粋な美人にぴったりだよ」



 不意に横から聞こえた口上に、私は首を回す。街路の角で、男が何か小さい箱を道行く人に配っていた。なるほど、煙草の宣伝か。私以外の通行人にも声をかけつつ、ひょいと器用に一つ箱を放ってきた。ゆるりと放物線を描いた箱を、私は左手で掴む。



「すまないな、有り難く頂戴するよ」



「どうぞどうぞ、好きなだけ」



 絣の着物に身を包んだその男は、小柄な身体を建物に寄せた。岩谷商会とやらの宣伝役なのか、足下の籠にはいくつも煙草が積まれている。通行人の中には、二つ三つ貰おうとする者もいる。けれども、男は嫌な顔一つせずに無料(ただ)で煙草をくれてやっていた。



 平和な風景だ。少なくとも、あの島ではあり得ない風景だろう。



 こんな些細な事でも、ついあの島の異常性を感じてしまう。大陸との戦争を想定して作られた、あの四ツ葉という島。脛に傷もつ者、前科者、暴力性に取り付かれた者、秘密裏に金を動かす者らが、あの島の住民だった――であるとしても、あの結末は。

 


 微かに胸に差し込んだ鈍痛に、私は狼狽えた。以前ならば、そのような事は他人事と割り切っていたはずなのに。しばらくろくな生活をしていなかったせいで、心が弱くなったのか。それとも本土の土を踏んだ事で、心に緩みが出来たのか。



「全く、らしくない」



 軽く頭を振り、私は手頃な路地に滑り込んだ。人がいないことを確認してから、先程もらった煙草の封を開ける。火を点けて一服すると、渋い香りが鼻孔をくすぐる。悪くない。静けさがしぃんと自分の中に満ちてゆく。



 路地から顔を出し、先程の男を探した。陽気な声を張り上げ、男はまだ煙草の箱を配っていた。






 案内係に従い、私は開けられた扉をくぐる。重厚な樫製の扉は、私の記憶にあるそれと相違ない。そして正面に座る男の姿も。



「やあ、レイン。元気そうで何よりだね。四ヶ月ぶりといったところかな」



 その黒髪は綺麗に後方になでつけられていた。前髪が数本はらりと垂れ、形の良い額にかかっている。黒檀の机から立ち上がり、男は私の方に回ってきた。



「ああ。挨拶もせずに辞めてしまったからな。不義理をしたとは思っている」



「その割には堂々としているね。ま、君のそういう所は嫌いじゃないけれど」



「お前の能力"思考錯誤"を知っているせいか、全ての言葉が胡散臭く思えるな。いや、多分本心なのだろうが」



 私の軽口に、男――村上英治は薄く笑った。こういう男だ、村上は。本心を話していると思わせながら、その実話してはいないのではないか。異能"思考錯誤"の存在自体が、この男の言葉と感情を全て幻影ではないかと思わせるはったりになる。



「全く、自業自得とはいえ自分の能力が自分を縛るとはね。ところで、今日の突然の訪問の意図は何かな」



「いきなりで何だが、受け取っていない給与があるだろう。それを貰いにきた」



「なるほど。実は既に用意してあるよ」



 そう言った後、村上はぱちんと指を一つ鳴らした。微かな気配に気付き、私は顔を天井に向ける。結構な速度で落ちてきた茶色い封筒を、ぶつかる寸前で受け止めた。



「式神に持たせて待機させておくとはな。準備が良すぎやしないか、村上?」



 人を模した小型の紙人形が、天井近くを舞っている。あれが封筒を手放したのだろうとは分かるが、仕込むには少々時間が必要なはずだ。あるいは単なる悪戯かと思い、封筒を開けてみた。いや、紙幣はちゃんと入っている。



「何、ねたばらしすると話は簡単でね。君が品川に到着した時点で、私には報告があった。だから未回収の給与をさっさと用意して、式神に持たせる時間もあった。それだけのことだよ」



「品川近辺に間者でも潜ませていたのか? 私がいつか四ツ葉から戻ると読んで?」



「別に君を張っていた訳じゃないがね。異常があれば、すぐに知らせろ。私が潜ませた間者は、その指示に応えただけだよ。ところでレイン」



 村上の次の一言で、私は顔をひきつらせることになる。



「天狗煙草の味はお気に召したかい?」



「そういうからくりか。何人市中に潜ませているんだ」



「それは秘密にさせてもらうよ。手品のタネは、ばれたら意味が無いからね」



 地道に、だが確実に。村上は帝都東京に自分の目と耳を蔓延らせているらしい。

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