16.画竜点睛を欠く 追伸
最終話。
12話の最後と同じ日、5月31日の夜です。
いつも、長時間にわたって絵を描く時には、部屋の電気を点けないようにしている。そうすれば、手元が見えなくなって作業ができなくなった時に、自然と時間の感覚を思い出せるからだ。
「……あー、もうこんな時間だったんだ……道理で……」
と呟いた瞬間、お腹の虫が大きな鳴き声を上げた。
「うわっ、俺今めっちゃ腹減ってる」
うわーうわーと意味も無く騒ぎながら、とりあえず俺は電気を点けた。目映い光が一気に広がって、視界が一瞬閉ざされる。思わず目を瞑って、その拍子に流れ出た涙を拭った。それから画材の片付けに取り掛かる。
『……なんだ、もう終わりか。こんな中途半端な状態で』
死神――だったもの――が、拗ねたような声音でそう言った。
「はい、今日のところは。また明日、お会いしましょう」
死神は『ふんっ』と鼻を鳴らして、キャンバスの中に消えていった。
初日の作業はこんなものだろう。とりあえず全体に色を散りばめて、呪いが形を成さないように、予防線を張っただけだが。時間はまだまだたくさんある。幸い、これから先の日は長くなる一方だし、夏休みもあるので、作業時間はかなり確保できる。持てるすべての時間をつぎ込んで、今出せる全力をこの絵に――先生に――捧げよう。
キャンバスを倉庫にしまって、俺は教室を出た。
学校から出る直前に、ふとスマホを見て、溜まっていた通知の多さに驚いた。
(あれっ? なんでこんなにたくさん……?)
堪らず立ち止まって内容を見ると、その理由はすぐに分かった。
大量のメッセージはすべて、贈り物だった。
(……そっか。俺、今日、誕生日だったっけ)
色々とありすぎてすっかり忘れていた。そんなこと気にしていられる情勢ではなかったとも言えるが。
祝ってくれた友人の大半は、この騒動を知らない高校時代の連中であった。嬉しいには嬉しいが、少々複雑である。決して、手放しに喜ぶことは出来なかった。
とりあえず片っ端から返信しながら、俺はとりとめもなく考える。
(――先生が、この前の木曜日に亡くなって――皐月さんは、俺を産んだすぐ後に亡くなって――――俺の誕生日って、二人の命日の狭間にあるんだなぁ……)
あらかた返信し終えると、再び腹の虫が存在を主張した。俺は少しだけ考えて、行先を家から喫茶店《Milky Way》に変更したのだった。
夜のMilky Wayに行くのは、実を言うと初めてのことであった。大抵、昼間にちょっと甘いものが欲しくなって行く程度だったので、少しだけ緊張してしまう。しかし、営業中、と書かれた札を揺らしながらドアを開けると、緊張していた自分が馬鹿に思えるほど普段通りの喫茶店が、俺を迎え入れてくれた。
「いらっしゃいませー……あぁ、月時か。いらっしゃい」
「こんばんは」
「珍しいな、お前が夜に来るなんて」
「今の今まで学校にいて――それで、夕飯作るのが面倒になっちゃって。なにか食べるものってありますか?」
「サンドイッチならすぐ出せる。それと、オムライスとかピラフとか、そういう簡単なもんなら作ってやれるけど、どうする」
「じゃあオムライスでー」
「大盛りにしてやろうか?」
「あっ、ぜひお願いします!」
「はいよ。じゃあ、ちょっと待ってろよ」
と、足沢さんは、俺の前に水を置くと、背を向けた。カウンターの向こうの狭いキッチン内を、くるくると動き回って、慣れた手つきで準備を進めていく。少しもしない内に、ケチャップの良い香りが立ち上ってきて、いよいよ耐え切れなくなったのか腹の虫が悲痛な声を上げた。それが聞こえたらしく、足沢さんが笑った。
「っ、ははっ、本当に腹減ってんだな!」
俺は赤面する。
「うわ……やっぱ聞こえてました?」
「ばっちりな。そんなに腹空かして、何やってたんだよ」
「絵ぇ描いてました。あの、例の依頼の」
「あぁ、なるほど――」と、唐突に、足沢さんは振り返った。「――ってお前、大丈夫なのか?」
「え、何がですか?」
「いやだって……その絵に関して、色々あったばっかだろ。依頼を断らなかったから、最終的にやる、ってのは分かってんだけど、そんな、急いでやらなくても……もうちょっと、休んでた方がいいんじゃないのか」
足沢さんは気遣わしげにそう言った。
俺は、大丈夫ですよ心配いりません、と答えかけて、口をつぐんだ。それから、
「大丈夫じゃないっすね」と、正直に言った。「全然、大丈夫じゃないっす。描きながらずっと、先生のことばっかり考えちゃうし、まだ喉は痛いし、周りの奴らもうるさいし、悪いことばっかり」
でも――と、続けざまに言う。
「――描いてないと、もっと駄目になる気がするんで」
足沢さんは、相槌を打つ代わりのように、木べらでフライパンの縁を二、三度叩いた。
「そうか。まぁ……時には、無理することも必要だよな」
意外な言葉だった。てっきり、そんな無理はするなと言われるかと思っていた。
「けどな、一応、壊れないようには気を付けとけよ。適当に息を抜いて、思い詰めすぎんな。思い詰めすぎたのが原因で、露野先生は死んだんだって、分かってんだろ」
「っ……はい――」心臓を刺されたような気がして、俺は素直に頷き、次の瞬間強烈な違和感に襲われて目を剥いた。「――えっ、あの、足沢さん?」
「んー? 何だよ」
「俺……露野先生のこと、話したことありましたっけ?」
「あぁ、無いな」
「えっ、じゃあ、あの、なんで知って……」
「ははっ」
俺の困惑を楽しんでいるように軽く笑いながら、足沢さんはケチャップライスを白い皿に盛りつけていく。それで、飄々と言ったのである。
「風の噂で聞いた」
「へっ……?」
「風の噂は便利だぞー、何でも教えてくれるから。月時が何で首を怪我してんのかも、《五月革命》が誰によって描かれたのかも――」そこで不意に足沢さんは笑顔を消した。「――お前の出自も、二十年前露野久森に何があったのか、ってことも」
俺は堪らず絶句して、足沢さんを凝視した。足沢さんは、真剣な眼差しを緩めて踵を返し、冷蔵庫を開けた。
「ま、もう全部終わった後だからな。こんなの余計な情報に過ぎねぇけど、聞きたければ話すし、聞きたくなければ話さない。……どうする?」
決定権を委ねられて、俺は困惑したままの頭で考えた。
バターの香りが広がって、卵が焼ける良い音がする。どんなに悩んで苦しんで、不幸な振りをしていても、否応なしにお腹は減るし、夜は更けていく。願っても時間は決して止まらないし、拒んでも太陽は容易く昇る。
「――いえ、いいです、聞かなくて」
「いいのか。本当に」
「はい」
俺ははっきりと頷いた。
(普通の生徒なら、先生の二十年前の恋愛話なんて――それも、あんまし良くない想い出なんて、知らないだろうし)
それに、本来なら、先生の過去は先生から聞くべきことだったのだ。けれど聞けなかった。だったら、それは俺が聞くべきことではなかったのだろう。
「分かった。もし聞きたくなったら、いつでも言ってくれていいからな」
足沢さんは、綺麗なラグビーボール型のオムレツを、ケチャップライスの上に載せた。横一文字に包丁を入れると、卵ははらりと解けてご飯を包んだ。黄色いキャンバスの上に、赤い線が網目状に走る。物凄く美味しそうだ。俺は唾を飲み込んだ。
「はいよ、お待ちどおさん」
「っ、いただきます!」
食べられる今があることに感謝する。一口飲み込むごとに喉が痛んで、その度に涙が出そうになった。
《死んだ人の分まで幸せにならなきゃいけない。遺された人にはその義務がある》
よくあるフレーズだ。
俺はこれがあんまし好きではなくて、亡くなった人のことを考えたら悲しくなるのに考えながら幸せになれなんて矛盾してる、とか、幸せになるのは義務じゃない、とか、後を追うことが幸せだとしたらそれも認められるのか、とか、そのような反発した考えを抱いてしまう。
命がある限りは生きる―――そんな単純な考えでは、駄目なのだろうか。
「ごちそうさまでした!」
「ん、お粗末さん。ついでに、こいつも食ってってくれ」
と、足沢さんが置いたのは、チョコレートケーキだった。
「知り合いの友人が誕生日だったもんで、作ったっつーか作らされたんだけど、余ったんでな。――お前も、今日が誕生日だろ」
「はい」
「二十歳だな。おめでとう」
「……はい」
誕生日を祝うにはあまりにも悲しい夜だ。
「ありがとうございます」
それでも、俺は、生まれてきたことを幸せだと思う。
おしまい
完全に完結と相成りました。
ここまでお付き合いくださった方々に、心から御礼申し上げます。
感想アドバイス等、一言でもいただけたら嬉しく思います。
拙い作品でしたが、いかがでしたでしょうか。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
本当にありがとうございました。今後とも是非、よろしくお願いいたします。
井ノ下 功