12.画竜点睛を欠く 後半
咽頭に圧力がかかり、気道が潰される。先生の細くて硬い指は、柔らかい喉頸に深く食い込んで、確実に空気の往来を絶った。本能的にそれを外そうと手をやるが、もう遅い。入り込む隙間など全く無く、切ったばかりの爪が徒に先生の手を引っ掻く。空気を求めて、喉が異様な音を立てた。
「っ……ぇんっ、せぇ……!」
先生、どうして。何があってこんなことをするのですか。過去のあなたに何があったのですか。何があなたをこれほどの凶行に駆り立てさせたのですか。俺は一体どうしたら良かったのですか。教えてください、先生。どうして。
どうしてそんな泣きそうな顔で俺の首を絞めるのですか。
「………ぇっ……ぅっく」
まず、足から力が抜けた。膝から頽れそうになって、支えられなくなった自重で余計に首が締まっていく。手からも感覚が消えた。眩暈がして、耳鳴りがして、暗くなってきた目の前に、小さな光の点がちらちらと飛ぶようになった。もはや苦しいかどうかも分からない。ただひたすらに、来るはずの空気が来ないという大きな恐怖が、俺を襲い続けている。
この恐怖から逃れる道は二つ、しかし今は一つしか無い。
だいぶ前から、音は既に聞こえていない。目も、ついさっき見えなくなった。脳が、全身の制御権を手放して、遂に俺は世界を放棄する。深淵に飛び込み、闇に飲み込まれ、何も感じない、恐怖も苦痛も何も無い場所へ―――
「何してんすかっ?」
「っ!」
―――突然、圧力から解放されて、俺は壁伝いに崩れ落ちた。いきなり元通りとなった街道に空気が殺到して、大混雑を引き起こす。俺は体を折って咳き込んだ。感覚が戻ってくる。まずは触覚が。次に視覚が。やや遅れて聴覚が。やがてすべての知覚が揃うと、俺は俺が生きていることを自覚して――死にかけたことを実感して――目頭が熱くなった。そして、手をやって、それ以前に既に自分が泣いていたことを知ったのだった。
「大丈夫か、クモ!」
駆け寄ってきたのは侑介だった。大丈夫だ、と答えようとしたが、出てきたのは咳だけだった。
「露野先生……なんであんた、クモに、こんな……」
侑介が先生に向かってそう言うのを聞きながら、俺はふと、気付いたのだった。
左腕に掛かっていた靄が消えている。
背筋がひやりとした。俺は勢いよく顔を上げて、先生を見た。
目が合った。
強大な慙愧の念に、その目は埋め尽くされていた。深い後悔と、自身の行いを責め立てる色。遠目に見ても分かるほど、両手が震えている。死神はいまだ、先生の頭の周りに纏わりついていて、加えて先生の左腕をも掴んでいた。
先生が力なく首を振り、その動きに合わせて、死神が楽しげに体を揺らす。
「なんで、こんな、ことを……違う、違うんだ、すまない、違う、そうじゃなくて、俺はただ……」
肥大した黒い靄が先生の両肩にのしかかって、先生を押し潰そうとしている。死神が何かを囁く。靄がその手足に絡み付く。目が再び、虚ろな黒に戻っていく。
「―――そうか、そうだな。壁も、足枷も、壊せないのなら……」
先生は虚空に向けて呟いた。
ここままじゃいけないと俺は察して、「――っん、せぇ!」声を絞り上げた。「先生! 落ち着いてください! 駄目ですよ! 何考えてんのか知りませんけど、俺ならほら、この通り、」と、ここで耐え切れず二、三咳き込んで、「……全っ然、大丈夫っすから! だから、」
「月時」
いつも通りの声音に、疲れた微笑を滲ませて、先生は言った。
「お前さんは、生きて、名を成せよ」
白衣の裾が翻る。窓が開けられ、風がごうと吹き込んだ。梅雨を間近に控えた風は、湿気を孕んでいて重たく、けれどそれも、先生の歩を止めるほどではないのだった。
「っ、待って!」
俺は弾かれるように立ち上がって、駆け寄った。しかし、届かない。己の身の鈍さを、今以上に呪ったことがあっただろうか、いやない。精一杯足を動かして、目一杯手を伸ばして、それでも、掴むには至らず。
白い竜が風を切って飛んでいく。俺はただ、それを、目の前で見送った。
頬に雫が当たった。水というには重たすぎる液体が。
俺は絶叫したらしい。喉が張り裂けるほどに。何を言ったかなど全く記憶に残っていない。とにかく、支離滅裂な罵詈雑言を無茶苦茶にぶちまけて、俺は気を失った。
大学は一時騒然となったらしい。当然だ。先生が生徒の首を絞めて殺そうとした挙句、飛び降りて自殺したのだから。騒然とならないはずが無い。無論、警察が入り、その日一日大学は封鎖され、騒ぎはネット上に持ち越され、様々な憶測や何かが飛び交ったとか。すべて、後から侑介に聞いた話だ。
目を覚ますとそこは病院で、消毒液のにおいに鼻の奥がつんとした。両親が揃って俺の傍にいて、大袈裟なまでに心配し、何も相談しなかったことを責めた。俺は、ひたすらにごめんなさいと謝り続け、それ以外のことは聞かれてもろくに答えなかった。
「――大学、どうする」
一段落したところで、父さんが言った。
「どうする、って……何が?」
「あんなことがあった場所だ。一旦辞めて、別の大学に入り直してもいいんだぞ」
それぐらいの経済力はある、と、不敵に笑った父さんに、俺は黙って首を振った。大学を変える気などさらさらなかった。
父さんは苦笑した。
「お前が良いなら、それでいいけどな。今度からは、何かあったらちゃんと相談しろよ」
「うん、ごめんなさい」
やっぱり、俺の父さんはこの人以外にありえないし、母さんもこの人以外にありえないのだと、心からそう思った。
★
「はぁい、曇くん、調子はどーお?」
「四之宮さん」
「聞いたわよー、大変だったんですってね」
「はぁ、まぁ……」
「いつまで入院するの?」
「今日までっすねー。明日には退院するんで」
「そお、そんなに長くなくって、良かったわね。――そうそう、曇くん。ちょっと窓から外を見てごらんなさいな」
四之宮さんに言われるがまま、俺は外を覗き込んだ。俺が入っている病室は中庭に面している。広い中庭は一般にも開放されていて、いろんな人であふれていた。その中央付近に、見覚えのある人がいた。確か、木材工房《リンカーネイション》に勤めている人、つまり四之宮さんの部下だ。その人がこちらに向けて手を振った。その片腕の中に、小さな柴犬がいる。
「あれ……おまめちゃん?」
「そう! そうなのよ曇くん!」
「死んでなかったんですか……!」
「奇跡的に快復したのよ!」
不思議なこともあるもんだわー、と、四之宮さんはにっこり笑った。
「あのね、前に曇くんが来たフリーマーケットの日の二日前に、おまめちゃんは手術して、でもずっと意識が戻らなくて、本当に死にかけてたの。でもね、あの日、私なんだか不思議な……白昼夢っていうの? そういうのを見てね」
その不思議な白昼夢の原因に大いに心当たりがある俺は、つい視線を落としてしまった。そういえばあの時も、結局俺は間に合わなかった。
「その中でね、私はおまめちゃんになってたんだけど、誰かに助けてもらったの。その時私ね、思ったのよ。あぁ、誰かが傍にいれば、助けてもらえるんだなぁって。おまめちゃんは、誰かに傍にいてほしいんだなって。それで、すぐさま動物病院に戻って、ずっとおまめちゃんの傍にいたのよ。そしたら本当に快復して! お医者様にも奇跡だって言われたわ!」
四之宮さんは大きく手を振り返してから、続けた。
「私にできることなんて何もないって思ってたけど、そんなことなかったのよ。それに気付けたのは、あの白昼夢のおかげ。人生って本当何でもアリなんだから、たくましく生きなくっちゃね」
そう言って、次のフリーマーケットの日を告げて、四之宮さんは帰っていった。
★
彼女が来たのは、面会時間が終わった後のことだった。そういえば、この辺りで大きい病院に入院するとなれば、自然と彼女と同じところに行き着くのだと思い至る。
「やぁ、クラウディ。君もまたこの白き世界の旅人となったようだね。目的地には辿り着けそうかい?」
「こんばんは、掛川さん。うん、明日にはもう、戻るよ」
「そうか、それは重畳。ところで――」
と、掛川さんはベッドの脇に座って、聞きにくそうに言った。
「その、喉元に施された封印は、一体どうしたっていうんだい?」
「あぁ、これ? これは……」
俺は喉に巻かれた包帯を手でさすって、それで、先日のことを思い出して硬直した。疲労を滲ませた微笑み。狂気を纏った形相。俺を救い続けて、俺を殺そうとして、でも結局は俺を救って死んでいった、どこまでも真っ直ぐな人。ずっと、意識的に考えないようにしていた先生のことが、一気に溢れ出てきて、俺は咄嗟に唇を噛んで顔を背けた。そうでもしていないと泣いてしまう。
「あ、や、その……ご、ごめん、クラウディ……わるいことを、きいてしまった」
掛川さんの狼狽した声に、俺は首を振った。
「違うよ、大丈夫。こっちこそごめん。全部、俺が悪くって……」涙声になっていた。けれど、一旦開いた口は止まることを知らなかった。「……俺が悪いんだ。すごく、すごく、信頼してた人に、信頼してた人を、俺、裏切っちゃって……たぶん、知らなかったってだけで、ずっと、ずっと酷いことしてて、それで……だから……」
こんなことを彼女に言うつもりは無かった。こんな無様な泣き言を、意味不明な嘆きを、彼女に聞かせて一体何になるというのだろう。ただ迷惑をかけるだけだというのに、それでも俺はやめられずに、布団に顔をうずめて続けた。
「……だから、先生は死んじゃったんだ。俺が、やらなくていいことをやったから、やらない方が良いことをやったから、こんなことになったんだ。……竜の目を描いたら、取り返しのつかないことになる、って、分かってたのに……ずっと、先生にも、そう言われていたのに……」
―――君には自覚が足りないのだよ、自覚が!
まったく、その通りだった。俺には何の自覚も足りていなかった。こんな目を持っているということに対しても、俺の生まれが先生の過去に繋がっているということに対しても、自覚というものをまったく持ち合わせなかった。自覚してさえいれば、四之宮さんを危険に晒すことも無く、先生への配慮もできていたはずなのに。大体、どうして、俺の生まれが隠されて、すぐさま養子とされたのか、少しでも深く考えていれば、無闇に探ってはならない深い事情があるのだろうと思い至れたのに。それに気付けていれば、無為に掻き乱すような真似はしなかったのだろうに。
後悔しても、もう遅い。
「画竜点睛を欠く、だな、クラウディ?」
そっ、と、俺の背に暖かな手が添えられた。
「昇ってしまった竜は、もう二度と、戻ってこない」
「っ……」
「けれど、君は生きている」
ぽつり、と言われたその言葉が、不思議なほど静かに心臓の底へ響いた。
「生きているのだから、もう一度、描き直せる。そして、次はもう二度と、間違わない。そうだろう? ――ボクは、君の描く絵が好きだよ、クラウディ」
俺に、涙を堰き止める手立ては無く、それでも声だけは意地で抑え込んだ。やはり、彼女の近くの時間は、いつもよりゆったりと歩いていくようだった。
★
講義の途中で教授が死んだ場合、単位は自動認定されるらしい。美術史を落としそうだった連中は、それで無責任に喜んでいた。なのに、俺の存在に気付くと、途端に喜色を隠すのだから余計に無様だった。慌てて隠すということは、悪いことだと分かってるということだ。だったら、最初からやらなければいいのに、どうしてそうするのだろう。馬鹿らしい。いっそそのまま喜び続けてくれた方がまだマシだ、と荒んだことを考えた。
先生が落ちた場所は、綺麗に片付けられていて、そんな惨劇があったことなど微塵も感じさせなかった。復帰した火曜日に、俺はその場所へ菊の花を供えて、先生はこういうこと嫌いそうだな、と思った。
首に付いた痣はまだ消えていなくて、しばらくは包帯を巻いたままになりそうである。周りからの視線が集まるが、いちいち気にしてなどいられない。元々SNSには積極的でなかったことを、ここにきて感謝した。この事件がどんな風に語られているか、具体的には知らないが、侑介の口ぶりから察するに、知らない方が良いらしい。
痣はいずれ消えるが、失った悲しみは、一生消えずに残るのだろう。
それでも。
生きて、名を成せ、と。
そう言った先生の言葉が、呪いだとは思えない。呪いになどしたくない。先生のおかげで、俺は覚悟を決められたのだ。この特異な目を抱えたまま、絵を描いて生きていく覚悟を。
そう、あれは、ただの約束だ。
いつか再び出会った時に、胸を張って、約束を果たしたと、そう言えるように。
実習室は、あの日のままに残っていた。さすがに、飲食物の類は片付けられていたが、絵や木枠は誰にも触れられていないようだった。誰も、触れたくなかったのかもしれない。
キャンバスを裏返すと、隅の方に、日付とH・Tというイニシャル、それと小さく『R.I.P.』の文字が書かれていた。それを見て、俺は確信する。
(やっぱりこれ、先生が描いた絵だったんだ)
それもおそらく、皐月さんのために描いたものだったのだろう。だから先生は、あれだけ怯え、俺が見ることを拒んだのだ。その時の先生の恐怖を思えば、俺がいかに酷いことをしていたのかがようやく察せられて、喉に痛みが走った。
この事件を受けて、足沢さんからは『依頼を破棄しても構わない』という連絡がきたが、俺はそれを断ったのだった。一度受けた仕事を放り出すのは嫌いだし、それに、
(―――俺の、最初の……画家としての、最初の仕事は、これがいい)
キャンバスを木枠に張り、パレットに絵の具を出して、絵に向き合う。
五月革命と題された呪いの絵。
先生が俺に残した、唯一の物。
目を合わせる。
『……俺を、どうするつもりだ。――殺すのか?』
死神が不機嫌そうな声音でそう言った。その表情かどこかに、先生と似ている部分があるような気がして、俺は笑う。
「真っ白に塗り潰すのが、あなたを殺すってことになるなら、俺はそんなことしませんよ」
生み出し生かすのが、俺の役目なんで。
そう言って、白黒の画面に、そっと色をのせた。
完
お読みくださいまして、ありがとうございました。
感想アドバイス等お待ち申し上げております。よろしければ是非、何か一言でも構いませんので、お寄せ下さい。
この後は番外編が何話か入ります。




