11.《雨でもなく、晴れでもなく》 後半
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「曇り、って、あんまし好きじゃないんすよねー。あ、いや、別に、自分の名前だからってわけじゃないんすけど。なにせ中途半端じゃないっすか。すっきり晴れるか、しっかり雨降りか、どっちか白黒はっきり付けてほしいんすよね、俺としては。曇り空が好きな人って、あんまし会ったことない、ってか、俺は会ったことないんですけど、いるんすかね?」
と、彼は言った。
「先生は、どう思います?」
実に優秀な生徒だった。
月時曇という変わった名前の生徒に会ったのは、昨年の六月のことであった。彫刻科の廃材置き場に勝手に侵入して、それを漁っているところに鉢合わせたのだ。もちろん俺は怒ったが、彼は素直に謝った後、改めて「もらってもいいですか?」と平然と要求してきたのだった。以来、時々雑談をするようになった。
月時は、油絵コースの二年生。常にへらへらと笑っていて、時折どこかあらぬ方を見てぼーっとすることもあるが、交友関係は広く、真面目で大人しい生徒。美術関連の勉強については熱心だが、英語や初修外国語といった教養科目には不真面目で、たいてい寝ているか落書きをしているらしい。その落書きが異様にクオリティ高く、なんだか怒り切れない、と英語の担当教師がぼやいていた。結局、彼は必修を落として、再履だー最悪だー、と嘆いていた。
反面、創作センスはこの美大の中でも頭一つ分以上飛び抜けていて、他の追随を許さず、一年にして学内コンクールを制した。その上、彼自身は油絵だけでなく、彫刻や家具作りも好きだと言って、廃材を貰いに来ては好き勝手に創作している。完成した物は、フリーマーケットで売ったりしているらしい。そこそこ稼げて良いバイトだ、と、彼は無邪気に笑って言った。そんなバイトが出来る奴など限られている、ということを知らずに。
いっそここまで飛び抜けてしまえば、嫉妬や何かを感じる気力すら失せるというものらしい。学内での人気も高く、揉め事に巻き込まれたという話は聞いたためしがない。むしろ、揉め事を仲裁する方に回ることが多いと聞いた。
とことん、出来た奴であった。だからこそ、俺は心配になった。ストレスを感じることは無いのだろうか。感じたとしたら、どこで発散しているのだろうか。完璧に近い奴ほど、小さなことで崩れてしまうものだから、せっかくの才能を壊してしまわぬよう、注意せねばなるまい。―――単純に、彼も完璧ではないということを知って、安心したかっただけかもしれないが。俺のこういう小さいところは、昔から一向に変わっていない。
「この間のフリマ、めっちゃ面白かったんすよ! 喫茶店をやってるって人に会いましてね、店の家具一式に彫刻してくれって頼まれちゃって! 今まだ彫ってる最中なんですけど、全部同じ意匠にしてほしいってその人の希望でやってて、すっげぇ楽しいんっす! 一個一個微妙に変えながら、全部のテーマはまったく同じにして、って、こういう縛り付きの依頼で彫るのも楽しいんだなぁって、初めて分かりました!」
と、彼は満面の笑みで言った。
「先生は、そういうのやったりしないんすか?」
実に優秀な生徒だった。
月時との関係性が少し変わったのは、今年の二月のこと。
彼が、俺の目の前で、木彫りの竜を本物に変えた時だった。
突然、轟と風が吹いて、暗雲が立ち込め、稲光と雨が教室を満たした。実体化した竜が悠々と天井を旋回するのを見ながら、俺はただ呆然としていた。何が起きたのかまったく理解できなかったが、関わってはいけない類のものだとは本能で察した。これは、過去の幻影を蘇らせかねない案件だ、と。
とはいえ、制作者が消えてしまったことについては、どうにかしないとまずい、と義務的に思った。生徒の失踪など、教師の所為にされるに決まっている。だから、俺以上に呆然としていた月時を叱咤し、どうにか竜を木彫りに戻させた。
彼曰く、目が合ったという感覚があり、そこから作品と繋がった、らしい。
正直理解しがたい話ではあったが、実際に目の前でやられてしまった以上、信じないという選択肢はなかった。どういう仕組みかはさておき、作品を実体化できること。実体化させると、制作者が消えること。その二点が月時の能力における重要なポイントであった。
これが、皐月と同じものであるのかどうか、この時はまだ確信を持てていなかった。皐月からは確かに、目が合った感じがした、とは聞いていたが、それ以上のことは聞かなかったし、聞こうともしなかったからだ。
一体何の因果だろうか、と俺は思った。俺は、こういう星のもとに生まれてきたのだろうか。神隠しを起こす変人と関わりを持ってしまう、巡り合わせの中に。
「いやぁ、びっくりしたっす。まさか彫刻が動き出すなんて、想像すらしてませんでした。あ、でも、ゲームでよくある動く石像みたいのは、実際に起きたら普通にホラーだなぁって思ってましたね! 甲冑とか飾ってあるの見ると、ついついそんな想像しちゃってました。……もしかして、そういうこともできんのかな、俺………ほんと、どうなっちゃったんだろう、俺の目って」
と、彼は少し不安そうに言った。
「先生、これって秘密にしておくべきっすよね?」
実に優秀な生徒だった。
月時のことは嫌いではなかった。好きな部類に入る人間だった。こちらの話をよく聞いてくれるし、積極的に質問にも来る。教師としても好ましく思えたし、個人的にも気の合う人物であった。稀世の才能を持ちながらそれをひけらかすことはなく、特異な能力を持ちながら必要以上に怯えることもなく、常に自然体を保ち続けることの、どれほど難しいことか。もはや尊敬に値する。月時の、能力が発動してしまった時に、すぐさま俺の元へ駆け込んでくる様には可愛げがあったし、先生しか頼れないと言われて、悪い気はしなかった。素直に、力になりたいと思わされた。彼の才能が――皐月のように、儚くも理不尽に――消えてしまわないよう守るのが、唯一事情を理解している教師としての役目だと。そう確信していた。
贖罪の気持ちが、無かったとは言えない。皐月に対して何もしてやれなかったのは厳然たる事実だ。過去の影をもう一度振り返って見るのは正直嫌だったが、ここまで来ると諦めが先に立った。むしろ、過去の痛みを経験則として役立てるのが、先に生きる者としての務めではなかろうか。月時のために活かせるならば、昔の俺が味わった苦しみも、決して無駄ではなかったのだと思えた。
おそらく、月時の性格は、ただ一方的に無償の助けを施されるのを、是とはしないだろう。だから、もし何か聞かれたら、俺の行動は過去の罪滅ぼしだ、と言うことにした。それが、積極的に彼を助ける建前になる。
けれど、俺は見誤っていたのだ。
あえて見ないようにしていたのかもしれない。
彼の、ぼーっとする時の顔。題材に選ぶテーマ。こちらの内側を見通すような目。好んで使っている画材。癖の強い髪。仕草、あるいは歩き方、果ては雰囲気。そういう細かいところが、ふとした瞬間に、俺を過去へと誘った。そういうところが目に付いた瞬間、俺は何故だか、無意識の内に皐月のことを思い出していた。
ずっと不可解に思っていたが、能力を目の当たりにして、なるほど似ているわけだ、と納得した。同じ能力を持っているならば、雰囲気や仕草が似ているのも、そういう人たちの共通項なのだろう、と。
それ以上の繋がりがあるかもしれない、などという考えは、一切持ち得ていなかった。
本当に、見誤ったのだ。
「母さん曰く、学生時代の後輩だったらしいんすよ、緑川さん。すっごく可愛かったのに、あんまり男運がなくって、情緒不安定気味だったから、当時、色々と相談に乗っていたらしくって――その流れで、彼女が不注意で妊娠してしまった子どもを、引き取ることになったって。それが俺なんす。まぁ結局、あまり力になれず、緑川さんは俺を生んだすぐ後に、自殺してしまったらしいんすけど。緑川皐月さん。その当時の彼氏さんの名前は、」
と、彼は言いさして、微笑んだ。
「先生、秘密ですよ?」
実に優秀な生徒だった。
稀有な才能を持った生徒であり、過去の幻影が残した呪いの代行者だった。
彼は一体、いつから気付いていたのだろう。彼が俺の子供? 皐月が手紙に少しだけ書いていた、あの? 関係を持たせないために私たちから切り離す、と言った彼女のあの言葉は嘘だったと、そういうことか? 彼は俺のことを知った上でこの大学に入学したのだろうか。だとしたら、今までのすべては演技だったのか? ではなぜ、このタイミングで真相を明かした? 明かす必要があったのか? ―――あるいは、隠しておく必要がなくなったのか?
混乱して恐怖する俺を余所に、やはり月時は自然体を保ったまま、今日も平然と廃材を貰いに来る。俺を脅そうだとか、復讐しようだとか、そういう気配は微塵も見られない。これまで通り、廃材を漁っては、思い付くまま並べただけというように、軽やかに雑談をしていく。前に依頼されて彫刻しに行った喫茶店の新メニューのこと。同じ学科の女の子のこと。入院している友人のこと。フリーマーケットで出会った新しい友人のこと。おすすめされた映画のこと。自分が好きな音楽のこと。
だが、これらすらも演技だとしたら、彼は一体何を狙っているのだろうか。
……きっと、時が満ちるのを待っているのだろう。そうとしか思えない。俺に対して何か行動を起こすのに、最も適した時はいつなのだろうか。そして……そして、何を、するつもりなのだろうか。
この奇妙に捩じれた関係性を学校に暴露するのか。したらどうなるのだろう。俺の過去は決して犯罪ではないが、ここに居辛くなるのは確かだ。しかしそれは彼にとっても同じ。玉砕覚悟でそうするならば、俺も覚悟して迎え撃つが。
それ以外のことと言ったら―――
「あ、そういや、今朝の新聞見ました? またあの、怪盗鬼門組、ってやつらが出たみたいっすねー。今時怪盗とか、めっちゃ珍しいっすよね! 面白いけど。ちょっとだけ、会ってみたいなーって思います。今回盗まれたのは、絵だったらしいんすよ。作者不明で、呪われた絵だって噂されてるやつだった、とかって、書いてあったんすけど」
と、彼は無邪気に言った。
「知ってます? 〈五月革命〉ってタイトルの絵」
彼の、そのすべてを見通すような目は、俺の嫌いな目そのものだった。
背筋が凍り付いた。〈五月革命〉というそのタイトルを――偶然の一致だろうが、俺の昔を想起させる不吉な名前を――聞いた瞬間、悪寒が全身を貫いた。
と同時に、確信した。奴は何もかも知っている。知った上で、俺をいたずらに恐怖させた後、消し去るつもりだ――――その、忌まわしき能力を使って。
過去に得た情報から考えれば、制作者を閉じ込めた作品が外部から破壊されると、制作者は心臓発作で死に至る。要するに、証拠を一切残すことなく、人を殺せるのだ。本当に、忌まわしき、としか言いようがない能力である。
俺は、学校に置いてある自分の作品を、片端から処分することにした。それなりに丹精込めて創った作品たちを、次々に焼却炉へ放り込みながら、思考は完全に過去へ舞い戻っていた。
どうしてこんなことになったのだろう。俺は何も悪いことはしていないのに。あの女に関わったのが運の尽きか。見捨てたのが悪かったのか。いや、見捨ててなどいない。あの女が自分から勝手に死んだまでだ。俺を恨むのは筋違いだろう。どうして俺が恨まれなければならない。憎まれなければならない。呪われなければならない! 一生懸命歩いてきて、二十年もかけて歩き続けて、辿り着いたのが元の場所とは一体全体どういうことだ? なぜ、どうして、ここまで来て尚、お前さんは俺を縛るっ? 俺がお前さんに何をしたっ?
ガラス戸に貼り付いた黒い手が、俺に向けて伸ばされている―――今も、まだ。
死人に口なし、など、誰が言ったのだろう。
確かに、死者から新しい言葉が紡がれることはない。しかし、既に紡がれてしまった言葉は、死を含むことによってむしろ色を濃くするのだ。恐ろしいまでに、鮮やかに、脳裏に蘇る過去の幻影。それが現在の俺の上に影を落とす。日に晒されることはなく、雨に流されることもなく、暗澹たる雲の塊が空を埋め尽くしている。
俺に付けられた足枷は、ずっと付けられたままだったのだ。そしてその鎖は、死者の影を焼き付けた壁と繋がっている。ここから離れるには、足枷を壊すしかない。壁を破壊するのは無理でも、足枷くらいなら壊せるだろう。それはもう、容易く。
新たな鎖が紡がれる前に、口を奪ってしまえばいいのだ。
もう、呪いの文句は、聞きたくない。