第1話「プロローグ」
長い長い戦争が終わって、既に半月が経っていた。
少女の灰色の生活にも、ようやく彩りが戻ってきたと実感できる。世界は息を吹き返し、ようやく融和と調和、流通と経済を思い出した。互いに突きつけあった銃を捨てた手と手は、再び結ばれるために差し出されている。
だから今日は、こんなにも空が青い。
雲一つない蒼穹が、高く遠くどこまでも続く。
その下を歩く少女の先に、廃墟となった施設が沈黙していた。
爆撃で機能を失い、遺棄された軍事基地だ。
迷わず少女は、ひしゃげて破けたフェンスの金網をくぐる。
「今日も、いるかな? いる、よね。……いて欲しい、のかな……わたし」
最近、無人の基地に奇妙な噂があった。
幽霊を見たというのである。
そして、その話の真相を一部の大人は知っていた。勿論、少女も確かめた……実際に会ったのだ。
恐らく、脱走兵か敗残兵だ。
だが、危険はない。
その青年は、大人たちが警戒するような悪い人間ではないから。
直感で察して、僅かなふれあいで確かめたから、少女にとっては真実で、それが全て。
「あっ、いた! ……あの! えと、その……よかったら、ごはん……今日も、食べませんか?」
手にしたバスケットを両手で持ち上げて見せながら、少女は炎天下の中で微笑む。
彼女の視線の先、崩れかけた格納庫の暗がりに人の気配があった。
相変わらず、まるで獣のような眼光が少女を睨んでいた。闇の中にあって、闇より尚も暗い瞳の輝き。その男は、感情の失せた表情で歩み出した。
陽の光に包まれた少女を前に、彼は無防備だ。
だが、太陽を嫌うように距離を取って見詰めてくる。
「……前にも言った。ここには来るなと」
「で、でもっ! あの……お腹、空いてると思って」
威圧と威嚇が綯い交ぜになった視線が、少女を貫いた。
だが、怖くはない。
薄汚れたシャツから覗く、引き締まった腕。腰で結んでいるのは、上下一体となった戦闘機パイロットたちの着るスーツだ。
そして、彼の背後にはシートを被った巨大ななにかが沈黙している。
恐らく、軍用の飛行機、戦闘機だ。
詳しくはないが、少女は知っていた……彼は、その存在を自分ごと隠してなにかを待っている。そして、闇の中で牙を研ぎながら、全てを拒絶して己を高めているのだ。
「……そこに置いておけ」
「は、はいっ!」
男は乱雑に散らかった格納庫で、雑音に唸る無線機をいじって、背を向けた。
いつものことで、彼は少女に全く興味を示さない。
再び作業に没頭し始めた背中を眺めて、少女は恐る恐る格納庫へ入る。オイルの臭いが鼻を突いて、日光が差さぬ薄闇が少しひんやりとする。
青年は相変わらず、黙々と機械をいじっていた。
無線機の乗ったドラム缶の上に、少女はそっとバスケットを置く。
「あっ、そ、そう言えば! あの、この間はありがとうございました。母の怪我も大したことなくて、その……と、とにかくっ、助かりました!」
少女が頭を下げても、青年は言葉を返してこない。
振り向きすらせず、一心不乱に工具を働かせている。
それでも、少女は落胆することなくはにかんだ。
何故なら、彼は……母一人子一人の少女にとって、命の恩人だから。戦争が終わって、復員してきた男たちの数は少ない。長引いた世界大戦のせいで、男性人口は極端に減ってしまったのだ。
しかし、ゼロという訳ではない。
そして、戻ってきた兵隊たちの中には、荒んだ無法者だっていたのだ。
そうした無頼漢たちに、少女は母と一緒に絡まれた。国のために戦った自分たちのために、持っている金を出せと迫ったのだ。混雑する闇市の中で、助けてくれたのが目の前の青年である。
彼が噂の幽霊の正体だと知ったのは、つい先日のことだ。
「えっと……じゃ、じゃあ、帰りますね」
やはり、返事はない。
だが、不思議と嫌悪や拒絶は感じなかった。
ただ、ひりつくような緊張感が格納庫を一層寒からしめている。
この青年が纏うそれは、少女が知らず考えもしない感情……殺意だ。
鼻から溜息を零して、少女が去ろうとしたその時だった。
不意に、ノイズを連ねて吐き出す無線機に言の葉が混じった。
『――これより全機、出撃――目標は……確実に仕留め――これが初陣……各員、奮起せよ。終わった戦争は――始まるためにこそ、終わるのだから……』
その時だった。
振り返った少女は、見た。
躍りかかるように無線機にかじりつく、青年の笑顔を。
歓喜に満ちた中で、おぞましい狂気が渦巻いていた。
「掴まえた……捉えたぞ。以前と変わらぬ周波数を使うことはわかっていた……待ってろ、今行く。終わらせてやるっ、エルベリーデエエエエッ!」
激情に荒ぶる中で、狂奔の炎で己を焼く笑みだ。
青年は狂喜に震えながら、無線機からなにかを聞き取り何度も頷く。
次の瞬間、彼は腰の結び目を解いてパイロットスーツに身を包む。転がっていたヘルメットを蹴り上げ手にすると、静かに戦闘機を覆うシートを握った。
――エルベリーデ。
彼は確かに、唸るような声でそう言った。
多分、女性の名だ。
青年にとってのなんだろうか?
誰だろうか……少女の胸に不安が押し寄せる。
初めて見る青年の感情は、研ぎ澄まされた刃のような憎悪だったから。
そうこうしていると、青年は一度だけ少女を振り返る。
「……そこに鞄がある。わかるな? 持っていけ」
「えっ? あ、ええと……こ、これですか?」
再び砂嵐のような音を吐き出し始めた無線機。それを乗せたドラム缶の脇に、小さなスーツケースがあった。開けてみると、中から大量の紙片が溢れ出る。
「これって……たしか」
「軍票だ。紙屑みたいな価値しかないが、それだけあれば幾ばくかのまとまった金になる」
「そんな、わたしは別に」
「フン……飯の礼だ」
そう言って、青年は少女に向き直る。
その暗い眼差しに射抜かれ、少女は呼吸も鼓動も忘れそうになった。
彼はそっと手を伸べ、格納庫の外を指差す。
「今すぐ、出て行け。逃げろ……決して振り向かずに」
「でも、あの……今日のお昼ごはん」
「失せろ……真っ直ぐ家へ帰れ。ここにいると……吸い込まれて吹き飛ばされる」
有無を言わさぬ言葉だった。
そして、初めて交わす会話じみたもので、これが恐らく最後だと漠然と悟る。
少女は少し重いスーツケースを手に、走り出した。
太陽の下に出てもまだ、妙に身体が凍えて強張る。
何故か無性に家の母が恋しくなって、怯えた子供のように全力疾走で駆け抜けた。その背中は、シートの引き剥がされる音と共に聴く。
沸騰する空気の絶叫。
全身に割れ響く、轟音。
耳をつんざく咆哮……それは慟哭を歌う金切り声のように響き渡る。
息を切らせて走り、基地を囲むフェンスまで来て、少女は振り返った。
そして、目撃する。
「あれは……あの人、の? なんて……なんて、綺麗」
タキシングで滑走路に向かう、一機の戦闘機。
人を殺し破壊をもたらす兵器。
なのに、優美な姿はまるで鼓動する翼だ。
鬼哭のような心音を張り上げた、巡る血のように赤い飛行機。鋭角的ながらも曲線と直線が複雑に絡み合う流線型だ。
真っ赤な戦闘機は滑走路に躍り出るや、加速する。
雲一つない空へと、あっという間にその翼は飛び去った。
まるで、滴る朱に濡れた吸血鬼だ。
既にもう、太陽さえも恐れぬ死の眷属。
少女は飛び去る翼が残した飛行機雲を、いつまでも見詰めていた。
そして知る……もう二度と、あの人には会えないんだと。




