12. 勇者の犠牲、あるいは魔王の勇者
戦勝の祝いの夜には終わりがなかった。
文字通り夜が終わらず、明るくならない空に人々がようやく気が付いた頃、魔王の躯の周りに立ち込めていた黒い霧は城に、国に、大陸に広まっていた。そしてより深い暗闇ができると、そこからは魔物が現れた。何万もの骸骨の戦士。広い草原を埋め尽くすほどの死霊の戦士。小山のようなサイクロプスの群れ。海にはセイレーン達が集い、岩陰からはマンティコアが飛びかかって来た。森に逃げ込めばラミアーに襲われ、建物に逃げ込めばスキュラに壁ごと蹴りぬかれた。天を仰げば巨大すぎて顔が雲の上に消えてしまっている伝説の魔物、疲れ知らずのティフォンの脚が見えた。ティフォンが足を踏み鳴らしただけで、昨日を無傷で生き延びた兵士の半分も死んでしまった。
突如現れた荒れ狂う魔物の大軍から逃げ惑っていた人々は、もはや魔王の遺体がどうなったかなど確かめようとも思わなかった。
***
大陸人間社会連合軍による二度目の魔王襲撃の翌日に始まった新たな魔王を決める戦いは大陸中に飛び火していた。農地は荒らされ、海も荒れ、昼夜を問わず徘徊する魔物の軍団のおかげで村々は孤立した。人の子の国はもはや国としての体を成さしていないそうだ。
しかし、魔物達も大陸を一部の隙なく燃やし尽くしたわけではない。魔物の国の奥深く、誰も興味を持たないような小さく黒々とした沼のほとりは、以前と変わらぬ陰気さであった。私の故郷だ。
魔剣で斬られた私は多くの魔物を食らって手に入れた力を失い、無力な一つの魔物に戻った。いまや私は故郷の沼と同じように誰にも見向きもされない小物である。
「まだ新たな魔王は決まらぬようだな」
沼のほとりの木の根に上っていくと、その先には我が深き毛皮の友が丸まっていた。玉座にはめ込まれた宝玉の代わりに出っ張った木の節をひっかいている。
「そう簡単には決まらねえだろう。お前が魔王になったときは例外だよ。最初に先代魔王を食らってその力をそっくり受け継いだんだからな。そりゃあ強くて当然だった。出会う魔物を片っ端から食って、そのたびに強くなって、あの疲れ知らずの巨人のティフォンだって結局丸呑みにしちまった」
「そうしなければ、魔王候補の敵としてこちらが殺されていたのだから仕方なかった。食って腹の中に封印する方が、殺すよりいいだろう。実際、腹を切ったら皆復活した」
「追跡の王」に強引に力を譲られてから魔王になるまで、私は敵対する魔物を片っ端から食べた。ほとんどすべての魔物を食べつくしてしまったと言ってもいいだろう。例外は我が深き毛皮の友くらいのものだ。
「だがその力も既にない。サイクロプスの細工は最高だった。あの魔剣は魔力だけを一撃で打ち砕いた。今の私には魔術など一つも使えない。残ったのは「追跡の王」に出会う前に身に着けた言葉くらいのものだ」
せっかく気に入っていた毛皮を纏う術さえ使えない。今の私は黒く小さな蛙である。ぬるりつるりとした表皮を見ると聊か気が滅入る。どうして蛙には毛皮がないのであろう。
「生きてるだけいいじゃねえか。あれが聖剣のままだったら、たぶん死んでただろう?」
「恐らくな。マントを出している暇がなかったから」
聖剣の陰険な力は魔物の命を砕くものだというから死んでいただろう。
「……悪かったよ」
「まだ気にしているのか? 玉座に近づいたこと」
「あいつら俺のことなんて見てないだろうと思って油断したんだよ」
ふふ。知っているぞ、我が友よ。
「チーズのかけらに気を惹かれたのだろう? 玉座の下に転がったままになっていた。我が友はあれに目がない」
小さな手が木の根を何度もひっかく。小さな爪の傷がたくさんついた。
「良いではないか、友よ。その後、お前は魔力を失い死にかけた私をつれて逃げてくれた。あのまま城にいては目ざとい魔将に捕まってさっさと殺されていたかもしれん。これで貸し借りは無しだ」
それに。
「この生活も良い。何と言っても野蛮な勇者が尋ねてこない」
***
一年か二年か。もう日付の感覚を失ったある日、本当に久しぶりの来客があった。
「魔王、魔王」
それは痩せて薄汚れた人の子だった。
「お願いです、姿を見せて下さい。今こそあなたが必要なのです」
岩の上に上がっていた兄弟たちは一斉に葉陰に飛び込み、沼に逃げ込み、姿を隠した。他の生き物も皆、動きを止めて闖入者をじっと見つめている。
人の子は泥濘の中に膝をつき、額を擦り付けるようにして伏した。骨の浮いた両の手を体の前に投げ出している。
「魔王よ、あなたの他にこの混乱を鎮められる者はいません。このままでは大陸は端から焼けて崩れ落ち、人も魔物も何もかも皆死に絶えてしまう。たった一年で何人の兵士が死んだでしょうか。次の一年で何人の女が。守ってくれる者を失った子供が。魔王が決まれば、魔物は鎮まるのでしょう? お願いします。再び立ってください。あなたの助けが必要なのです」
涙を浮かべて顔を上げたのは、いっとき私の語らいの友であったヴァルキリウスだった。窶れ、汚れ、面差しはまるで変わってしまったが青い瞳は相変わらずだ。
「久しいな、ヴァルキリウス。よくここが分かったものだ」
声をかけるとヴァルキリウスは目を丸くして、それから安堵したように笑った。以前とは似ても似つかない蛙の姿を見たらもっと驚いても良さそうなものだが、探し当てたということは蛙であるということくらいは察していたのかもしれないな。沼の生まれだとは教えていたのだし。
「探しました。きっと生きていらっしゃるだろうと幾つもの沼を巡って」
今日の大陸を旅するのは容易ではない。魔王の座を争う戦いが起きているのだから誰もが私は死んだと思っているだろうに、一縷の望みをかけて探し回っていたのかと思うと少々胸が痛む。
「期待を裏切るようで悪いが、今の私はただの蛙。魔物という魔物を腹に収め、その力を我がものとしていたときとは違うのだ。深き毛皮の友でさえ、その気になれば簡単に私を食い殺すことができる。私は弱く小さな存在なのだ」
残念だが期待には応えてやれない。私の姿を見るだけで分かるだろうにヴァルキリウスは諦めなかった。
「では、最初に私を食べて下さい。食べれば力がつくのでしょう? 私を食べれば剣を振るう腕と、いささかの魔術を手に入れることができます。私は一時でも勇者であったもの。大抵の魔物には後れをとりません」
ああ、黒き沼の神よ! 私は何ということをこの男に教えてしまったのだろう! ようやく見つかった新たな友が嬉しくて、口を滑らした日のことが悔やまれる。
「ヴァルキリウス! 何ということを! ならん。それは全く受け入れられん。お前は私が出会った人の子の中で、対等に話をすることができた唯一だ。お前は、私の希望だ」
「ああ、これほど嬉しい言葉があるでしょうか。あなたの、誰よりも我慢強く大陸の平和を守ってくださっていたあなたの希望となれたのなら。これに勝る喜びはない」
「別に大陸の平和を守っていたわけではない」
ヴァルキリウスは首を振った。
「いいえ、いいえ。今なら誰でも分かるでしょう。愚かな勇者が挑んだときに魔王がその気になれば、どんな国も跡形もなく滅ぼすことができたはずです。勇者が来る前だって。あなたなら、この混乱を自分の意思で作り出すこともできたのに、それをしなかった。何度も訪れる勇者に根気強く語り掛けていたことを私は知っています」
私は殺しあうことを厭っただけだ。だが、その弱気な態度が人の子を増長させ、今の混乱を招いたのかもしれぬ。カールハイツの手にあったものが魔剣ではなく、ただの鉄の剣なら恐らく私は今も魔王だったのだ。あの剣をカールハイツに与えたのは私。私の油断だ。それがこの騒乱を産んだのだ。
「お願いします。あなたが私をここから生かして帰しても、人の世が亡びれば、大陸が亡びれば、私も死ぬしかないのです。無力に打ちひしがれ、一人で冷たい大地に横たわる最後まで、この世のあらゆる苦しみを見つめて回るしかできません。ですがあなたが再び立ち上がってくだされば、人は生き残るでしょう。魔物も落ち着き、自らの暮らす場所へ戻るでしょう。焼けた大地はもう一度芽吹きの季節を迎えてくれることでしょう。その糧になるために、今ここで、あなたの生まれたこの沼に身を横たえる方が、遥かに有意義なことなのです。私の心に叶うことなのです」
ヴァルキリウスに弁論術を教えたことを、後悔する日が来るとは思ってもみなかった。
「私に、大事な、たった一人の人の子の友を食えと言うのか。私に! お前を!」
恐ろしいことだ。耐えがたいことだ。
今の私には相手を腹の中に封印するほどの魔力はない。言葉通りの意味で食べるしかないのだ。つまり彼を食べるということはヴァルキリウスを永遠に失うことと同じだ。
「時間がないのです。疲れを知らぬ魔物のティフォンが足を踏み鳴らすたびに大地は砕け、死が広がります。私も、元来た道を帰ることはできないでしょう」
ヴァルキリウスの瞳は決然としていた。初めて会った時とは違う。自らの中に意志のある強い瞳をしていた。ギラギラと輝く瞳は私を見つけた日の「追跡の王」と同じだ。その奥で命が燃えている。
ため息が出た。もうどんな魔物も私の息に乗って飛び出してくることは無い。ただのため息だ。
「魔王の城にくる客は野蛮な勇者ばかりだったが、このような小さなつまらぬ沼に姿を見せる余所者というのは、もっと碌でもないのだな」
私の体を流れ落ちた涙が湿った土に吸い込まれていく。
「こんな辺鄙なところへやってきて自分を食えと私に言うのだ。自分の願望のために! 残される私のことなどお構いなしだ!」
ヴァルキリウスはただただ伏していた。痩せた腕、浮いた骨。旅の苦労だけではなく、大きな人の子の体を維持するには、今のこの大陸で手に入れることができる食料は少なすぎるのかもしれない。彼の言ったことは大げさではないだろう。今、ヴァルキリウスを退けても結局この男は死ぬ。それも、そう遠くない未来に。
私は言葉を失い、水かきのついた手でヴァルキリウスの手を何度も叩いた。しかし、彼は頑として顔を上げなかった。
「魔王よ、観念するがいい!」
懐かしい言葉に私は悲しみと怒りにふらつく頭を上げた。叫び声の主はヴァルキリウスの前にちょこんと座っている。
「深き毛皮の友よ。私に何を諦めろと言うのか、分かるように説明してくれ」
小さく笑った友の髭が揺れた。
「この居心地のいい、穏やかな生活をだ」
「友よ。私にヴァルキリウスを食えと言うのか」
「そうとも、賢い蛙。お前は何も言い返せなくなっちまったじゃないか。この勝負はこっちの男の勝ちだ。そうだろ?」
ヴァルキリウスはようやく顔を上げた。涙の流れたところだけ、肌から汚れがおちて白い頬が覗いている。
「魔王よ、一緒に連れて行ってください。あなたが大陸に平和を取り戻すとき、私は自分が勇者であったとやっと胸を張ることができます」
私は問うた。
「教えてくれ、ヴァルキリウス。そうまでしてお前が目指す勇者とは一体なんなのだ?」
ヴァルキリウスは晴れ晴れとした笑顔で答えた。
「勇者とは心から平和を願う者です。そして、そのためにどんな努力も犠牲も厭わぬ者です」
ああ、なんだ。そうか。
では私達はずっと同志だったのだな。
「勇者ヴァルキリウスよ。そうであるならば私はこれから勇者を名乗ろう。私の知る限りにおいて魔王が勇者になってはならぬという定めはない」
ヴァルキリウスは泣きながら声を立てて笑った。
***
理屈屋の魔王「暴食の王」亡き後、大陸を燃やし尽くした黒い炎の時代は魔物の国の奥地から順に終わりを告げ始める。猛り狂う魔物を封じ、少しずつではあるが確実に平穏な土地を広げていく勇者のもとには我先にと人々が集まった。
彼はやがてすべての魔物を封じ、あるいは臣従させ、大陸に平和を取り戻した。そして平和が戻った後にはいかなる名誉も求めることなく封じた魔物達を見張るために魔物の城に籠って生涯を過ごしたと言う。
名前を残さなかった伝説の勇者の絵姿には常に愛らしい鼠の姿が描き添えられている。
お付き合いありがとうございました。
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