響きわたる軍靴
ヒトラー率いるナチ党は、ザフィールにとって正義の味方でした。ザフィールだけでなく、ドイツ国民のほとんどにとって英雄だったと言えるでしょう。
なぜって、当時のドイツは谷底まで転がり落ちていたのです。
世界大戦に敗れ、
多額の賠償金を抱え、
働けど働けど生活は楽にならず……
国民たちの不満は膿のように溜まっていました。この苦労を子や孫にまで背負わせるのか、と。
そんな聴衆の憂さを、ヒトラーは熱狂的な演説で晴らしました。
「このまま奴隷として生きるか。それとも、誇り高いドイツ帝国を取り戻すか」
もう議会は信用されていませんでした。すでに独裁政治の素地はととのっていたのです。
あとは誰が最高権力者のイスに座るか——それだけでした。
しかし、これらは戦後になって知り得たことです。
情勢の動きをつゆ知らず、私はその年のクリスマスを心待ちにしていました。
「ザフィのお家の皆さんもお招きしたって、スレヴのお母さんが教えてくれたの」
ザフィールはあからさまに嫌そうな顔をして、「あんなヤツ」と舌打ちしました。その日はスレヴが店番だったので、二人で昼ごはんを買って帰るところでした。
「一人でウォッカでも飲んでいればいいのさ」
「本当にお父さんが嫌いなのね」
「嫌いだね」
「それなら、お母さんは?」
「……母さんは、弟たちの世話で忙しい」
ザフィールはさびしそうに言いました。そうして、ぽつぽつと自分の家族のことを語ってくれたのです。
弟と二歳の妹がいる。
歳の離れた兄がいて、ベルリンの寮学校に入っている。
「寮学校は……」
ザフィールは少しためらいました。
「たぶん俺も来年になったら、そこに入ると思う」
「えっ!」
「寮に入れば、ナチ党の支援が受けられる」
それはつまり、衣食住が保証されているということです。
私はザフィールの父親の言葉を思い出しました。
——おまえのような食い扶持がいるせいで……!
「そんな……」
「なんだよ、寂しがってくれるのか?」
ザフィールがにやりと口の端を上げました。
「ちがうわよ。せっかくザフィの意地悪にも慣れてきたのに、って言いたかったの」
「可愛くねぇなァ」
「うるさいわね!」
私がザフィを小突くと、さらにニヤニヤした顔で言い返されました。
「そんなにじゃじゃ馬だと、スレヴの嫁にはなれないぜ」
「な——!」
「わかりやす過ぎんだよ、おまえ」
「ちが……っ、そんなんじゃないってば!」
「何がだよ。スレヴの前ではいっつもお姉さん振りやがって」
「ちがうってば!」
私はたぶん、顔が真っ赤になっていたと思います。
「ただ、その……優しい人だなって、それだけよ」
「顔もかっこいいし?」
「もーやめてよ!」
ザフィールは心底楽しそうに笑いながら、通りを駆けました。そして私の前に立ちはだかり、人差し指を立てました。
「ひとつ俺の命令をきくなら、知らない振りをしてやってもいい」
「い、や!」
「フーン、あっそう。スレヴには何て言おうかなぁ」
「性格、わるい……!」
「元からだよ」
ザフィールの高慢な笑顔に負けて、結局、私は命令を——まさかと耳を疑うような、意外な頼みを——聞き入れることにしたのです。
待ちに待ったクリスマス・イヴ。
スレヴの家に集まったのは、私と父、ザフィールと母親、下のちいさな弟妹たちでした。
「お父さま!」
父が抱えてきてくれた、たくさんのプレゼントボックスおかまいなしに、私は飛びつきました。
「ヴィーシャ、えらく背が伸びたじゃないか!」
「お父さまは、ちょっぴりお腹が大きくなったわ」
ベルトの上にはみ出たお肉をつまむと、父はニコニコ笑いながら言いました。
「今日はおまえたちのお腹もすっかり大きくしてやろう。おみやげをたくさん持ってきたよ」
たくさんの食材の缶詰や包みを見て、母親たちは「まぁこんなに!」と色めき立ちました。
そうしてあっという間に、食卓の天板が重さに軋むほど、これでもか、これでもか、と料理が敷き詰められました。
湯気の立つソーセージとキノコの煮込み。
バターたっぷりの生地をうすく広げて作るパイの重ね焼き、これはスレヴのお母さんと私が昨日から作ったもの。
そしてザフィールのお母さんが作ってきてくれた——デザートのチョコレートケーキ!
「すごい、初めて見たわ!」
「ヴィーシャちゃん、喜んでくれて嬉しいわ」
スレヴがあやしていた赤ちゃんを、代わりに抱き上げながら、ザフィールのお母さんは言いました。
「黒い森——シュヴァルツヴァルトというお菓子なの。本当はチェリーがあればよかったのだけど……」
もうワインを開けている父が「おお、それなら」と缶詰の山を指さしました。
「酒漬けのチェリー缶を持ってきましたよ。ケーキに合うかは分からんが」
「まぁ、助かりますわ」
動こうとしたザフィールのお母さんを、スレヴのお母さんが「いいのよ、座っていて」と制します。赤ちゃんはお腹が空いたのか、ぐずり始めていました。
「私たちで飾りつけをしてもいいかしら?」
「ええ、お任せいたします」
「スレヴ、ヴィーシャ、手伝ってちょうだい。ねぇあなた、缶切りはどこにあったかしら?」
お世辞にも広いとは言えない家に、こんなたくさんの人数が集まったのは初めてでした。動くたびに誰かとぶつかって、イスも足りない始末です。
でも、私は嬉しかった。楽しかった。
スレヴもザフィールも笑っていました。
国や文化の線引きなんて、美味しいごちそうと心の豊かさの前では何の意味も成さないのです。
そして、そんな素晴らしい夕食の最後を飾ったのは、ザフィールの歌声でした。
〜♪きよし、この夜……
ドイツ訛りのポーランド語が、やわらかな旋律にのって響くのを、私たちは聞きました。
ザフィールの命令——それは、この曲のポーランド訳を教えてくれ、ということだったのです!
それから皆の目を盗んでは、二人でこっそり練習しました(スレヴには何度か怪しまれましたが)。
ザフィールが一生懸命取り組む様子には、日頃憎まれ口を叩き合っている私でさえ、胸を打たれたものです。
慣れない発音ながら背筋を伸ばして、緊張に震えつつも誠意をこめて歌うザフィール。
スレヴのお父さんも、ザフィールのお母さんも、目に涙を浮かべて聞き入っていました。きっと、少年にできる精一杯の恩返しだと、分かっていたのでしょう。
あまりにも美しい……最初で最後のクリスマスでした。
今、この手記を書きながら、手元にあるスケッチを見返しています。
戦禍のなかで何度も失いかけ、それでも離さなかった一枚の絵。
これは、私がクリスマスの朝、ザフィールとスレヴに贈ったカードの下絵です。
私たち三人の笑顔を描き、二枚のカードに写して絵の具を塗りました。
自分では上出来のつもりでしたが、見返すと、ずいぶん下手です。
ザフィールの目はトンボのように大きいし、スレヴの指は一本足りません。私の顔ばっかり大きくて、まるでお姫さまのようにドレスを着せて描いてあり、恥ずかしいったらありません。
二人に渡したカードが、この下絵より良い出来であったらいいのですが。
冬が過ぎて春になり、ザフィールは徐々に、健康を取り戻していきました。
ボサボサだったはずの金髪は陽光に透けて輝き、肌はまるでマイセン磁器のように滑らかで、どこかの国の王子様ではないかと疑ったほどです。
「ねえスレヴ、最近のザフィールったら、妙にキラキラして見えない?」
キッチンでジャガイモの皮を向きながらつぶやいた問いかけに、スレヴは目を丸くしました。
「そんなに驚かなくても……」
「や、ごめ」
「だってそうじゃない? 口は悪いけど笑うと可愛いし、意地悪だけど、なんだか品があるもの」
「ヴィーシャは、ざ、ザフィの、こ、ことが、好きなの?」
「えぇっ!?」
まさかそんなふうに受け取られるとは思っていなかったので、私のほうが大きな声を出してしまいました。
「なんで!?」
「ザフィは、き、きれい、だから」
「確かに綺麗だけど……好き、なのは……」
スレヴの耳が真っ赤になっているのを見て、なんだか居た堪れない気持ちになり、私はうつむいてしまいました。
「あんなの好きになるほど、物好きじゃないわ」
「悪かったな、《あんなの》で」
驚いて振り返ると、キッチンの入り口にザフィールが立っていました。
「ナイフで指を切っちゃうところだった!」
「ピィピィうるさいな」
私が落としたジャガイモを拾い、ザフィールは口調とは裏腹に笑って見せました。
「ま、今日は機嫌がいいから許してやる」
「横暴ね」
「なんとでも言え。今の俺は無敵だ」
「もしよろしければ、その理由を教えてくださいませんか、殿下?」
嫌味なほど丁寧に言うと、ザフィールは自慢げに鼻を鳴らしました。
「寮学校の審査に通った」
「え?」
「ベルリンに行く」
「うそっ!?」
ザフィールは「嘘なもんか」と言って、届いた封書を見せびらかしました。
「やっとだ! やっと、あの飲んだくれ野郎から離れられる!」
「もう、またそんな言い方して……」
「——と、とけ」
スレヴが珍しく声を張り上げました。
「時計、の、修理が、も、もうすぐ、終わる」
「あぁ、アレがどうかしたか?」
なぜか、スレヴは黙ってしまいました。
見ているこちらが痛くなるほど唇を噛んで、何か言いたげな、それでいて耐えているような、そんな様子でした。
数週間後、スーツケース片手に広場で別れたザフィールの姿は、一年前とはまるで違いました。
顔をゆがめてクシャクシャに泣いていた痩せっぽっちの少年は消え、頬に赤みさし晴ればれとした表情のザフィールは、期待に胸ふくらませ手のひらを振りました。
「夏休みには戻ってくるから、おまえら、ドイツ語ちゃんと覚えてろよ!」
「あなたこそ、ポーランド語を忘れないでね!」
クラクフの広場にかかる朝もやを、金粉のように輝かせる光のなか、私たちは再会を誓いました。
このわずか2年後、私たちは思い知ることになります。
交わした言語の数々、
心地よく過ぎる秒針の音、
三人で弾き歌い踊ったメロディを——
踏みにじり塗りつぶす、真っ黒なリズム。
それは二万人の群衆が祝う党大会でのことでした。
整列した青年たちが敬礼し、軍靴を鳴らし行進します。情熱に燃える彼らのまなざしは……
首相の座を手に入れた、アドルフ・ヒトラーに注がれていました。
【第一章・終】