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ナチス将校、溺れて屈する。  作者: 秋乃まことゑ
第一章 クラクフの広場
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三人の出会い

 ドアベルが鳴ったとき、私とスレヴはお店の隅で絵本を読んでいました。

 くたびれた身なりの男性が、玄関でためらいがちに立ち尽くしているのを見て、スレヴのお父さんは優しく「御用ですか」と出迎えます。

 男性は少し後ずさりして、だけど必死に威厳を保とうとしているような調子で言いました。


「これを直してもらいに来た」


 男性は横柄な態度で、査定台の上へ金時計を滑らせました。

 そんな珍しい品物は初めてでしたので、私は思わず身を乗り出してしまいました。


「おじさん、これなぁに?」

「ヴィーシャ、大人しくしていなさい」


 スレヴのお父さんに止められても、私は動じません。好奇心旺盛な性格でしたから。

 その金時計は私の手のひらにおさまるかどうかという大きさでしたが、細かい彫刻がびっしりと施され、子どもの目にも相当高価な品だろうということがわかりました。


「ねえ、スレヴ、見てちょうだい!」


 私が振り返ると、彼の視線はちがうところへ釘づけになっていました。

 そこで初めて、男性客の後ろにたたずむ少年に気がつきました。

 頬は緑の脈が透けて見えるほど白く、()せたブロンドの髪、細すぎる手首と脚は転んだらポッキリ折れてしまいそうなほどでした。

 ただし少年の青い瞳だけが、ギラギラと生気をみなぎらせ、猟犬のようにこちらを睨んでいました。


「ヴィーシャ、スレヴ、奥へ行っていなさい」


 普段より少し低い声で、スレヴのお父さんが言いました。スレヴが慌てたように私の腕を引っ張ったとき——

 どこからかハトがのどを鳴らすような音が聞こえました。私たちは振り返り、その音の出どころを探しました。

 青い瞳の少年の、うすい皮膚が真っ赤に染まっていました。

 その音はお腹がすいた知らせだったのです。

 食べ盛り、育ち盛りの年齢としては、なんら恥じるものではないはずでした。それなのに、少年はまるでオネショでも見つかったかのように、ぷるぷると拳を震わせて、耐えがたい屈辱と言わんばかりです。

 異様な反応は、父親のほうも一緒でした。


「恥知らずめが!」


 いきなり少年を叱責し、彼のちいさな身体の胸ぐらを掴んだのです。


「貧乏人みたいに物欲しそうな顔をしやがって! おまえには一族の誇りってものがないのか!?」


 男性の荒々しい呼気は、店の中にむわっと酒のにおいを広げました。


「おまえのような食い扶持(ぶち)がいるせいで、オレがどれだけ迷惑しているかわかるか!?」

「お客さん、ちょっと、待ってください」


 スレヴのお父さんが間に割って入ります。


「見たところ、お子さんは栄養が足りていないようだ。この金時計を手放すのは惜しいでしょうが、売ってくだされば換金しますよ」

「欲深いユダヤの民め。誰に物を言っている」


 ぎょろりと血走った目玉が、スレヴのお父さんを睨みました。


「皇族の証たる時計を、おまえなどに渡すものか」


 私は憤りを感じました。

 自分の子どもがお腹を減らしているというのに、時計の方が大事だなんて!

 スレヴのお父さんも同じことを思ったのか、やれやれと首を振って、ぶ厚い帳簿を開きました。


「そのように大切な品なら、一日二日で修理できるはずもありません。今日は《遅延代》として前金をいくらかお渡しします。息子さんに滋養のある物でも食べさせてやってください」

「施しのつもりか!?」

「とんでもない。庶民なりのご機嫌とりです」


 私は首を傾げました。

 普通なら、お金を払うのは、お店に来たお客さんの方ではないのかしら?

 スレヴのお父さんは、前金にしてはびっくりするほど高い額を渡して、男性を黙らせてしまいました。


「ただし、時計は一旦預からせてもらいますよ」


 彼は何かドイツ語で言い捨てて、少年を追い立てながら、店を出て行きました。


「——やれやれ」


 スレヴのお父さんがため息をつきました。


「去年の大恐慌から、あんなお客さんがたくさん来るんだ。やり切れないよ」

「だいきょうこう?」

「仕事やお金が無くなって、困っている人がたくさんいるんだ。だから、金銀や宝石をお金に換えようとして、みんながここにやってくる」

「どうして? この店がお金持ちなの?」

「ははっ、そんな訳ないだろう。ただ少し、珍しい品を買い取ってくれる人を知っているだけさ」


 そして優しく「ヴィーシャのお父上からの仕送りもあるしね」と、頭をなでてくれました。

 鉱工場を経営している父は忙しく、会えるのはクリスマスの前後くらいでしたが、そのぶん手紙や小包みなどが頻繁に届けられていました。


「さ、お前たちはもう部屋に戻りなさい。夕食まで、いい子に絵本を読んでいておくれ」


 私たちは返事をして、お店の裏口から階段を上ろうとしました。

 しかしスレヴが私の袖を引いて、ささやきました。


「あ、あのさ」

「なぁに? 次はスレヴが読むの?」


 私はちょっと困った気持ちで返事をしました。

 こと朗読に関しては、私の方がスレヴよりも上手だったのです。彼はわずかに吃音(きつおん)があって、知れた者のあいだでしか話そうとしませんでした。

 彼の「話し慣れたい」という意欲に付き合い、つっかえつっかえの朗読を聞くことは、当時の私にとっては少し退屈な時間でした。

 スレヴは戸惑う私を半地下の台所に連れていきました。


「あの、お、男の子」

「どうかした?」

「きっと、食べさせて、もらえない」


 私は黙ってスレヴの背中を見つめました。彼はいつも、私の思わぬところに注目するのです。


「さ、酒のにおいがしてた。きっとウォッカを、た、たらふく飲んで、おしまいだよ」

「ええっ!? だったら、お金を渡しちゃダメじゃない!」

「うん、父さんも、わかってる」


 だから金時計を人質代わりに置いていかせたんだ、とスレヴは教えてくれました。

 そして恐らく親子はクラクフに来たばかりで、頼れる知り合いがいないのだろう、とも。


「きっと、と、時計を口実に、資金繰りをしたかった、んだと思う。仕事を探すにも、まずは元手がいる、からね」

「それなら最初っから『仕事を紹介してくれ』って言えば良かったのに」

「ん、みんな、ヴィーシャみたいに、素直じゃないんだよ」

「それ、褒めてるように聞こえないわ」


 スレヴはようやくこちらを向いて、にっこり笑いました。

 彼のまなじりは、いつも下向きで柔和な表情だけど、笑うともっと垂れ目になるのです。


「君は、そのままでいてね」


 私の頭をなでたスレヴの温かさを、今でもありありと思い出すことができます。

 優しい人。繊細な人。

 今ならその理由がわかります。欧州で長く追われて来たユダヤの人々が、ポーランド国内でもどれほど差別を受けていたのか。

 まだ戦争が始まるまえ、ユダヤ人を憎んでいたのは、ドイツ人よりもむしろ、東欧のブルジョワ階級だったと言えるでしょう。

 そんなことも知らず、まだ8歳だった私は、スレヴが何のために台所の戸棚を開けたり閉めたりしているのか、わかりませんでした。


「スレヴったら、どうしたの?」

「あった!」

「何が——」


 スレヴが見つけたものは、ホールケーキほどの大きさの、紙袋に包まれたものでした。包みの隙間から白いチーズが見えています。


「母さんが、保存用にって、し、しまっていたのを見たんだ」


 スレヴはそれを丁寧に包み直して、テーブルにあった黒パンも引っ掴みました。


「さぁ行こう。もしかしたら、お、追いつけるかも」


 彼の長い手脚が軽やかにはずんで、石畳を駆けました。

 スレヴの黒いくせっ毛は、子犬のようにフワフワと揺れていました。そこかしこで明かりが灯って、日が沈んだばかりの空を彩り、レンガ造りの建屋が並ぶ小道から、夕飯どきの良い匂いが漂ってきます。

 そして、にぎやかな広場の一角で、たった一人、所在なさげに小石を蹴る男の子……。

 私は思わずアッと声を上げ、少年はあの射抜くようなまなざしで、こちらを(にら)みました。

 頬はさらに青白く、スレヴの言った通り、食べさせてもらった様子はありません。


「よ、よかった。きみを探して、たんだ」


 スレヴはどこか緊張したように、おずおずと包みを差し出しました。


「こ、これ、チーズと、パン」


 スレヴの意図に私もやっと気がついて、言いました。


「どうぞ食べて。今にも倒れちゃいそうな顔してるわ」


 自分なりにほほ笑んだつもりでした。しかし、少年にはどう見えていたのでしょう。


「黙れ!」


 瞳が青く光ったかと思うと、スレヴが突き飛ばされていました。

 たぶん、私は驚きに叫んだはずです。

 厚意だったはずのチーズやパンは、残念にも道のうえで小石と一緒に転がり、幼かった私には、その理不尽の意味が分かりませんでした。


「おまえたちのせいで、俺の弟はミルクも飲めない!」


 おまえたち——それはユダヤ人を(さげす)む刃のような言葉でした。だけどその刃は、少年自身をも傷つけたのかもしれません。

 彼は宝石のような目から涙をポロポロと零して、くちびるを歪めました。


「この、金の亡者が……!」


 私には分からなかった、彼の苦しみや葛藤のようなものが、スレヴには分かったのでしょう。

 侮辱を受けた優しいユダヤの少年は、肩をふるわせ怒る少年を、そっと抱きしめていました。

 そこで気がつきました。金髪のつむじの高さが、私と同じくらいだということに。

 あんなに威圧して大きく見せてはいても、本当は私と変わらない、ちっぽけな少年だったのです。


「——どうして」


 彼のドイツ(なま)りの声が、くぐもって聞こえました。


「どうして、あんなヤツに金をやったんだよ!」


 細くて白い拳が、狂ったようにスレヴの腕を叩いていました。


 こうして手記を書きながら、私は考えています。

 今なら、当時の彼——ザフィールに、もっと他の言葉をかけられたかどうか。いいえ、自信が持てません。

 差別も、貧困も、未だなくなってはいないからです。

 それでも、私たちの友情はこの日から始まったといえるでしょう。





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