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朧 OBORO  作者: 悠良木慶太
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「私は聖徳太子の単独的伝説には懐疑的だけど。今の教科書では厩戸皇子としているのかな。聡史君が言っていた物部、蘇我の対立は尾輿と稲目の時代からその子、物部守屋(ものののべもりや)と蘇我馬子に移っていった。両者の対立は激化して戦となっていった。物部氏は軍事を司る氏族だったから当初は優勢だったけれど童子だった聖徳太子が呪術を用いて物部優勢の戦を逆転させて物部守屋を討って蘇我の時代がやって来る。この出来事を『丁未(ていび)の乱』と言われているわね。

ここで、分かりやすく西暦で追っていくけど、聖徳太子の誕生は574年。用明天皇の子とされている。丁未の乱が587年、推古天皇即位が593年、太子が十九の時に皇太子になっている。宮室は豊浦宮(とようらのみや)。問題の遣隋使は601年に第一回があったとされるけど、当時の隋からは発展途上国扱いされ国辱的扱いされたらしく、隋を見習った国政を築く必要を感じた朝廷は603年に冠位十二階を制定して宮室を小墾田宮(おはりだのみや)遷宮(せんぐう)している。翌年の604年に十七条憲法を制定して律令制度の基盤を築いた。第一回遣隋使派遣時の601年に太子は斑鳩宮(いかるがのみや)を造営して605年に移り住んでいる。新制度を築いたにもかかわらず太子は宮室と離れて住んだのね。そして607年、小野妹子を使者として第二回遣隋使を派遣。本格的な隋との交渉が始まった。少し戻して斑鳩宮造営中の602年。百済から観勒(かんろく)という僧侶が来日する。この人が陰陽道や歴、天文学を伝えたとされているの。太子は宮室ではなく斑鳩宮に観勒を招き、選抜された優秀な官僚三十四名を集め当時最新とされる、これらの学問を学ばせた。私は、先に入って来ていた陰陽五行説という思想に、道教や儒教の術的要素を加えた陰陽道が加わったと解釈しているわ。」

寛美は二人の真剣な表情を見て微笑んだ。

「それでは、原初の陰陽師とは、その観勒か、三十四名の官僚と言う事になりますか?」

翔が聞いた。

「そうね。でも官僚全員が、皆のイメージするような陰陽道を学んで実践できたかどうかは定かではないの。各分野のエキスパートを育成していたと思うのが自然ね。とりあえず、日本史のお時間はここまででいいかな?これから、俊君が調べていた内容について私が勝手に大系立てて、翔君が知りたそうな事だけピックアップして話すね。」

二人は顔を見合わせる。

「今までのって。フリ。ですか?」聡史が代表して言った。

「うん。正史理解していないと『裏』の歴史が嘘っぽく聞こえて違いが分からなくなるでしょ。確認しただけよ。」

何事もなく寛美は言う。


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